第二話 事実は映画よりも
校門に辿り着く頃には、空はグレーに染まり、辺りは薄暗くなっていた。
ここ、グラウンドには、ほとんど生徒は残っていなかった。
サボったのに、学校に居るという状況が、なんだか優越感。
社会人になって、有給休暇を取った時も、恐らく同じ気持ちになれるのだろう。
僕たちは、その時まで一緒にいれるのだろうか。
気持ちだけでなんとかなると達観できるほど幼くはない。
かといって、明日があるさと、きっと裏切られるであろう希望を抱けるほどの人生経験は無い。
・・・笑い声が聞こえる。
つい、妄想の世界に入り込んでしまうのは僕の悪い癖だ。
校舎の方を見ると、髪を束ねた、赤いジャージの二人組。
つまり、部活動中の女生徒が、こちらをちらちらと見てはひそひそと密談していた。
今日はなんだか、心に余裕がない。
それは、プレゼントをしっかり用意できなかったからか。それとも、将来への不安か。
・・・暇は良くない。心が荒む。
特に僕のように根暗な人間には、哲学させる余裕を与えるべきではない。
無視できなかった理由は、小さな後悔の積み重ねなのだろう。ハインリヒの法則みたいに。
近寄る。荒い足取りで。
彼女達の音声が言葉になっていく。
「うわ、こっちに来てるんだけど。」
きゃはは、と笑い声を上げ、まるでペンギンが来たかのように興奮した様子。
・・・ああ、うるさいな。
「何部?」
とりあえずジャブを出す。
「陸上部です、ユッキー先輩!」
・・・しまった。思い出した。
ユキも今は部活中か?
いや、違う。放課後を空けるために、今日は休んでくれているかもしれない。
いずれにしろ、事前に把握すべきだったのは言うまでもない。
「あの、先輩って、ユキのお兄さんの?」
もう一人が質問した。良く見ると、知った顔だった。この子を僕は知っている。ユキの友達だ。
「そうだけど、君は・・・浅井さんだっけ?」
「はい。この子は江波って名前で・・・。」
おっとりとした垂れ目の浅井さんとは対照的に、活発な江波は、目をキラキラと光らせ、こちらから視線を逸らさない。
きっと、僕に興味があるのだろう。
「ユッキー先輩、チョコどうでした?」
予想通り。彼女の記憶は全く無いので、テンプレ反応で対応しよう。
「美味しかったよ。ありがとう。」
そして、目を合わせ、優しく微笑んでやる。
「食べてくれたんですね!ありがとうございます!やっぱり優しいですね!」
僕の何を以て優しいと言っているのだろう。
チョコを食べておいしかった、そんなのは小学生だって言える。
何も知らないくせに、勝手に喜びやがって。
まあ、そんな自慰行為で喜んで満足してくれるのなら、こっちとしても楽で良い。
「そんな事ないよ。ところで、ユキはどこ?」
と、聞いた瞬間、背後からの天使のような美声が、僕の鼓膜を揺らした。
「ユッキー先輩、帰ろうよ。」
振り向くと、寒さからか、朝よりも少し色白なユキが、嬉しそうに手をぶらぶらさせていた。
つられて、口角が上がってしまう。
こんな顔、他人には見せられないな。
「じゃあ、さよなら、二人とも。」
振り向かず、左手をサッと上げて、別れの合図をしてやる。
「ユッキーとユッキー先輩!また明日!」
江波さんの大きな声。屈託の無い友情?
・・・僕は少し誤解していたかもしれない。
なんとなくだけど、きっと彼女はユキの良い友達なのだろう。
「またね!」
ユキは年相応の仕草。元気いっぱいに手を振る。
二人で歩く、見慣れた道。
だが、帰り道とは違った方向だ。
家路につくわけではなく、僕たちの思い出の場所へと歩んでいるからだ。
「ねえ、二人とも可愛かったでしょ?」
「そうなんだろうね。」
僕の発言が、彼女の期待とズレていたからか、むっとした口をされる。
そのあまりの可愛さに、心臓を締め付けられる。
「ちょっと、別に遠慮しなくて良いって。そんなんじゃ嫉妬してあげないから。」
「嫉妬してくれないのか、悲しいな。」
「・・・今日はどうしたの?」
手を繋いでいたのだが、今度は腕を組まれる。
右腕から伝わる彼女の柔らかさが、興奮と安心を与えてくれた。
「何の心配だよ。別にいつも通りだろ。」
「疲れてる・・・でしょ?」
確かに、朝から彼女を喜ばせようと躍起になり、無駄に疲れた気がする。
でも、事の顛末を話してしまうと、せっかく用意したプレゼントがサプライズにならないので、話題を変えることにした。
「別に疲れてないし。それで、おじさんの映画館で何するんだよ?」
「行ってからのお楽しみに決まってるじゃん。あはは、ユッキーってさ、デート下手だよね。」
今度は僕がムッとする。
「仕方ないだろ。おまえ以外と付き合ったこと無いんだし。」
「そうそう。だから、結構最近までゲイだって思ってた。」
・・・確かに。
自分でも時々そうではないかと疑って、ネットで性の種類と分類に関して調べていた時期があった。
当時、自分は無性愛者だという結論に至った。
まあ、幸運にも、妹の汗の匂いがきっかけで、性愛のなんたるかを知ることができたのだが。
「そんなわけないだろ。毎日おまえとヤりたいのに我慢してるんだ。偉いだろ?」
「本人の前で言っちゃうんだ、それ。」
「あ・・・しまった。」
ユキと一緒だと、つい心の扉を開放しすぎてしまう。
だけど、こんなにあけすけに話したのは初めてかもしれない。
・・・やっぱり今日は調子が悪い。
「・・・我慢しなくていいよ。」
震えた声。明るい顔に刺す、一筋の不安の影。
言わせたみたいで、ちょっと罪悪感。
身体は正直で、僕は生唾をごくりと飲み込んだ。
でも、求めているのは身体の快楽ではない。
いつだって僕の理性は強すぎて、簡単に本能をコントロールしてしまうからである。
では、この衝動の正体はなんなのか。
きっと、僕は、彼女に自分の存在を刻みたいのだ。
だからこれは、社会的成功欲という理性が、形を変えて性欲として現れているにすぎない。
「今日・・・奪うよ。」
「そう、なんだ・・・うん。わかった。」
僕は危険な男だ。
暴走した理性は、理性が止めてくれる本能とは異なり、完全に制御不能である。
彼女が泣いても叫んでも、もう止まれはしない。
墜ちていくしかないのであれば、墜ちよう。どこまでも暗い奈落へ。
叔父の映画館に着いた。
ここは子供の頃からの遊び場で、よく鬼ごっこをしたものだ。
段差もあるし、座席の影に隠れてやり過ごすことも出来る。まさに最高の戦場だった。
それに、邪魔な客も、ここには来ないし。
というのも、何十年もこの映画館は放置されているのだ。
少なくとも、物心ついた頃にはもう何の上映もしていなかった。
何事もなおざりにしがちな叔父は、こんな巨大施設の事すら忘れているのか。
ともかく、そのおかげで、僕たちは楽しい子供時代を過ごせた。
「座って待ってて。」
僕は、たくさんある席を見渡す。
さて、どうしようか。
映画館で映画なんて見たことが無いので、どこがベストポジションかわからないぞ。
・・・悩んでいても仕方ないか。
僕は、中腹あたりの席に座った。
「ふう。」
一息つくと、すぐに映像と音が流れ出した。
画質が荒いな。さては、古い映画でも見るのだろうか。
まあ、ユキと一緒ならなんでもいいんだけど。
「・・・さむっ。」
誰も訪れていない為か、映画館は冷え切っていた。
とはいえ、空調はしっかりしているので、あっという間に心地よい室温になるだろう。
しばらくそのオープニングらしき映像を見ていると、やはりというか、男女が仲よさげに街を練り歩くシーンが流れた。
そうだよな、こういう日は恋愛映画に決まっている。
と、しばらくぼーっと思案にふけっていると、どさっと、隣にユキが座った。
「お待たせ。」
膝掛けに綺麗な手が乗る。もちろん握る。冷たくて気持ちが良い。
「ユキ、この映画って?」
「ずっと一緒に見たかったの。お兄ちゃんと、妹の、恋愛のお話。」
・・・ああ、あの映画か。
二年前の話題作。禁断の恋を描いた悲しい話。
まあ、当事者としては、勝手に"禁断"にして欲しくないのだが。
つまり、古いのはこの映画館で、画質が荒いのは、ここの機材のせいだ。
「僕もこれ見たかったよ。」
「私たちの場合、周りの目が・・・ちょっとね。ここなら気にしなくていいでしょ?」
僕たちにとって特別な場所で、ここじゃなきゃできない事をする。
なんてロマンチック。「抱いて」と言わざるを得ない。
「さすがユキ。デート上手。」
「へへへ。それほどでも。」
それから、会話は止まった。
映画に見入っていたというのもあるが、それ以上に、最近の僕たちは神経質になっていたからだ。
綺麗なガラス細工を取り扱うがごとく、僕は臆病に接していた。必然的に言葉を推敲してしまうわけで。
でも、救いがあったので、気まずくはならなかった。
映画が面白かったので、二人とも見入ってしまったのだ。
というより・・・なんて結末なんだ。救いが無い。
ただただ、妹を愛しているだけなのに、それが飛び降り心中に値する罪だと言いたいのか、この映画は。
「こんなに素敵なカップルなのに、誰も祝福してくれないね。」
それは、彼らの事か、それとも・・・。
「一緒に居たら、だめなのかな。」
「誰に駄目って言われても、僕がユキを離さない。」
「・・・うん。」
エンドロールが流れている。
僕らは、目を合わせたくなくて、ひたすらに文字を追いかける。
もし、今視線を交わしたら、戻れなくなると、互いにわかっているからだ。
今なら引き返せる。
2年間を無かったことにして、3年目を始めない。
そんな選択肢も、あるんだ。
だけど、僕がそれを選ばない事を、僕は知っている。
何よりも、ジャケットの内ポケットの4つの膨らみがそれを如実に表している。
そして、とうとう、エンドロールが終わり、音楽が止まった。
暗くなる室内に、空調の音だけが響く。
いつの間にか、暖かくなっていた温度。
過ぎていった時間。
成長していく僕たち。
だけれども、結んだ手は、変わらずに。
固く、固く、互いを強く感じるために。
「変わらないよ。何があったって。」
「そうだと、いいね。」
「いつか、僕らは不幸になる。祝福してくれる人なんて、現れない。」
それどころか、排除されていくだろう。
疎まれ、のけ者にされ、引き裂かれるだろう。
同じ状況だから、彼らの気持ちがわかる。
兄は、命を賭して、自らと、最愛の妹の正しさを、社会を否定することで証明したのだ。
「そうなったら、二人でドロップアウトする?」
「うん。でも、もっと楽しい事をしよう。行ったことのない場所を、見に行こう。新しい思い出を作るんだ。」
「あはは。ちょっと楽しそうかも。ねえ、今度二人で旅行に行こうよ。」
それができたらどんなにいいか。
二人の遠出は両親に疑われる。
そうしたら、全てが終わるから、行けない。
だけど、妄想するくらいなら、いいだろう?
僕は、彼女の方を向き、頷く。
「うん。やっぱり、最初はレジャー施設?」
「よく分かってるじゃん。でもユッキーって高所恐怖症じゃなかったっけ?」
いや、単に臆病なだけだ。
だから、ジェットコースターの良さを、未だに理解できない。
ホラー映画もそうだが、なぜ恐怖という不幸を金を払ってまで体験するのか、理解に苦しむ。
「・・・お手柔らかに。」
「考えといてあげる。」
にやりと、いたずらな笑顔。
子供の頃に見た、いつもの表情。成熟した女性になっても、別に色気は無い。
身体だってそうだ。筋肉が付きやすい僕とは対照的に、何の肉も付いていない細っこい身体。
何もかも、ちっとも子供の頃から変わってない。
だから、わかったんだ。思い出したんだ。
「僕は、子供の頃から、ここで鬼ごっこをしている時から、ユキしか見えてない。」
「なにそれ。あはは。」
笑ってくれるのが嬉しい。真剣に返されたら、二の句を継ぐ勇気が無くなりそうだから。
「産まれてきてくれてありがとう。僕は、僕たちみたいな二人の子供を、君と育てたい。」
「遺伝子とか、すっごく濃くなりそうだけど、大丈夫かな?」
冗談らしい言い方で紡がれる言葉。
笑っていないと、駄目になる。
先行きに潜む障害に、目を背けない為に必要なんだ。
「孫ができたら、縁側でお茶でも飲みながら、知らんぷりしようか。」
「あはは、最低。」
「ああ、最低だな。あはは。」
僕たちの声は、音程は違えど、良く似ている。
二人で話していると、まるでデュオで音楽を演奏しているかのように、綺麗に混じり合う。
「ゆっきー、ずっと一緒にいてくれますか?」
「頑張って証明してみせるよ。」
僕は立ち上がり、彼女の方を向いて足下に跪いた。
内ポケットから箱を一つ取り出して、彼女に指輪が見えるように開ける。
お馴染みのプロポーズにしようと決めていた。
僕らの恋は"禁断"なんかじゃないから。
「ユキ、これからは結婚を前提に付き合おう。」
勇気を出して顔を見つめたかいがあった。
嬉しそうに、柔和に微笑む妹は、やっぱり世界一可愛かった。
「うん・・・いいよ。こんなに格好悪いお兄ちゃん、放っておけないし。」
「え?」
予想外の言葉に、キザな自己イメージが崩壊する。
「あははは!私、こんなに指太くないよ!」
ぎくっ、と、咄嗟に指輪を見る。
なぜだ。密かにサイズは計ったはずなのに。
って、ああ・・・これ、僕用だ。
そりゃそうだ。
4個中2個が僕の方の指輪なんだから、50%で外れを引いてしまうのは当たり前だ。
「うわ、最悪。」
がっくりと肩を落とそうとした。
でも、凄い勢いで飛びつかれ、体重をかけられたせいで、彼女を支えるので手一杯だった。
「大好き!ゆっきー!」
耳元で叫ばれる。今なら鼓膜を破壊されても、文句は言えない。
左手で後頭部を撫でてやる。小さな頭、柔らかな髪。
「僕も、ユキが・・・好きだ。」
言えた。
天邪鬼な僕でも素直になれた。
「ねぇ・・・する?」
彼女に問わせてしまった。
無論、僕から言い出すべき事なのに。
でも、どうでもいいや。くだらない完璧主義なんて捨てて開き直ってしまえ。
「うん。優しくする。」
「・・・うん。」
休憩室へ向かおう。
二人でお菓子を食べたり、昼寝したりした、思い出の場所。
変わることのない愛を証明する必要などない。
僕らは追い詰められているから。明日には会えなくなるかもしれないのだから。
だから未来なんて、考える必要が無いんだ。
ただ、ここで始まった二人きりの共同生活の延長線上に、身体を交える行為があるだけ。
願わくば、一日でも長く、彼女との物語を紡げますように。