生きるってどういうことだと思いますか?
放課後の校庭には運動部の掛け声が喧騒となり響き渡っていた。
校舎内には二人、世界から切り離されたかのような静寂が広がっていた。
時の止まった校舎の中、自分の鼓動だけが生きていた。目を閉じる。あとはただ断られるだけでいい。これで俺の片想いは終わる。
玉砕覚悟の告白に彼女はまだ返事をくれないようだ。俺は緊張と諦観を胸にもう一度強く目を閉じた。
「・・・・・殺させてくれるなら・・・。」
いつも通りの遠慮がちな声で紡がれた告白の返事は、それとは思えぬほどにイビツな響きだった。
本来、こんなことを言われれば失敗したと、振られたと思うだろう。
けれど俺は〝付き合うのは良いけどそのあとは死んで欲しい〟という文字通りの意味、理由を俺は考慮し得なかった。
実際彼女は俺に嫌悪を向けているようには見えなかった。だが平然と人を殺したいと言うその裏には何かしらの理由があるように思え、ここで承諾すれば本当に殺されるという直感があった。それほどに彼女の瞳は冗談を言う人のそれとは異なっていた。
「じゃあ、それでも良いです。」
俺は自然とそう答えていた。
断るべき申し出を受け入れた俺だったが不思議と後悔は湧いてこなかった。突拍子も無いことに感覚が鈍っていただけだと言われればそうかもしれない。ただ一つ、自分が彼女に殺されたがっているという可能性には目を伏せた。
翌日の朝、起きるのにはまだ早い時刻だが俺は目を覚ましていた。いつも起きなければならない時間より早めに起きて携帯をいじる。習慣だった。そんな慣れきった朝の一時、一通のメールが届いた。メールなんて社会人の業務連絡ぐらいでしか使われないようなこの御時世に高校生の俺にメールが届くことなど殆ど無い。いつも通りの朝、珍しく届いたメールの存在は俺に奇妙な違和感を与えた。時間を確認すると支度を始める時間だったのでメールは電車で読むことにした。
俺は電車に乗るのが嫌いだ。満員電車ほど辛いものも無いけれど、それ以上に人の目を気にしなければならないあの空間が俺は嫌いだ。電車の中でゲームをしようものなら興味本位で覗き込まれるかもしれない。動画や画像も然り。だが実際そんなことをされた経験は無い。けれど他人が俺に興味を持っていないと分かっていても、そう感じてしまう自分がいた。そんな俺にとってメールを見るという、誰から見ても面白味の無い用事があることは俺の駅への足取りを少し軽くした。
電車に乗り込みメールを確認してみる。彼女からだ。期待に胸を少し高鳴らせながら本文を開いた。
『おはよう』
メールは一言だった。
・・・・まじかよ、それだけ....?
残り十分以上『おはよう』の文字を見続ける趣味など俺には無い。少々苛立ちながら例のメールに『おやすみ』と返信して、俺は大人しく本でも読むことにした。
教室に入ると、まだ人はそんなに多くない。いつも通りだ。特にすることが無く、人に話し掛けるのが苦手な俺は突っ伏して始業時間まで待った。
放課後は塾がある。受験生の俺には抗いようもない。就職や専門学校、推薦の奴らが少し羨ましい。新学期の九月、受験生には大事な時期だが、俺はあまり勉強していない。いや、できていない。胸の痛みと苦しさでそれどころではなかった。問題集を開いてみても、あの人のことが頭を過り、全く集中できなくなっていた。
だからあの日清算するつもりだった。告白して振られてそこで割り切って、彼女のことを忘れようと思っていた。告白を決意してから一月後、結局その思惑は思いがけなく失敗したのだった。もし振られなかったら・・・
その〝もし〟を全く考えていなかった間抜けな俺に彼女はメールアドレスを教えただけだった。SNSが普及した今、どうしてメールなのかが腑に落ちず聞いてみたところ、SNSは入れていないらしい。
今のところメールも朝と夜に挨拶される程度で会話らしい会話は何もなかった。
もし俺が人に話し掛けるのを厭わない性格だったのならあるいは・・・
そんな妄想を振り払い意識を時計に向けた。もう放課後になっていた。俺は教室に一人だけ残ってボーッとしていたらしい。
帰り支度をしながら自分一人の教室を見回すと、突っ伏して爆睡している人がいた。
あぁ、彼女だ。放課後に特に理由もなく教室で寝ていることに笑いを堪えきれなかった。
いや、ほんとなんで居るんだこの人
なんで俺はこの人のことを好きになったんだろうと考えたが仕方がなかった。
そして起きる気配がなかったので起こすことにした。そうは言うもののどう起こしたら良いのかが分からない。とりあえず声を掛けてみたけれど、俺の声が小さすぎて全く聞こえていないようだ。机を軽く叩いてみたけれど反応はない。
はぁ....もうムリ・・・
俺は帰ることにした。
一応置いて帰ると罪悪感で潰れそうなので教室を出るときに一言言っておくことにした。
「早く帰らないと日が暮れますよ」
そう誰にも聞こえないようにボソッと言った。
俺はかなり優しい人間なのかもしれない。
その瞬間彼女はガバッと目を覚まし、こう言った。
「どうして逃げるの?」
こういう時何て言えばいいんだろうか。とりあえず挨拶しとけばなんとかなるというのが俺の経験則だ。
そうと決まれば善は急げだ。俺はにこやかに微笑み挨拶を口にした。
「おやすみ」
睨まれた。話題を逸らすのが良さそうだ。
「何でこんなとこで寝てたんですか?帰らないの?」
「んー、もう授業終わってたんだね。」
知らなかったのかよ。それくらい気づこうよ。可愛いなぁ。
「何でニヤけてるの?」
彼女が不審がって訊いてきた。
顔に出ていたようだ。誤魔化すか?いや、正直に言った方がポイント高いな。一応付き合ってるんだし。
君が可愛いからだよくらい言ってやるか。
(きみがかわいいからだよ)そう言ったつもだった。
「きみが、、、いか、だよ。」
何とか言い切って彼女を見ると、彼女は困惑していた。
恥ずかしかったので俺は今の発言を無かったことにして逃げるように教室を後にした。
塾には遅刻した。
帰り道にスマホを見ると彼女からメールが届いていた。
『私はイカじゃないです。』
何コレ?
どういうことなのかは分からないが、彼女は天然なんだろうということで無理矢理に納得することにした。
俺がこんな歪な人間になってしまったのは考え方が他人とはズレているからだと思う。そのうちの一つを話しておこうと思う。
俺は「好き」という言葉が、いや、その言葉を人に使うのが嫌いだった。
好きなアーティスト、作家、芸能人、そんな者はいない。ただ好きなのはモノだ。
気に入った人すべてを好きだと言い続ければ一体人生でどれだけの人を好きになるんだろうか?俺にはそれが怖かった。多くの人を好きになることで一人ひとりへの感情が薄れるんじゃないかと不安だった。
好きという言葉を人に対して軽々しく使いたくなかった。
好きな曲、好きな小説、好きな番組、それでいい。
だから俺はいつも、人に対してはこう言った。
『嫌いじゃない』と。
それがいつからか『好きではない』に変わっていたのではないだろうか?
俺はそのことに気付いていなかった。
それほど自分の持論に執着していた。
そしてその持論と感情との矛盾に苦しむようになったのは三ヶ月ほど前のことだった。
やたらと同じ場に居合わせる女子がいた。
同じクラスで選択科目が同じものが多かったからだけれど、何故か妙な違和感を感じた。
同じ授業を受けていて分かったのだが、彼女はそんなに頭は良くないらしい。運動も正直できる方ではないだろう。俺は内心見下していたのかもしれない。運動が人並み以下で、コミュニケーション能力も無く、顔も悪い俺はプライドだけは高かった。自分に何の取り柄もないことがいつも俺を苛立たせた。
俺は彼女を自分と同類だと思った。
勝手にそんなことを思われたら誰だって不快に感じるだろう。当たり前だ。
けれど俺がそんなことを思っているとは誰も知らなかったろう。俺は口に出していないのだから。そのうえ俺は人の顔を絶対に見ないように生活している。常に下を向いている俺の考えることなんて誰にも判りやしない。
俺が人の顔を見ない理由はいずれしなければならないと思う。
だが今は俺がひねくれた奴だと分かればそれで十分だと思う。
俺が彼女を同類だと思い込んでから数日のことだった。
俺はショックを受けていた。
鳥肌が立っていた。目が動かなかった。
直感で悟っていた。
『こいつは、俺とは違う』と。
俺は才能の塊を目の当たりにし、自分のことがいつも以上に醜く思えた。
そんな中、当の彼女は得意気な顔一つせず、いつも通り居眠りしていた。
それからというもの、俺は彼女のことを目で追ってしまうようになっていた。
けれど目が合うのが嫌だったので俺が見ていたのはいつも彼女の後ろ姿だった。
彼女を見ていることを気付かれるのが一番恐ろしくもあったのだ。
そんな俺の行動が不審だったのだろうか彼女に見られているような気がすることが増えた。
それでも俺は彼女に対して無関心なフリをしていた。
そのまま夏休みに突入し、彼女のことを忘れたままの夏を俺は過ごした。
だからだろうか。9月になり、登校日に見かけた彼女を俺は気にせずにはいられなかった。
どうして自分がそんなに彼女のことが気になっているのかが分からなかった。
そして俺は彼女のことを露骨に避けるようになった。視界に彼女を入れまいと視線に気を付け、すれ違わないようにあからさまに逃げていた。それでもどうしても彼女の後ろ姿を見ずにはいられなかった。
そこでようやく俺は目を逸らしていた恋という感情と対峙することとなった。
そしてその気持ちに片を付けるために告白した。
そんな経緯を思い浮かべているとスマホの通知がそれを遮った。
メールだ。誰からかは判然としている。
開いて見ると『受験終わった。大学受かってた。』とだけ。
相変わらずの無機質な内容に少し安堵した。
俺は派手な絵文字とかが嫌いなのでこの方が話しやすい。
彼女はそんなこと知らないんだろうけど。
「受験ねぇ・・・」
合格したということは多分AOなのだろう。
まずはおめでとうって言うべきなのだろうけれど、自分の受験が残っていると何だか羨ましく感じてしまう。
そんな気持ちを振り払い、
『おめでとう。今度の日曜は暇?』と簡単なメールを送信した。
自分から遊びに誘うのは初めてだがそんなに難しくもなかったな。
俺の天才的なコミュニケーション能力を持ってすれば当たり前のことだ。
どんな返し方をしようかと迷うはずがない。
時計を見ると、彼女からのメールが届いてから3時間経っていた。
日付が変わっているので返事は明日だろう。
明日も早いのでベッドに入ったが、緊張で眠れなかった。
重い瞼を擦りながら電車に乗り込む。
学校までは5駅なので少し寝ることにした。
もし目的の駅に着いたときに寝ていても同じ学校のやつなら起こしてくれるはずだ。
俺の学校は優しい人多いからな。
「終点~この列車は回送となりまーす」
聞き慣れない車掌のアナウンスで目を覚ました。
「ここ...どこ?」
どうやら誰も起こしてはくれなかったようで、また反対列車を待たなければならない。
遅刻....確定だな。
時刻を確認するためにスマホを見ると、彼女からメールが届いていた。
『日曜は暇。』と
遅れて教室に入ると教室中の目が俺を捉えた。
ヒソヒソと話し声が聴こえる・・・気がする。
多分俺の陰口を言ってるんだろう。
クソ共が。遅刻したのがそんなに悪いかよ。うるさいんだよ。黙ってろよ。
などと心の中で愚痴ってみても、慣れきった被害妄想では羞恥心は晴れなかった。
席に着く時に彼女と目が合った。
何だかニヤニヤしていた。
本来なら苛立っているところだが、何だか可愛いので許すことにした。
余程表情に出ていたのかクラスメイトの一人が俺を見てキモいと呟いていた。
妄想は現実になったらしい。
泣きそう。
休み時間は退屈だ。
クラスの連中は楽しそうに友達と話しているが、そんな奴がいない俺はただ突っ伏して寝たフリでやり過ごしている。
そんなときは周りの会話がよく耳に入る。
聞きたくもないのにな。
盗み聞きなんてクズのやることだ。
この俺がそんなことをするわけがない。
そう思いながらいつも通り耳を澄ました。
彼女はいつも仲の良い友達と話している。
彼女とは席が近いので話し声はかなり聞き取りやすい。
けれど聞こえてはいるのだが何を話しているのかまでは分からなかった。
そうこうしているとチャイムがなったので、少し損した気分で顔を上げた。
50分後に再び来る休み時間に嫌気が指したが今は授業に集中することにした。
「はぁ」
全ての授業を終え、大きめの溜め息を吐いていると、クラスの殆どはもう教室をあとにしていた。残っているのは10人ほどだろうか。
混雑した廊下を通りたくないので俺はしばらく教室で時間を潰すことにした。
放課後の教室は思っていたより静かだ。
三年は部活を引退しているのでそのまますぐに帰宅するのが普通だ。
学校に残っているのは何かしら用事がある人くらいなものだろう。
そして教室は俺一人になった....はずだったのだが、教室の隅に一人、うつ伏せで寝ているやつがいる。
あぁ、ほんと何してんのよ、この人は。
普段二人きりになる機会がほとんど無いので起きるまで待って、少し話してみようと思った。
日曜の件もあるしね。
2時間後
彼女はまだ寝息をたてていた。
....はよ起きろや。
ということでまた起こさなきゃならないらしい。
思い切って肩を揺らすと、「んっ」っと微かな声が漏れた。聴いたことのない艶やかな声に少したじろいだが、そんなことで一々反応していたら一生起きてもらえそうにないと思い、肩を揺らし続けた。
彼女が起きたのはそれから5分後だった。
もう外暗いよ....。
9月の中旬に差し掛かり、日の暮れもかなり早くなってきている。
俺は彼女と駅までの道を歩いていた。
本当は教室で話そうと思っていたのだが、完全下校時刻の間際だったので、帰りながら話すことになった。
ちなみに彼女は自転車で俺は電車通学である。
なので話せるのは駅までの道だけだ。
もっと話したいとは思うが、暗くなってきているのでそういうわけにもいかない。
「あのさ、どうして私に告白してきたの?」
それまでの沈黙を破ったのは彼女の方だった。
「それは..」
言いかけた言葉のその先は出てこなかった。
どうして、か。そういう風に訊かれるとどうも思い浮かばない。どう答えるのが正解なのだろう。
「理由、無いの?何となくなの?」
待ちきれなかったのか彼女が続けて問いかけてきた。
「もっと夏日さんのこと知りたかったからだよ」
ありきたりな理由だが本心でもあった。
「ふぅん」
かなり恥ずかしがりながら言った俺の返答に対して、彼女の反応は淡白なものだった。
「じゃあ、どうして俺の告白をオーケーしたの?」
少し気恥ずかしかったのでそのやり返しで同じように訊いてみた。
「どうしてだと思う?」
分からない。
「質問に質問で返すのは良くないよ、勿体振らずに教えてよ」
少し言い方がきつかったかも知れないが、そんなことを省みる余裕はなかった。
それに対し、彼女は微笑をたたえ、こういった。
「───死んだら、わかるのかな」
意味が解らず、聞き間違いかも知れないと思ったが、耳にはさっきの彼女の言葉が鮮明に焼き付いていた。
「それってど..」
「駅着いたね。じゃあまた明日ね。」
いつの間にか駅に着いていたようで、彼女は手を振り、自転車を漕ぎはじめた。
俺は段々と小さくなっていく彼女の姿を見つめることしかできなかった。
駅から近いという、うちの高校の唯一の長所が今日だけは恨めしく思えた。