第三話 豪商の夫人 ハンナ
前回のあらすじ:
初航海中、悪人に追われていた母親と赤ん坊を助ける。
九つの大きな島で構成されるカジウの海域は、大昔から海洋貿易が盛んだった。
だがそれ以上に、かつては海賊たちが横行する魔境だったという。
それがおよそ百年前、状況が一変した。
後に“南の海賊王”と呼ばれる一人の偉大な男が、カジウに棲む海賊団の全てを一つにまとめあげ、また従わない団は撃滅した。
そうして彼は、カジウに実質上の王国を築いた。海賊王国だ。
もはや敵なし。我が世の春。当然、カジウでの海賊被害は激増すると思われた。
が、現実は逆だった。
“南の海賊王”は以降、配下たちに妄りな海賊行為を禁じた。狙っていいのは外国船のみ。それも通行税や関税を支払うなら、手出し厳禁。
代わりに配下たちへは、真っ当な交易に精励するよう、命じたという。
結果として、海賊天国だったカジウは、商人たちの楽園となったのだ。
“南の海賊王”は、カジウの海を逆らう敵の血で染め上げて、その上に平和で豊かな一大海洋通商圏を作り出してみせたのである。
ものの本によって、「“南の海賊王”は若きころから平和なカジウを夢見て、敢えてその人生を死闘に次ぐ死闘で彩ったのである」と書かれていることもあれば、「彼は単に狡猾で強欲な男だった。事実、彼は実質上の王になった後、もはや指一本動かさずして、莫大な税収を懐に納めていたのだから」と書かれることもある。
誰にも否定できない、彼が残した偉大な実績以外は、謎の多い人物であったということだ。
“南の海賊王”は死の直前、彼の息子たちの中でも最も優秀だった九人に、カジウに浮かぶ九つの島それぞれを、縄張りとして分け与えた。
今日でいう南部諸島連盟の礎である。
九人の息子たちは、それぞれが大きな商会を営み、子々孫々受け継がれ、現在に至る。
それら九つの商会を総称して、カジウでは“連盟”という。
“連盟”はこれまで、商売上のライバル同士ではありつつも、表向きにも裏側でも確かに協力し合っていた。
互いの弱い部分を補い合い、強みを活かし合っていた。
そう、これまでの百年間はずっと――
◇◆◇◆◇
「アズーリ商会は、その“連盟”の一角だ」
俺はショコラに向かって説明する。
襲われていたハンナ夫人たちを助けた直後、一旦彼女らを招いた、“希望のマリア”号の甲板上のことである。
アリアも一緒になって聞いているが、こちらはさすが予習に余念がない。
そして、バルバス船長が冗談を飛ばし、豪快に笑った。
「“連盟”の面汚しって言われ方もするがな」
当の本人である、アズーリ商会党首の夫人の前でだ。
ハンナ夫人はバルバスをキッとにらみつけ、
「バルバス船長の仰る通りです。アズーリ商会の財力や影響力は、“連盟”の中で最も弱い。しかし、それは代々の党首が、あこぎな商売を戒めてきたからです」
赤子を抱いたまま、まるで仇でも見るような眼差しを向けた。
「それは失礼」
とバルバス船長はすぐに、躊躇なく謝る。
どうも夫人の気質や心胆を確かめるために、わざとバカにしたようだった。オトナの交渉術である。
「しかし、党首夫人であるハンナさんが、どうしてネルフ島から逃亡されるような真似を? しかも部下であろう人たちに追い立て回される羽目に?」
アリアが単刀直入に訊ねる。
実際、俺もそこは疑問だった。
ハンナはまた憂いに満ちた顔つきになると、とつとつと説明する。
「それは……今日、夫が毒殺されたから……です……っ」
「なんと、フェリックス殿が!?」
俺は思わず、大勢の目がある中で、攻略本を広げて確かめそうになった。
アズーリ商会党首フェリックスのことは、〈攻略本〉の『重要人物一覧』の項にも、さすがそれなりの分量で記載されている。
夫人の言葉に嘘偽りはなく、顧客の幸福も同時に願うような、誠実な商売を心がけている御仁らしい。
俺の頭の中の計画表では、誰か一人でいいから、“連盟”党首の協力が必要だった。
そこで〈攻略本〉をひもとき、九人の党首たちの情報や人柄ををチェックして、白羽の矢を立てたのがアズーリ商会のフェリックスだったというのに。
「毒殺とは穏やかではないな……」
「はい……振り返ってみれば、予兆はあったのです……。でも、まさかこんなことになるなんて……っ」
歯噛みするハンナ夫人。
夫が殺され、本当は泣き出したいだろうに、懸命に堪えている。
腕に抱いた赤子の重みが、彼女を気丈な母親にしている。
「その、予兆というのを聞かせてもらっても構わないか……?」
夫を亡くしたばかりの彼女に、語らせるのは酷かもしれない。
しかし、俺は確かめずにはいられなかった。
ハンナ夫人はやはり気丈に、やや声を上ずらせながらも答えてくれた。
「ヨーテルという男がおります。昔からアズーリ商会に仕えてくれて、三年前から主人が番頭に取り立てておりました。ところが最近は主人と折り合いが悪く、よく口論しているのを見かけました。わたくしは大丈夫なのかと不安に思っておりましたが、主人は『商売上の意見で、少し衝突しているだけだから問題ない』『ちょっと意見が食い違う程度で、人を遠ざけていたら、誰も周りにいなくなってしまう』と言うばかりで……」
なるほど、人格者らしい立派な態度だ。
「しかし、そのヨーテルという男が卑怯にも、ご主人を裏切り、毒殺したと?」
「はい……。和解したいと申し出たヨーテルに昼食を招かれ、信じた主人は出ていってそのまま……」
死に目に会えなかったと、夫人は哀しむ。
また、彼女に付き従ってきた、忠実な船乗りたちが口々に訴える。
「オレたちは旦那様についていったんです」
「それで、ヨーテルのクソヤローや手下どもとメシを食ってたんですが、旦那様がいきなり血を吐いたかと思うと、すぐ帰らぬ人に……」
「あいつ、狡猾にも旦那様の皿にだけ毒を盛りやがって……」
「おいらたちの皿にも盛ってあったら、誰かが先に気づけたかもしれないのに!」
「いや、俺らあが率先して、旦那様の皿を毒見すべきだったんだあ」
「バカヤロー! そんなことしたら、旦那様に叱られただろ!? ヨーテルを信用してないって言ってるようなもんじゃねえかっ」
「叱られたってやるべきだった! 旦那様がお亡くなりになるより億倍マシだ!」
「……そう……だな……」
「ううっ、旦那様っ」
ハンナ夫人が必死に耐えているのに、彼らの方がメソメソとしだす。
それだけフェリックスは慕われる党首だったということだろう。
「オレらは怒り狂って、ヨーテルどもに斬りかかったんでさあ」
「ですが、肝心のヨーテルに逃げられてしまって……」
「そこで頭が冷えました」
「まずは奥様とぼっちゃんの無事を確保すべきだって、慌ててとって返したんです」
そして、まさに襲撃を受けていた最中の夫人を救い出し、ネルフ島を脱したところで、ヨーテルの艦隊に取り囲まれていた。
そういう顛末らしい。
同情を禁じ得ない話だった。
一方で、〈攻略本〉にフェリックスの死が書かれていない理由も、確認が取れた。
〈攻略本〉の内容は、日の出ごとに最新のものに書き換えられる。今日の昼に毒殺されてしまったのなら、その情報が反映されていないのも当たり前だ。不運といえばそれまでだが……。
「俺ら犯人はヨーテルだって確信してますが、証拠があるわけじゃありません……」
「カジウ海洋警察に訴えるわけにもいかねえ」
「といってこのままじゃ、今度は奥様とぼっちゃんがいつ暗殺されるかもわかったもんじゃ……」
「アズーリ商会も、ヨーテルに乗っ取られちまったようなもんです」
「旦那様のお人柄や商才に惚れ込んでいた奴らでも、奥様やまだ赤ん坊のぼっちゃんについていくわけにはいかねえって人間が、大半でして」
「ヨーテルの野郎も、商才だけは間違いなかったんで。アズーリ商会をこのまま潰さないためには、内心どうあれヨーテルについていった方がいいって考える奴らばかりで」
「実際、商会がなくなったら、あっしらおまんま食い上げですからね」
「それでも奥様とぼっちゃんを見捨てるわけにはいかねえって考えたのは、ここにいるオレたちだけです」
「だからネルフ島を捨てるしかなかったんですが、かといって行く当てがあるわけでも……」
彼らは皆、一様に消沈する。
だからこそハンナ夫人はますます、毅然とした態度をとらなくてはいけない。
本当に嘆き悲しみたいのは、妻である彼女の方であろうに。
見ていて痛ましいとはこのことだ。
そんなハンナ夫人らへ向かって――
「提案があるんですけど」
と、アリアがいきなり言い出した。
夫人たちが何事かと、一斉に視線を集める。
アリアは彼女らを励ますよう、意識して明るい表情を作って、
「私はラクスタ商人マルムの娘で、アリアと申します」
「まあ! マルム商会と仰ると、ラクスタでも一、二を争う大店ではございませんか。わたくしどももよく存じておりますわ」
「ありがとうございます! で、私どもはこのたび、ネルフ島で商売を始めようと思いまして。よろしければ、協力し合いませんか? もちろんマグナスさんたちの強さはさっきご覧の通りですので、奥様たちの暗殺なんて絶対に許しません。そして、私たちには商品と人手がある。皆さんにはアズーリ商会で培った島での信用とノウハウがある。ね? お互いいいことづくめだと思いません?」
「願ってもないお話です、アリアさん!」
「奥様の仰る通りだ。俺らあどうせ行く当てなんかないんだ」
「よろしくお願いいたします、アリアさん」
「こちらこそお願いいたします、皆さん」
ハンナが深々と頭を下げ、アリアもお辞儀を返す。
それからアリアは俺に向かって、
「これでよかったですよね?」
「ああ。アリアが言い出さなかったら、俺から提案していたところだ」
以心伝心。何も言わずと思いが通じ合えるのが心地よい。
頭の中の計画表がやや狂ってしまったが、それでもこんなのは修正できる範囲だ。
予定通り、俺たちはネルフ島で荒稼ぎをする。
その過程でヨーテルどもをぶっ潰してしまうことになろうと――そんなものは些事にすぎないだろう?
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