第三十二話 青天の霹靂(ベリー視点)
前回のあらすじ:
光の戦士に選ばれたはずの、ある無責任な男が、ある卑怯な男の糧となった。
わたくし――ルクスン公女ベアトリクシーヌは、歴史学者の先生から受講していました。
算学などと違って、とても好きな学問分野なので、自然と身が入ります。
もちろん、算学の講義は疎かにしているという意味ではありませんわよ?
為政者の家に生まれた者の義務として、わたくしは公私の別をはっきりつける主義ですの。女官の格好をして、城の中を好き勝手に探検するやんちゃを好む一方で、習い事の類はそれがどんなに苦手なものでも、真剣に取り組んでおりますわ。
「ベアトリクシーヌ姫は兄君方と違い、熱心な生徒でいらっしゃるので、教え甲斐があります」
気難しいご老体で、たとえ大公家の人間相手にもズケズケと口を憚らない先生が、わたくしのことをそう褒めてくださるのは、密やかな自慢ですの。
それに、講義は二時間しかないので、一分一秒とて無為にしたくない意気込みで、いつも臨んでおりますの。
だというのに、今日は途中で異変が起きてしまいました。
なんだか急に周囲が騒々しくなって、講義に集中できませんの。
先生も苛々して、何度も中断になってしまいますの。
「これはどういうことか、少し調べて参りましょう」
場合によっては猛抗議してやるとばかりの剣幕で、先生が勉強室の外に向かおうとしました。
まさにその時ですわ。
わたくし御付女官であるニケアが、槍を装備するという物々しいいでたちで、部屋の中に飛び込んできましたの。
「姫様!」
「これはいったいなんの騒ぎですの?」
「エルドラ卿が若手騎士たちを率いて謀反を起こし、城内に攻め入ってございます!!」
……なんですって?
「青天の霹靂とはこのことでございますな。姫、ここは逃げの一手がよろしいかと」
「先生の仰る通りです! 早くこちらへ!」
「わかりました、そういたしましょう。ですが、父上や兄上たちは無事なのかしら?」
「……申し訳ございません」
ニケアは何をさておいてでもわたくしの元へ駆けつけてくれたようで、父上や兄上の様子は確認できていないということでした。
「これはマズいですわね……」
わたくしの独白に、先生もうなずきます。
ここまで状況を把握できないということは、城内がそれだけ大混乱に陥っているということ。
つまりはエルドラのクーデターが、それだけ怖ろしい速度で城内を制圧、分断――すなわち成功しつつあるということ。
「デイン卿と近衛騎士たちは、何をやっているのかしら……」
勉強室を出て、先生と一緒に廊下を速足で進みながら、わたくしはぼやかずにいられない。
「そ、それが、姫様……」
「何か知っているの?」
「確かな情報は知りません。しかし、城内のあちこちで叫び声を聞いたのです」
曰く――
ルクスンの最強騎士であるデイン卿は既に、エルドラに一刀の下に斬り伏せられている。
「本当ですの!?」
「ですから、私も自分の目で確かめたわけではございません。しかし、謀反人どもが得意げに勝ち誇り、近衛たちが悲鳴混じりに注進しているのを、耳にしただけなのです」
「……なるほど、理解しましたわ」
どうも、デイン卿が討たれてしまったのは、本当のようですわね。
もし虚報なら、デイン卿の健在を叫ぶ声だって、聞こえるのが当然ですもの。
まさかあのデイン卿が、一合もさせてもらえないなんて……。
わたくしが以前に〈人物鑑定〉スキルで見たところ、エルドラにそこまでの強さはなかったはず。
レイとの決闘の後に、あの男にいったい何があったというのかしら?
「……まさか」
エルドラが有している〈ユニークスキル〉の一つに、「目の前で他の〈光の戦士〉が死ぬたび、その彼のレベル分だけ、エルドラのレベルが上昇する」という不吉なものがありましたけれど……。
もし、そのスキルで〈レベルアップ〉したのだったとしたら?
レイが死んだなんて噂でも聞いていませんけど……行方不明のあと二人がエルドラの目の前で命を落としたのだとしたら、今ごろエルドラのレベルは30台に達していてもおかしくはありませんわ。
そして、もしこの予測が当たっていたら、エルドラは単騎でこの城を落とすことだってできるはずですわ。
そう、デイン卿たちがだらしないわけでは、決してなく……。
――と。
わたくしはニケアの後をついて廊下を進みながら、そんな風に考え事をしておりました。
その時、先生の鋭い声が聞こえ、わたくしは我に返ります。
「姫様、危ない!」
「え……?」
廊下の行く手から現れた若手騎士たちに、いきなり矢を浴びせられたのです。
先生はわたくしを庇い、身を挺して代わりに矢を受けてくださったのです。
「うううぅ……」
「先生! 先生! しっかりしてください! 急所は外れております!」
「貴様たち、なんと恥知らずなことを!」
わたくしは倒れた先生の容態を確かめ、ニケアは現れた三人組を糾弾します。
「お恨みめさるな。大公家の人間は皆殺しにせよと、新しき王たるエルドラ様の勅命でござる」
「恨むならば、我らを冷遇しようとした、我が身を振り返ってくだされ!」
騎士のうち二人が、再び弓矢をわたくしたちに向けて、構えました。
万事休す――
先生が諦めたように目を閉じ、ニケアが無意味を承知で精一杯に体を広げて、わたくしの盾となってくれます。
ところが、予想だにしないことが起きました。
三人組の残り一人が、いきなり抜剣をすると、仲間のはずの弓を構えた二人を、背中から斬り捨てたのですわ。
「き、貴様、何を!?」
「吾輩たちは、エルドラ様の旗の下に集った同志のはずだぞ!?」
「黙れ。オレは貴様らを同志だと思ったことなど一度もないし、エルドラにも内心、舌を向けていたのさ」
その騎士は楽しげに剣を振るうと、背後から襲った二人に対して、とどめを刺しました。
「おお、そなた、謀反に加担したふりをして、その実、大公家に忠厚き者なのですね!」
ニケアが安堵ともに、称賛を叫んだ。
「ハァ? バカを申せ、女官」
同志を背中から斬った騎士が、せせら笑った。
「オレはな、以前からベアトリクシーヌ姫の美しさに、目を留めておったのよ。ゆえにこのドサクサに紛れて我が館に連れ帰り、監禁して可愛がってやろうと、それで捜しておっただけのことよ」
その騎士は血濡れた剣を携えたまま、舌舐めずりをしながら迫ってきます。
死ぬよりも辛い運命が、汚らわしい男の姿をして、じりじりとやってきます。
「レイ……!」
わたくしは恐怖のあまり、思わずその名を呼んでしまいました。
「ククク、呼べばあの目障りなガキが、颯爽と駆けつけてくれる、と――そんな夢物語が起きるとでも?」
裏切り者の騎士はますます嗜虐的な笑みを浮かべて、鼻を鳴らしました。
「惜しい! 惜しいですなあ、姫! 確かにあのレイという、ガキ。なかなか目端が利くようです。どうやってこの謀反を察知したのか、いったいどこからどうやってこの城へ来たのか、いきなり同志たちの前に現れ、今は交戦中ですとか」
レイが駆けつけてくれているというの!?
この城に!?
「それは真ですの!?」
「真ですとも。ただし――」
裏切り者の騎士がニタァッと口角を吊り上げました。
「――城の前庭の方から、ひときわ大きな喧騒が聞こえてきませんか? あれがレイとマグナスやらいう連中と、同志たちが戦っておる音ですよ。今この場で姫を助けるには、少し遠すぎますな。いや、惜しい。惜しい。現実は、夢物語のようにはいきませんな」
ヒハハハハハハハ! とその騎士は高笑いしました。
本当に悔しいことに、その騎士の言う通りでした。
現実というのは、夢や物語のように甘くはなく、わたくしの思った通りにはなってくれませんでした。
今にもわたくしに伸ばされようという、その騎士の汚い手から、レイが守ってくれることはありませんでした。
城の前までは駆けつけてくれた彼が、間に合うことはありませんでした。
そう――
「あらあら、ごめんなさいね? 現実は夢物語みたいに甘くなくても、夢物語がだ~い好きっていう人間は、どこにでもいるのよ?」
突如として現れた美女が、帯剣もしていない素手の一撃で、その騎士を首を無造作に刎ねて、レイの代わりにわたくしを助けてくださったのです!
「どなたですの!?」
「エリス・バーラック」
聞いたことのない名前に、わたくしは当惑してしまいます。
「大公家にゆかりある御方ですの……?」
「いいえ? ルクスンや大公家がどうなろうと知ったことじゃないし、実際あなたの御父君や兄君たちはもう皆殺しになっているし、なんならこのクーデターを使嗾したのはこのあたしよ?」
エリス・バーラックと名乗る者の口から、衝撃的な事実が次々と出てきます。
さしものわたくしも打ちのめされてしまいます。
「では、なぜ!」
「大公家なんかどうでもいいけど、レイには一つ借りがあるの。だから、あなただけは助けてあげる。このあたしが守ってあげる」
エリスは男だったら誰でも一目惚れしてしまいそうな、チャーミングなウインクをしてみせました。
「だから、姫様? 望みを言ってごらんなさいな。逃げたいというなら安全な場所まで送ってあげる。この謀反の顛末を見届けたいというなら特等席を用意してあげる」
まるで物語に登場する悪魔みたいに、エリス・バーラックは甘い言葉をささやきます。
しかし、わたくしには他に選択はありませんでしたの。
「無論、見届けますわ! レイがこの愚かな謀反を収め、大公国を救ってくれるその様を!!」