罠
練は一人でマリーの書庫に戻ってきた。
「お、お帰りなさいなのです」
迎えたレイチェルは、何故か妙に緊張した面持ちだった。
「お待たせ、レイチェルさん。何を自習していたんだ?」
少し頬を紅潮させ、レイチェルが練に歩み寄った。
「あの! レン先生! 渡したいものが、あるのです!」
「渡したいもの?」
「これなのです!」
レイチェルが両手を練に差し出した。
重ね合わせた小さな手のひらの上。
明らかに魔法処理されていると一目でわかる、紅い宝石がある。
「それは?」
「|護符《アミュレット}だそうです!」
「護符?」
練はまじまじと紅い宝石を見た。レイチェルの手のひらに収まるサイズの紅い宝石には、微細な術式がびっしりと刻み込まれている。
細かすぎて、虫眼鏡でも使わなければ術式がきちんと読めそうにない。
「……これは……よく見えないが、術式は召喚系のような?」
(術式の圧縮保存だな、これは。何らかの魔法が封じ込まれている。護符にはよくあるタイプだが……うさんくせえな、何かよ)
うさんくさい。
練も、護符にそんな印象も持ってしまった。
受け取ろうと上げかけた手が、中途半端なところで止まる。
レイチェルの表情が曇った。
「……あの。受け取ってもらえないの……です?」
泣き出しそうな顔。消え入りそうな声。
突っぱねられるほど、練は薄情ではない。
「いや、せっかくだからもらうよ。ありがとう」
練はレイチェルの手のひらから、護符を受け取った。
途端。護符から魔法記述光跡が怒濤の勢いで噴き出す。
(トラップかよ、やっぱりッ! クソがッ! コイツは召喚系――ブラックドッグが来やがるぜ、練!!)
グロリアスがいち早く術式を読み取った。その読みに間違いがないと練もすぐ理解する。
ブラックドッグの自動召喚魔法装置。
それも一体ではなく、魔法が発動し続ける間、際限なくブラックドッグを召喚し続ける代物。
練が触れたと同時に発動したということは、練の魔力の固有波動が発動の鍵に違いない。
明らかに、練を狙ったトラップだ。
それが、護符の正体。
ブラックドッグは、真っ黒い身体に紅く光る眼を持つ異次元の魔物である。身体に対して頭ばかりが異常に巨大な、奇怪な犬のような姿だ。
生物になら何でも食らいつき、呑み込む習性がある。
呑まれたものは異次元に落ちると言われているが、確かめた人間はいない。
すでに護符は練の手を離れ、空中に浮かんで魔法記述光跡をはき出し続けている。
「きゃあああっ!?」
レイチェルが悲鳴を上げ、練の右腕にしがみついた。その行動が練の邪魔をする。
右腕にしがみつかれたせいで、右のポケットに入れている魔力『1』カードが取り出せない。
召喚魔法を無効化するための魔法記述無効化魔法の構成が間に合わず、召喚魔法陣が完成し、発動する。
「くっ」
歯がみする練の正面。
「ゴアアアッ!!」
召喚魔法陣から、一体のブラックドックが這い出てきた。
手を伸ばせば、届く距離だ。
明らかにこの世界の生物とは違う、強烈な異質感を全身から振りまく異次元の怪異が、人間を丸呑みできるほど大きく顎門を開いて再び吠える。
「ゴアッ! ゴアアアッ!!」
レイチェルがさらなる絶叫を上げ、いっそう強く練にしがみつく。
「いやああああっ!!」
「ゴアッ!!」
真っ赤なブラックドッグの眼が、練たちを見据えた。次の瞬間にも食らいつきそうだ。
このままでは、二人揃ってブラックドッグに呑み込まれる。
咄嗟に練は、自前の魔力『1』での最大効果を得られる魔法を行使する。
魔法記述光跡の発生は一瞬、ごく少量。ブラックドッグの目の前に、極めて小さな魔法記述光跡の球体が出現。
「レイチェルさん、眼を閉じて! 閃光、起動ッ!!」
魔法記述光跡の球体が、カッと真っ白い光に転じる。
ライティングの応用魔法『閃光』。
魔法効果の持続時間は極小、光量は魔力次第だが、練の『1』であっても不意を突けば充分以上に目くらましとなる。
「ゴ、ゴアッ?」
ブラックドッグは怪異であるが、それでも視覚はあったようだ。閃光に眼がくらんだが、赤い眼を細めてきょろきょろとする。
「今の好きに逃げるんだ、レイチェルさん!」
「足、震えて、動け、動けまっ」
涙目のレイチェルが、ガタガタと震えていることに練はやっと気がついた。
どう考えても、この状況を予測などしていたように思えない。
――この子も、誰かにはめられたのか。
誰か。
練にも思い当たる人間が一人だけいるが、それの話をしている暇はない。
(練、次が出てくるぜ! あの召喚魔法陣を無効化しねえと!)
「わかってる! レイチェルさん、とにかく離れてくれ! そっちのポケットのカードがないと、どうにもならないんだ!」
「う、腕、か、かか、固まって、しま、しまって! ふえええええんっ」
レイチェルは、半ばパニック状態だ。強引に振りほどいたとしても、すぐに抱きつかれてしまうだろう。
こうしている間にも、さらなるブラックドッグが召喚魔法陣から現れる。
――まずい。まずい、まずい、まずい!
(どうすんだ、練! このままだと二人揃ってコイツらに喰われるだけだぜ!)
自前の魔力『1』は使い切ったばかりで回復には一分ほどかかる。
首から提げている魔力『1』カードは、魔力の充填中で使い物にならない。
上着の右下ポケットに、六日かけて作った魔力『1』カードが一〇〇枚以上あるが、取り出せる右腕はレイチェルに封じられている。
万事休す、絶体絶命。
――せめて、この子だけでも!
どうにかしてレイチェルを逃がせないかと考えた練の耳に、
「練、これはいったいどうしたのよッ!!」
アリスの声が飛び込んだ。反射的に首だけで振り返る。
私設書庫の入り口に、アリスの姿があった。
「アリス! この子を頼む!!」
練はレイチェルがしがみついたままの右腕を強引に、渾身の力で外へと振りながら身を翻す。
上着の袖がビリッと肩から破け、すっぽ抜ける。
「ふえっ!?」
袖ごとレイチェルが、入り口のほうへと飛ばされた。
練は自由になった右手でポケットの魔力『1』カードを取り出そうとする。
「ぐっ?」
右肩に鈍い痛み。無理な動きで関節か筋肉を少し痛めたらしい。
痛みが一瞬、練の動きを止める。
「練、後ろーッ!!」
アリスの必死な叫びに、練はハッとした。
振り向いた視界いっぱいに広がる、闇。
(クソがッ!!)
ばくんとブラックドッグが顎門を閉ざす音さえ聞かず。
練は闇に呑み込まれ、堕ちた。