麗という名の少女
ブーン。ブーン。
耳元で何かが唸っているのに気付き、練は目を覚ました。
唸っていたのは、マナーモードのスマートフォン。
机に突っ伏して寝落ちしていたため、耳元にスマートフォンがあったということだ。
身を起こして、軽く背伸びをする。左目の中、グロリアスはまだ宙に浮いて横になっている。眠っているらしい。
「うう。まだ眠い……誰だ、電話なんて」
練はまだはっきりしない頭のまま、着信相手をモニタでろくに確かめもせず、通話に応じた。
「もしも――」
『いっつまで寝てるのよ、練! さっさと出かけるわよっ!!』
鼓膜を貫く女子の大声。誰だと改めて考えるまでもなく、アリスの声だ。
「――出かけるって。俺が? 誰と? どこへ?」
『何よ紫音、話してないの?』
練に答えず、アリス。小さく紫音の声がスマートフォンから聞える。
『机に突っ伏してよく眠ってたから、起こしちゃ可愛そうかなと思って。たぶん、今起きたんじゃないかな』
『しょうがないわねぇ。とにかく練、みんなもう寮の外で待ってるから、さっさと支度して出てきなさい! 以上!』
練の返事を待たず、通話が切られた。
「……何なんだ、一体。さて、ベッドで寝直すとする――」
言葉の途中で、練の手の中で携帯電話がヴァイブレーション。
今度は着信相手をきちんと確かめる。アリスだ。
「……」
練は問答無用でスマートフォンを机においた。ややあって、留守番電話応答に切り替わる。
『着拒なんていい度胸じゃない! それならこっちにも考えがあるんだから!』
通話が途絶えた、その途端。練は視界の隅で光を見た。そっちに顔だけ向けると、床の上に魔法記述光跡が走る。
「転移っ? 誰が!?」
転移の魔法陣が完成し、すぐに発動。
「じゃーん! 迎えに来たわよ、練!!」
「悪いね。これもルナリアさまのためだから、断れなくて」
アリスと紫音が、部屋の中に転移魔法で現れた。
「あー、やっぱり準備してない! 仕方ない、よし! 紫音、やっちゃいなさい!!」
びしっとアリスが練を指さす。練はその指先をまじまじと見た。
「何を勝手に納得しているか、しらないが。紫音は、俺の味方だ。アリスが何を企もうが、俺のマイナスになることはしないぞ」
「ふっふーん。一つ勘違いしているようね、練。紫音の優先順位は、まずルナリア、次に練、あんたなのよ」
「いや、それは知ってるが。紫音はそもそも王女殿下の護衛ドロイドなんだし」
「ふっふふーん。だから、わかってないのよ。紫音はね、ルナリアのためなら何だってするの!」
「は?」
「というわけだから、ごめん、練。後遺症とかはでないから、そこは心配しないで」
紫音が片手を軽く練に掲げた。何だ、と思う間もなく一瞬で魔法記述光跡が発生し、練の頭へと宙を走る。
魔法の理解力がでたらめに高い練ですら、あまりに速すぎて魔法記述光跡の記述がほとんど読めない。
精神操作。
かろうじて、自分に使われようとしている魔法の種類に気付いた直後。
練の意識は吹っ飛んだ。
どことなく匂う、潮の香り。
よく晴れた青空をバックに、ゆったりと回っている巨大な観覧車。
練は、知っている。この大観覧車は、東京湾上に浮かぶ国立魔法技術学院のための人工浮島からも遠くに見えるものだ。
東京都の湾岸エリア、お台場。その一角にある複合レジャー施設。
いつの間にか、練はそこにいた。
「……は? 何で?」
練はきちんと私服姿だが、着替えた覚えはない。グロリアスに訊こうにも、練の徹夜作業に付き合った魔法の師は左目の視界で爆睡中。
夢でも見ているんじゃないかと、きょろきょろする。
右に、ルナリアとレイチェル。二人とも可愛らしい私服姿だ。どちらも清楚系のワンピースだが、ルナリアが大人びたデザインなのに対し、レイチェルの服はフリルが多めで可愛い系。
レイチェルは、こちら側の世界で顔を知られていないからか、返送の類はしていない。
ルナリアは、前に秋葉原に出かけた時と同じウィッグと帽子、眼鏡で軽く変装をしている。
左に、アリスと紫音。アリスはデニムのショートパンツにオーバーニーソックス、上着もスポーティなイメージだ。紫音は細めのパンツに綺麗系のシャツという男子でも女子でも着こなせるスタイル。
全員、ばっちり外出用の格好である。
「なあ、紫音。俺に精神操作系の魔法をかけたんだよな? これが、その結果か?」
「ごめんね、練。今日、ほとんど徹夜だったのは知ってるからさ、精神操作系の魔法で、眠ったまま行動してもらったんだよ」
「……問題ない。おかげで多少、頭はすっきりした」
練は自分の服装をチェックした。ごく当たり前の私服。財布、スマートフォンもちゃんと持っている。
そして。上着のポケットに、徹夜の理由――
試作品の魔力『1』カードが三枚、入っていた。
カードに、自分の髪を触媒にして魔力を封入する。練とグロリアスが考えたその技術は、理論はともかく実行が予想外に難しかった。
あれやこれやと失敗を繰り返し、どうにか完成したと思しきカードが、三枚のみ。
これとて、使ってみなければきちんと完成しているか、わからない。
――ま。試す機会はそのうち、あるか。
(……だな。自前の魔力と合わせて、四。できることは増えるぜ)
――起きたのか?
(おう。ちょうど、さっきな。何か面白そうなところに来てるじゃねえか。この、でっかい車輪……観覧車、だっけか? 学院島から見えるこれ、俺も来てみたかったんだぜ。よくまあこんな巨大なものを作って回すなんて考えつくよな、この世界の人間は、よお)
練は改めて大観覧車を見上げた。
「……確かに。単なる娯楽のためだけに、こんなものを作るなんて、人類くらいのものだろうな」
レイチェルが、ふんふんと鼻息を荒くして練の言葉に頷く。
「すごいのです、すごいのです! 遠くから見た時は、こんなに大きいなんて思わなかったのです! こんなすごいものが、この世界にはあるなんて、こうして見ても信じられないのです! 見に来て、ほんっとーによかったのです!」
興奮するレイチェルに、どこか疲れた顔で微笑するルナリア。
「……そうですね」
ついついと紫音が練の袖を引っ張り、耳に口元を寄せた。
「なんだ?」
「ふっ」
「い、息を吹きかけるんじゃないっ」
「あはは、ごめん。ふざける場合でもないんだよね」
ささやくような声で、紫音が続ける。
「外出してきたのは、レイチェルの希望でもあるんだけれど、ルナリアさまの気晴らしが一番の目的だから」
「……なるほどな。聖剣を折られた責任は、どう問われそうなんだ?」
「それは、何とも。過去にあまり例がないことだからね、今回はマリーのハンマーも砕かれたから、余計にさ。賢人議会でも元老院でも意見がバラバラらしい。どっちも色々と四王家に関わってるメンバーが多いから、意見が簡単にまとまるわけもないんだけど」
政治だからね、面倒くさいのさ。
そう紫音は言い加え、練から身を離した。
「と、いうわけだから。ルナリアさまには優しくしてもらえると、僕も嬉しいかな」
しぶしぶという感じで、アリスが練に告げる。
「ま、今日くらいはいつもより大目に見てあげるわよ。私としても、ルナリアにはこの難局を乗り切ってもらわないと困るし」
元はカミルの諜報員だったアリスだが、カミルに見切りを付け、今はルナリアに雇われている。
だがアリスの言葉は、単なる雇用関係からのものではないだろうと、練は察した。
この二人は、出会ってそれほど時間が経っていない割には、仲がよい。
それが、練という共通の相手への恋心のせいだと気がつかないのが、練という人間だったりするのだが。
練の左目の中で、グロリアスがにやにやとする。
――何だよ。
(別に。とにかく練、のんびりしつつ周囲への警戒は怠るなよ? いつ何時、またあのジオールドが現れるか、わかったもんじゃねえ)
――ああ。わかってる。
「紫音。他に護衛は?」
「今回は正規に学院長の許可をもらっての外出だからね。熱光学迷彩魔法で姿を消したジェンカが三体、警戒にあたってる。よっぽどのことがあっても大丈夫だよ」
「よほどのことか。予想外のことは――」
「ああああっ!! 練兄だーッ!?」
予想外の方向から、予想外の声。
ばっと練はそちらの顔を向ける。予想通りの姿が、そこにあった。
「麗? 何でここに?」
「何でじゃないよお! っていうか、お台場に遊びに来るなら教えておいてよ、もおっ。メールに返信ないし、ラインもほとんど既読スルーするんだから、練兄ってばっ!」
ふんすふんすと鼻息を荒くしてこちらにやってくるのは、練の従妹。
明星麗。
中学一年生。見た目は小学生でも余裕で通じる幼児体型。
「……って、あれれ?」
麗が足を止め、きょとんとする。視線を交えているのは、
「――――なんとびっくり、私がいるのです?」
と、レイチェル。髪と眼の色こそ違うが、レイチェルと麗の顔だちは、同一人物と言えるレベルでそっくりだ。
麗が慌てて、練の袖につかまるとレイチェルに対して身を隠す。
「だ、誰? あたし? あれれ、あたしはここにいるけれど、あれ? どうゆうこと? まさかこれが、噂に聞くドーベルマンっ?」
「……それを言うなら、ドッペルゲンガーだと思う。ドーベルマンは、犬だ」
「どっちでもいいよ! 説明求む! 大至急! 大急ぎで!」
どう説明したものかと練が考える間に、アリスが口を開く。
「やっはー、麗ちゃん。久しぶり! あっちの子は、レイチェル・ランス=ブリタリアっていうお姫さまで、麗ちゃんとはそっくりだけど、かんっぺき別人だから、安心してよね」
愛想たっぷりのアリスの言葉。
対し、麗は警戒心たっぷりの目を今度はアリスに向ける。
「あの。馴れ馴れしいけど、どちら様でしょーか。あたし、貴女みたいな知り合い、いませんけど。っつーか、あなたこそ、誰?」
「れーんーっ! こんなこと言ってる、麗ちゃん! いつか姉になる私に向かって!」
「……いや。いつか姉になるかどうかは知らないが。麗、あれは九年前に一ヶ月くらい家にいた、あの金髪の乱暴者だ」
レイチェルのことを訊かれた時とは違い、練はすぐさますらすらと説明した。
「ああ、なるほど! わかった、あの金髪の悪魔! って、嘘おっ!? 女の子だったのおッ!?」
心底驚いたというように麗が声を張った。
ぐぬぬ、とアリスが歯がみする。
「麗ちゃんまで、私を女だと気付いていなかったなんて……しかも、悪魔呼ばわり……」
「それだけのことをしていったということだ」
「それだけのことしたよねー。あたしのリカちゃん人形を丸坊主にしていったの、絶対に忘れてやらないんだから」
「そんなことしたっけ? あ、してるかも。してたら、ごめん。てへっ」
こつんとアリスが自分の頭を拳で叩いた。どうやら、何となく自分がしたことを覚えているらしい。
麗が、しみじみと言う。
「小さかったし、言葉も通じなかったから、乱暴だったことしかよく覚えてないけど。言葉が通じると、何かイラッとするね、練兄」
「……それを言ったら可哀相だ」
「イラッとするって? か、可哀相って? ちょっとあんたたち、兄妹揃って、それはないわっ」
顔を真っ赤にして怒るアリスから、麗が視線をルナリアに移す。
「金髪の乱暴者は、ほっといて。あっちの眼鏡の人。すっごい美人だよねっ! 練兄の友達? もしかして彼女とかっ? どんな関係っ?」
「俺と王女殿下の関係、か。それは――」
練の言葉を遮って、麗が声を張る。
「王女殿下っ!? それってもしかして、ブリタリア王国の!?」
「ああ。だから、粗相がないように。最悪、国際問題になる」
「こ、国際問題っ? そんなの責任、とれないよおっ?」
あたふたする麗に、ルナリアが柔らかく微笑する。
「大丈夫です。近い将来、妹になる貴女ならば何をしても全て私の責任で、問題などにさせませんから」
「ふえ? 妹? あたしが? どゆこと、練兄?」
麗が練とルナリアを、きょろきょろ見比べる。
練は真顔で答える。
「色々あって、俺はブリタリアの公爵になった。それで、ルナリア王女殿下の婚約者扱いになっている」
「ええええええええッ!? 聞いてないよお、そんなことーッ!! 練兄が、ブリタリアのお姫さまの、婚約者あッ!!??」
まったく人目をはばからず。
麗が、一キロ四方に響きそうなくらいの大声で叫んだ。