紫音の秘密
ルナリアとマリー の決闘騒動があったその日の、深夜。
練は自室で、魔法研究用のノートを開き、異次元探索魔法について思考を書き記す作業をしていた。
練の知らない言語で書かれた本を読むための自動翻訳魔法は、魔力『一』ではどうにも運用が不可能なため、理論構築のみで終わっている。
グロリアスに助けてもらいつつ、マリーの私設書庫で『多元平行世界と異次元の可能性』『神に等しい旧い竜の伝承』を解読しているが、それほど捗ってはいない。
マリーの書庫の本は、貴重な書物の例に漏れず、ほとんどの本は持ち出し禁止。その場での書き写しも禁止。
読んで記憶し、その後、自室に戻ってからノートにまとめるしかない。
作業の進みは芳しくないが、異次元に落ちたクラスメイト三条院道長を探して救出するための魔法は、基礎理論のみは構築できた。
その理論に間違いがないか検証しているのだが、今日はどうにも思考がまとまらない。
「……はあ」
ため息ばかりが漏れる。
今回のことは、自分に責任があるように思えて仕方がないのだ。
(おまえが考えてもしょーがねえことなんだって。そりゃ生真面目なおまえのことだ、ルナリアがマリーに喧嘩を売ったのに責任を感じるのも、よくわかるけどよ)
「俺が学院長に、王女殿下とアリスの私設書庫入室許可を頼めば、結果は違ったかもしれない」
(まあな。だがそんなものは、かもしれないっつーだけの話だ。今のおまえが考えるべきは、あのジオールドをどうやって倒すか、だ。それでルナリアとマリーの立場は救えるからな)
「俺が、ジオールドを倒す? それがどうして、ルナリアと学院長のためになるんだ?」
(それはだな)
「簡単なことさ。君が、そういう立場にいるってことだよ」
グロリアスが言い終える前に、練の背後、寮の部屋の仕切りカーテン向こうから、紫音の声がした。
「カーテン、開けてもいいかい?」と紫音。
「構わないが。今の、どういう意味だ?」
「そのままさ」と紫音がカーテンを開け、姿を見せた。
男物のワイシャツの裾から、すらりとした白い脚。ボタンも鳩尾の辺りくらいしか締めておらず、下着をつけていないのが何となくわかる。
練は慌てて横を向いた。
「見えてる」
「だから見ていいってば。っていうか、少年らしい青春のあれやこれやを持てあますようなら、僕が処理してあげなさいってソニアさまに言われてたりするんだけど? そっちのご用はないのかな?」
「とりあえず、持てあましてないから問題ない」
「ふぅん。にしては、一人でしてる様子もないような……」
「上手いことやってるから、問題ない」
(ぷ。真面目に答えるこたあねえだろ、こんな下ネタ)
「真面目だねえ、練は。そういうところも大好きさ。僕がドロイドじゃなければ、本気でくどくんだけどなあ」
くすくすと笑う紫音。練は話を強引に元に戻す。
「とにかく、だ。俺は、俺の立場がはっきり言ってよくわかっていない。何で、俺がジオールドを倒すと王女殿下のためになる?」
紫音が、ぱちくりと目を瞬かせる。
「そりゃ、こっちの世界の言葉で言うと、内助の功って奴だよ。夫が偉業を達成すれば、支えた妻も評価されるって、あれのこと」
「妻? 俺とルナリアは、まだ別にそういう仲じゃ……あ。すまない、呼び捨ては聞かなかったことにしてくれ」
「呼び捨てはもう、ぜんっぜん問題ないから。ブリタリアの元老院や賢人会議の年寄りの中には認めたがらない人もいるけれど、現ブリタリア王が君とルナリアの関係を認めた以上、表だって異論を唱えられるわけがない。
君はこの前の働きで、公爵という爵位を得たからね。事実上、王族扱いなんだよ、もう。王族が持つ基本的な権利は、全てあるんだ」
「まったくピンとこない」
「こっちにいるから、そうだろうけれど。あっち――ブリタリアに行ったら、大変だよ? 君に取り入ろうとする貴族や役人からの面会要請で、秘書を何人も雇うはめになるね、絶対」
「そうなのか? その割には、今は誰からも、何も言われないが」
「そりゃそうだよ。こっちに君がいる限り、君へのあれこれの窓口は、あのルナリア・ソード=ブリタリアなんだから。王位継承権二位の権限で、君に関するあれこれの申請、片っ端から全部、却下してる」
「……知らなかった。俺はずいぶんと王女殿下の世話になってるんだな」
「ま、その辺りの実務を執り行っているのは、王女殿下御本人じゃなく、王女殿下のお付きの秘書官とかだから、あんまり恩を感じなくてもいいと思うよ。
と、いうわけだから。もう、君とルナリアはセットで考えられているんだよ、ブリタリアじゃあね」
「ふむ。何となくだが理解した。そうか、俺がジオールドを倒せばいいだけか。シンプルでいい」
「倒す気かい? 本気で?」
「それで、ルナリアが聖剣を折られた責を問われずに済むのなら、何も問題ない」
紫音が面白いものを見るように微笑む。
「君は。ほんとうに、困難なことを簡単なことのように言うね。そして実際、成し遂げてしまう。尊敬するよ、心から」
(だとさ。何か策はあるのか、練?)
――なくはない。ちょうどいい機会だ、紫音に聞いてみる。
(何をだ?)
練はグロリアスには答えず、紫音に訊く。
「紫音はドロイドなんだよな? もしかして、ルナリアの『紅い涙』で動いているのか?」
紅い涙。
魔力を強烈に蓄積する一種の呪いを持つ、ルナリアの右目の魔眼から流れる余剰魔力の塊だ。
わずか一滴の紅い涙で、およそ一八〇〇の魔力。
魔法道具であるドロイドのエネルギー源としては、最上級のものである。
紫音が驚きを顔に出す。
「正解だよ。どうして気付いたんだい?」
「ジェンカたちが使う『限定解除』。リミッター解除のことだと推測しているんだが、その際、紅い魔力光を纏う。それは紫音も同じだった」
ジェンカも紫音も、限定解除というキーワードを口にして、性能を跳ね上げることができる。
練はその場面に幾度か居合わせ、ジェンカや紫音が人間にはありえない身体能力を発揮するところを、目の当たりにした。
「そうだね。僕も限定解除を使う時、確かに紅い魔力光が余剰魔力として漏れる。そうか、ルナリアさまの魔眼を知っているなら、連想できるのか……ソニアさまに伝えておくよ。って、改めて伝えなくても自動的に会話は向こうに筒抜けだけどね。
でも、僕たちのエネルギー源が、どうかしたのかい?」
「物質化しているとはいえ、あの紅い涙は魔力だ。俺もちょっと研究して、高密度の魔力ならば粒子化する方法を開発した」
「ああ! 今日、意図的にレイチェルに魔法暴走してもらって途中で無効化した、あれだよね! 驚いたよ!」
「粒子化すれば、集めた魔力の拡散速度は下がる。それでも、ごくわずかだ。王女殿下の紅い涙も、そのままだと短時間で魔力として蒸発してしまうんじゃないのか?」
「ああ、その通りだよ。なるほど、言いたいことがわかった」
一呼吸おいて、紫音が続ける。
「動力源として、あの紅い涙を使うのなら。紅い涙を安定して保存する方法が、あるのじゃないのか。そういうことだよね? 結論から言うと、ある。ただし、それはあの紅い涙に限っての話だよ」
「と、言うと?」
「ルナリアさまの魔眼は、ソード=ブリタリア家の初代女王エミリアさまから、ソード=ブリタリア家の女に限り、隔世遺伝的に出現するもので、あの紅い涙はすなわち、ソード=ブリタリア家の歴史に等しい」
「つまり。五〇〇年以上、高魔力源である紅い涙の利用と保存について、ソード=ブリタリア家は研究してきた、ということか」
「ご明察。見るかい?」
「え?」
唐突に、紫音がワイシャツの裾をたくり上げた。綺麗な形のへそが露わになる。へそから下については、練は徹底的に意識するのを避けた。
「だから、そっちも見てもいいって言ってるのに……ま、それはまた、気が向いたらね。今は、これ」
「!?」
へその下、数センチ。白い皮膚の下から、淡く、紅く発光するものが滲み出すように出てきた。
生糸を取る繭のような形、大きさ。
光は魔力光に違いない。紅が淡い色合いに見えるのは、繭のようなものが、白、もしくは白銀の細い繊維で出来ているせいらしい。
「……なるほど。ルナリアの、髪か」
(ああ。こいつは髪で編まれた一種の物理的、魔法的結界だ)
「一目で見抜くなんて、やっぱり練は凄いね。その通りだよ、これは紅石の繭という名のもので、ルナリアさまの髪でできている」
「魔法使い当人の魔力を何らかの形で物質化できれば。魔法使いの身体の一部を何らかの形で使えば、魔力を体外で保持できる、ということか」
(本来、魔力は魂の一部である魔力蓄積霊的構造に溜まり、魔法使いは、その魔力しか魔法に使えねえ。おまえのように、自分の中にない魔力を魔法に使える奴は、そういるもんじゃねえんだよ。
だから、魔力を何かで溜めておこうとか、考える奴はいねえんだよな、ほとんど)
ふむ、と小さく納得の息をついた。
「ありがとう、参考になった。それは大事なものなのだろう、もう締まってくれて構わない」
「ま、これこそが僕の最重要部品だからね。言わば心臓みたいなものさ。前に、胸に大穴開けられた時に、僕が言ったことを覚えているかい?」
「紫音の急所は、胸じゃない……だったか。納得だ」
「ま、人間だって腹をぶち抜かれたら普通に死ぬけれど、ね」
すーっと紅石の繭が紫音の白い肌に吸い込まれて消える。
「……で。いつまで、ワイシャツの裾をたくし上げているつもりだ?」
「はは、残念。その気にならないか、やっぱり。じゃ、僕はそろそろ休むことにするよ。練も早めに休もうね、たまにはさ」
紫音がくるりと身を翻し、自分のエリアに戻ると部屋の敷居のカーテンを後ろ手で閉めた。
練は机に向き直る。すぐに、ノートに考えついたことをまとめ始めた。
異次元探索魔法の理論でも、対ジオールドについてでもない。
『1』しかない自分の魔力を最大限、有効活用するための方法を、検討し始める。
練の手元を見ているグロリアスが、すぐに練の考えに気付いた。
(なるほど、な。こいつは……いけるぜ?)
「ああ。間違いなく、使える。道長を助け出したら感謝を伝えよう。あいつが、呪符を魔法に使って見せなければ、これは思いつけなかった」
ノウ無しと練を嘲り毛嫌いした三条院道長は、古い陰陽道の家系だ。
符術と呼ばれる陰陽道の技を近代ブリタリア式魔法に応用し、いくつかの攻撃魔法を練に向けて放った。
その時から、練は考えていた。
あの呪符。
自分でも何かに使えないかと。
「俺の魔力は『1』しかない。だが、たった『1』の魔力なら、紅石の繭ほど高度な代物じゃなくても、保存できるはずだ」
(ああ。ただのカードで充分だ。触媒は、やはりおまえの髪か)
「カード一枚を魔力『1』として運用できれば、カード一〇枚なら魔力一〇、一〇〇枚なら、魔力一〇〇。行使できる魔法の巾が桁違いに広がる」
(まあ、魔力カードをまとめて運用できるかどうかは、試してみないとわかんねえが。コイツはいい発案だぜ? 使える奴はたしかに限られるが、それでもブリタリアの魔法がまた発展する)
「とにかく、色々試してみよう」
この夜。練は一睡もせず、朝までかけて魔力カードの試作品を作ることになる。