まずは理科のお勉強
「さて。今日から俺が魔法を教えることになったわけだが。まず何か、わからないことは?」
「わからないことが、わかりませんです!」
練の質問に、元気よくレイチェルが答えた。
表情は、真剣そのもの。とてもふざけているようには見えない。
出鼻を挫かれた練は、少々戸惑った。
「そ、そうか。じゃあ、何から教えたらいいのか……」
(何にも知らねえと思って教えてやりゃあいいんだよ)
「何も知らないと考えて、教えればいいと思うよ」
練の中のグロリアスと、付き添いの紫音の意見が揃った。
高等部一年一組、午後の魔法学の時間に、練は紫音とレイチェルと共に、ここ、学院長マリーの私設書庫に来た。
レイチェルへの、魔法の指導のためである。
ルナリアとアリスは、高等部で授業を受けている。二人ともこちらに来たがったが、
「いざという時の護衛は紫音のみで充分。ルナリアとアリス、おぬしらがまとめて動くと目立ってかなわん。黒陽練が余計なやっかみを買うだけだぞ?」
というマリーの言葉に、二人はしぶしぶ引き下がった。
マリーの私設書庫は、書庫というよりもちょっとした図書館だ。
学院大図書館奥のフロア、蔵書数一〇〇万を誇るブリタリア蔵書コーナーほどの規模はないが、個人所有の蔵書としては、かなりのもの。
入り口以外の壁全てを埋め尽くした本棚に、びっちりと隙間なく納められた本の数は、マリーの言葉を信じるならば、ざっと一万冊はあるらしい。
練としては、真っ先にどんな魔導書があるのか書庫をチェックしたかったが、蔵書の閲覧は、レイチェルに魔法を教える報酬だ。
とにかく、レイチェルに指導を始めるのが最優先。
うーん、と練は考えること、しばし。
「なあ、紫音。ブリタリアでは、子供は親が魔法を使っているのを見て、魔法の感覚を覚えるんだよな?」
「ああ、そうだね。言葉を覚えるのと同じようなものさ」
「それなら何故、レイチェルさんは魔法の基礎すら理解していないんだ?」
「ランス家が、徹底してレイチェルから魔法を遠ざけたからね。ブリタリアは、子供が生まれるとまず潜在的な魔力量を確認するんだけど、レイチェルは知っての通り、でたらめな魔力量を持っている。生まれた時ですでに三〇〇〇は超えていたって聞いたけど」
「はいです。そのせいで、赤ちゃんの時から徹底的に魔法から隔離されて、育てられたのです」
「魔法から隔離……なるほど。子供の時に自然に身につけるべき感覚を、君は学べなかったのか」
こくりと頷くレイチェル。
「……物心つくようになってから、何度か初歩の魔法教育を受けさせてもらったのですが、結果は……」
「その度、暴走させた、と。そうか、わかった。じゃあまず、魔法とは何かから、少し話をしようか」
「魔法とは、ですか?」
「そう。魔法は別に特別な力じゃない。ブリタリアじゃ日常生活をしているだけで勝手に身につく便利な代物だと思われているが、それも違う。
魔法は、論理的な技術なんだ。何となくイメージすれば何となく効果が得られるなんてものじゃなく。
意志と論理と想像力で、自身の魔力蓄積霊的構造にある、空間の持つ潜在能力、すなわち魔力を、特定の現象などに変換する」
「意志、論理、想像力、ですか? よくわからないです」
「じゃあ、簡単な魔法を見せる。この前、君が暴走させたライティングだ」
練は、意図的にゆっくりと魔法記述光跡で小さな球状立体魔法陣を編んだ。魔力一しかないが、ライティングならそれで充分な効果が得られる。
魔法を発動させず、練は術式をキープする。
「これが、基本的なライティング。術式は読める?」
「ええと。それは本で学びましたから、ええとええと……はいです。全部はわからないですが、読めるところもあります」
「それならわかるな? この術式に『火』の要素はない、と」
「……はいです。ない、ですね――あれ。でも、光って火で作るのが普通じゃないです?」
「そこが、想像力の違いだ。光というのは、物理現象として説明できる。光が物理現象としてどういうものか理解できていれば、直接、光を発生させるイメージができる」
「よく、わからないです。ごめんなさいです……」
「いや、謝ることじゃない。紫音、ちょっと聞きたいんだが。ブリタリアじゃ、魔法の授業の説明に、科学を用いないのか? 学院からもらった教科書はいずれも観念的で、言ってしまえば『雑』な内容だったんだが」
「……その通りだよ、練。君が特別、魔法の理解に優れているのは、まさにそこなんだ。君はブリタリアの魔法と、この世界の発展した科学を切り離して考えない。むしろ積極的に関連させて考えているよね」
「普通じゃないのか? 魔法でも、精神系じゃなければほとんどが物理現象が効果なんだし、科学で現象は理解できる」
「うーん……まあ、普通じゃないと言えるんじゃないかな。多くの人は、魔法は魔法、科学は科学と別々に考えるから」」
(魔法で扱うのは物理現象であり、科学。それに気付いたのは、俺なんだがな)
「そう言えば、そうだった」
練の言葉は、紫音と同時にグロリアスへの返事になった。
紫音とグロリアスが、別々に練に言葉を返す。
「ブリタリアが、この世界と接触した二〇年前。ブリタリアの学者たちは、こちらの科学のおそるべき発達の度合いに、驚愕したんだ。そうした学者たちも、今ではそれなりにこの世界の科学を理解できるようになったけれども、正直、持てあましている。科学をどう扱っていいのかわからないんだよ」
(俺がこの世界の文化を、おまえを通して知り始めた頃。様々な現象が、様々な学問で原理を解明されていることに驚いたんだぜ。同時に、気がついた。これを魔法に応用すれば、近代ブリタリア式魔法なんざ過去の代物にできるってな)
「……なるほど。ブリタリアが、魔法が起こしている物理現象を理解することなく魔法を使い続けてきたせいか。実際の物理現象なんか知らなくても刃物は扱えるし、火だって起こせる――人類が道具を使い始めた頃と、同様に」
紫音が苦笑する。
「それだとブリタリア人が原始人みたいに聞えるなあ。まあ、科学に限っていえば、似たようなものかもしれないけど」
(まー、原始人みたいなもんだな、ブリタリアの奴らなんか。確かに魔法じゃなきゃできないこともあるが、多くは、こっちの世界の科学文化のほうがでたらめに進んでるからな)
「ふぅむ。そうか。そういうことなら――レイチェルさん。魔法を覚えるために、まずは簡単な科学……いや、理科から学んでみないか?」
練たちの話についてこられず、きょとんとしていたレイチェルが、その表情のままで小首を傾げる。
「りか、です? それは何ですか?」
「簡単に言えば、この世界がどのように出来ているか、の学問だよ。別に難しくはない。火がどうして燃えるのかとか、水が凍るのは何故なのか、とか。雷がどうやって起こるのか、とか。そういうのがわかるようになる」
「そんなお勉強があるんですか、凄いです!」
素直に喜ぶレイチェル。練の頭に疑問が浮かぶ。
「……なあ、紫音。そんなにブリタリアは、科学が発達してないのか?」
「……お恥ずかしい限りだよ。近代ブリタリア式魔法という、誰にでも簡単に扱える魔法が普及してからの五〇〇年、そっちの学問は廃れる一方でね。これも、近代ブリタリア式魔法の創始者にして初代の王、グロリアス・ロード=ブリタリアの功罪さ」
この世界と、ブリタリア世界の、文明の分岐点。
それは、この世界にはレオナルド・ダ・ヴィンチが存在し。
ブリタリア世界には、ダ・ヴィンチが存在しない代わりに、グロリアスがいたことだ。
「グロリアスが便利なものを広めてしまったせいか。わからなくもない」
(俺の魔法は、とにかく馬鹿でも阿呆でも、簡単なものなら扱えるように作り出したものだからな。愚民は楽なほうに転がるんだよ、楽なほうによ。結果、生活のあらゆる事柄を魔法に頼るようになって、魔力が枯渇しそうになったんだっつーの)
魔力の枯渇の恐れ。
ブリタリアが、あちらの世界とこちらの世界を異次元の穴でつなげた理由だ。
こちらの世界は、科学が発展したおかげで魔法をほとんど扱うものがなく、魔力自体が不活性状態で潤沢に残っている。
ブリタリア世界は異次元の穴でこの世界に接続、魔力を活性状態にした。水が高いところから低いところに流れるように、この世界の魔力は、異次元の穴を通してブリタリア世界に供給されている。
(科学を魔法に応用すれば、魔法の魔力効率は格段に上がる。俺とおまえが三年間、少ない魔力――たった一の魔力で、いかにして魔法を使うか研究してきたようにな)
「ああ。近代ブリタリア式魔法は、科学的思考と応用で、まだまだ発達する余地があるんだ」
「練、そんなことまで考えていたのかい? やっぱり凄いね、君は」
感心したように、紫音。レイチェルも目をきらきらとさせている。
「あの、レン・クロヒ公爵さま! レン先生、とお呼びしていいです?」
「先生、か。公爵と呼ばれるよりは、まだいいかな。どうにも自覚がないんだ、ブリタリアの貴族扱いに」
「それも、実に君らしい」と、紫音が笑った。