新たなる竜滅の英雄(1)
朝のショートホームルーム前の教室は、いつもと変わらず、ざわめいている。
「結局さ、昨日のあの停電って理由はなんだったんだ?」
「空に何か竜っぽいのが出てて、ルナリアさまたちが戦ってたみたいだったけど」
「寮の窓から見てただけだし、よくわかんねえよな。ノウ無し……おっと、黒陽がありえねーような魔法を撃ってたようにも見えたが、ありゃ見間違いだよな、やっぱ」
「……そばに江井くんがいたみたいだし、彼じゃないの?」
「そう言えば、三条院。行方不明らしいが、昨日のあれと何か関係あるのかな」
「さあ? アイツ、先週から気持ち悪いくらい変だったし、関係ないんじゃね?」
自分の席に着き、練はクラスメイトの雑談を何となく聞いていた。
生徒は誰も知らない。
昨日現れたのが、およそ五〇〇年前に異世界で島国一つを滅ぼした旧神竜だということも、その召喚をしてしまったのが道長だということも。
練が倒したのを目撃した生徒がいるようだが、見たことをそのまま信じてはいないようだ。
(ま、そのほうが好都合だろ。でかすぎる力は、恐れられるだけだからな)
グロリアスは呑気に、練の左目の視界で横になってごろごろしている。
そうだな、とだけ練は念じて返し、事実関係を思い出す。
旧神竜ジオールドの存在は、国内にも諸外国にも公表されていない。
東京湾上空、観測史上初のオーロラの発生と、低高度での隕石の爆発が偶然、重なった。
それが、日本政府の公式発表だ。
誰がジオールド召喚を企て、道長を利用したのか。
事件の翌日の今日、ブリタリア王国の警察機構による調査は、本格的に始まっていない。
夜空を紫の光で染め上げた巨大な竜の姿を目撃した人間の数は、数百万人を越えている。
東京湾岸エリアの住人の中には、動画サイトで実況しようとしたものも多くいた。
だが、スマートフォンでもデジタルカメラでも、高価なムービーカメラであっても『六枚の翼を持つ紫の光の竜』の姿は、映らなかった。
映ったのは、夜空を染め上げた奇妙な紫の光の揺らめきだけだ。
グロリアス曰く、
(神に近い存在は、霊的構造を持つ生き物だけに見えるんだよ。デジカメみたいな事実を映すことしかできない代物に、あんな現実を超越したものが映るわけねえだろ)
とのことだった。
ブラックドッグの発生は学院島内のみだったようで、あの怪異の群れの犠牲者は、一人のみ。
練の目の前でブラックドッグに呑まれた三条院道長だけだった。
後は、ブラックドッグ駆除にあたったブリタリア行政特区警備部職員数名が、怪我を負った程度。
旧神竜が召喚されたのに、ごくわずかな被害で済んだのだ。
これは、奇跡以外の何物でもないらしい。
第一王女ソニアと精神がつながっている紫音によると、ブリタリア王国では『天使の降臨および英雄の誕生』に相当する『第一級奇跡』として事件が扱われているそうだが、練にはよくわからなかった。
三年前にルナリアを救った時よりも価値のある報償が、ブリタリア王から賜れるらしいが、それにもあまり興味はない。
学院長のマリーが停学を解いてくれた。
練としてはそれで充分だった。
放課後、再び大図書館で好きなだけ自習ができるからだ。
今日はどの本を読んでみようか、と大図書館の書架を思い出す練に、
「おはよ、練」
アリスが声をかけた。
「千羽さんだけか? 王女殿下は?」
「アリスでいいわよ、昨日、そう呼んだでしょ」
「そうだっけ?」
「そうなの。それから王女殿下は、昨日の夜からブリタリアに戻ってるわ」
「そうか。昨日は大変だったから、向こうで休むのがいいだろうな」
「何か違うみたいよ? 練、覚悟しておいたほうがいいかもね」
「覚悟って、何を」
「知ーらないっと」
席に着いたアリスがとぼけたように告げ、練から視線を外した。
両手で机に頬杖をつき、ぶつぶつと呟き始める。
「ほんと、どうやって阻止してやろうかしら。とりあえず乱入は……まずいわよね、やっぱり。あっちは王族で、こっちは立場微妙の元工作員だもの。下手するとその場で――あー。それは嫌よね、まだ死にたくないもの」
「……アリス? 何をぶつぶつ言っているんだ、死にたくないとか、また大げさだな」
「大げさじゃないの! っんとにもう、人の気も知らないでっ。古い付き合いなんだから、それくらい察しなさいよ、もうっ」
ぷりぷりとアリスが怒る。練はきょとんとした。
「……古い付き合いって。いったい、俺とはどういう知り合いなんだ? 思い出すまで教えないって前に言われたが、さっぱりわからない。だいたいアリスはカ――」
練は慌てて、可能な限り声を潜める。
「カミル王子の工作員だったんだろう? どこに俺と接点がある?」
アリスが腕組みをし、練を見下すように顔を上げた。
「そうよ。だから、会ってるの。九歳の夏にね」
「九歳の夏? 俺がシャーリー先生から魔法の手ほどきを受け始めた時だな……あ」
練の脳裏に、ぼさぼさの金髪の癖毛で目元がよく見えない、まったく言葉が通じなかった男の子の姿が浮かび上がった。
練と比較するために、シャーリーがブリタリア王国から連れてきた子供だ。
夏の一ヶ月間、練と一緒に魔法の勉強をさせ、この世界の子供とブリタリア王国の子供の理解力を比べるための実験だったらしい。
ブリタリア語しか話せない男の子と、ブリタリア語などさっぱりわからなかった当時の練に、意志の疎通ができるはずがない。
仲良くなることなどなく、練はことあるごとに、その男の子に引っぱたかれ、噛みつかれ、殴られ、転ばされ、さんざんな目に遭った。
その子供も高い魔法の素質を持っていたそうだが、一ヶ月の勉強の結果は、練の圧勝。
「ありー、あいるびーばーっく!」
ブリタリア王国に帰る時、その男の子が涙目で怒鳴ったことを練は思い出した。
アリー。シャーリーはその男の子のことを、そう呼んでいた。
練はアリスを指さし、呟く。
「アリー?」
「やっと思い出した? そうよ、一緒に勉強した同門の、言わば私は姉弟子なんだってば! こっちに来るのに選ばれるためにあれからずいぶんと頑張って成績上げて、いざ中等部に来てみたら練ったらいないし、やっと会えたと思ったら忘れられてるしっ」
「……あー、でも。アリーって男の子だったような……」
「ひっどいっ! いくらあの頃から胸がなかったからって、男だなんて思ってたのっ?」
(九歳じゃ普通、胸なんざねえが。練がそう勘違いしたのは、度重なる暴力のせいだっての)
と、グロリアス。練はうんうんと頷く。
「女の子ってのはもっとおしとやかで、怒って噛みついたりはしないだろ。少なくとも従妹はしなかったし」
きっとアリスに睨まれ、練は首をすくめた。
「すまない、勘違いしていた俺が悪いようだ」
「わかればいいのよ、わかれば」
「……ちょっと待て。ということは、シャーリー先生も」
カミル王子の工作員なのか? と練は目でアリスに訊ねた。
「元、ね。別に工作員が主を変えるのって珍しくはないのよ、それほど。特に、あんまり情報を与えられない下っ端はね。先生は今、マリー学院長のハンマー家の所属よ、確か――それはそうと、紫音は?」
「向こうに行ったはずだが、今朝も連絡はなかったな。休むんじゃないのか」
「言っとくけど、練。紫音に手なんか出しちゃだめよ? 中身、あれなんだから」
「ルームメイトに手なんか出すわけないじゃないか」
(俺はちょっと出してみたいぜ? ドロイドとそういうことって経験ねえからよ!)
「――そういうのはいいから、黙ってろ」
うっかり練は声が出た。アリスが変な顔になる。
「練、今の冗談よ? 真に受けられても、引くだけなんだけど」
「あ、いや。今のは――」
練の声を遮り、始業とは違うチャイムが鳴り響く。
『一年A組、黒陽練。至急、校庭に出ろ。めんどくさいから繰り返さぬぞ、さっさとしろ!』
学院長マリーの声が教壇上のスピーカーから聞こえた。
「何だろうな。とにかく行ってくる」
練は席を立った。アリスも立ち上がる。
「私も行くわよ、悪い予感しかしないし!」
「怒られるんじゃないのか? 呼び出されたのは俺だけだし」
「怒られて済むなら怒られるだけよ。いいからほら、行くわよ!」
練はアリスに引っ張られ、呼び出し放送で騒然とする教室を出た。