月は出ていたか?
片腕のジェンカも苦戦する様子はなく、襲い来るブラックドッグを駆逐していく。
ジェンカたちに防御を任せてしまって大丈夫のようだ。
練は改めて辺りを見回した。停電が続き、建物や外灯は暗いままだが、ぽつぽつと照明魔法と思しき光が、空に上がっている。
おそらく他の場所でもブラックドッグの群れが発生し、ブリタリア行政特区警備部が対処に追われているのだろう。
周辺の魔力の奇妙な濃さは、そのままだ。
「練。この状況、どう思う?」
「妙な感じはする。空間から感じられる魔力がこれほど濃いのは、過去に覚えがない」
「空間魔力の濃さ、か。僕にはよくわからない感覚だ。蓄積魔力が極めて少ない練ならではだよね、それ。ブラックドッグの群れの魔力のせいかい?」
練は感覚を研ぎ澄ます。ブラックドッグからも魔力を確かに感じるが、それとは別の魔力が、周辺の空間に存在している。
「いや、違う。それは確かだ。紫音、俺からも訊いていいか? 三条院は何の魔法を発動させた? あの魔法発動の鍵らしい革表紙は、いったい何なんだ?」
「それは……」
紫音が言いよどむ。
(説明しないか。ま、無理もねえな。俺の時代でさえ、あれは禁呪の領域だったし)
とグロリアス。練はグロリアスの思念に意識を傾ける。
(あれはブリタリア式以前の、叙述魔法の一種だ。詩編式、戯曲式とも言うぜ。物語を綴った本のページを内容の区切りごとに断章とし、魔法陣作成の材料にするんだが、ページにも装丁にもかなりの魔力を必要としてな。
生きた人間を邪法で本に変えちまうこともあるくらいだ。あの本が作られたのが何百年前なのか、それとも最近なのかはわからねえがな)
「……生きた人間を本に……だって?」
ぴくっと紫音の眉が動く。
「練。それはブリタリアでも禁忌で、知っている人間はごくわずかなんだ。どうしてそんなことを知っているんだい? 君は時々、誰かと話をしているように見えるけれど」
「それは――」
(俺のことは言うんじゃねえぜ? 絶対面倒なことになるからよ。適当にごまかしておけ)
「…………大図書館で最近読んだブリタリアの原書で見た……ような」
紫音が目を丸くして驚く。
「――そんな内容の本が混ざっていたの、あの蔵書に? 一度全部、内容をチェックさせないとダメね……禁書とか紛れ込んでいないわよね、まさか」
(女みてえな口調だな。って。実際、女だったっけ、コイツ)
練も紫音の口調の変化が気になった。
「紫音こそ、時々変な口調になる。前に、王女殿下を呼び捨てにしたし」
「いっ? そ、そんなことしないわ――しないって。聞き間違えじゃないかい?」
あはは、と紫音が乾いた笑いでごまかした。
「おぬしら! 何を呑気に笑っておる!!」
どこからか、学院長マリーの声。直後、ブラックドッグの囲みの一角が、爆発した。
真紅の鉄槌を手にしたマリーが現れる。
「学院長?」
「学院長!」
アリスとルナリア、ジェンカも戦闘から一度離れ、練と紫音のそばに戻った。
マリーが左右から押し寄せるブラックドッグをハンマーで薙ぎ払いつつ、練たちのところに来る。
「講師と警備部総出で駆除しておるが、学院島全域がブラックドッグだらけだ。自然発生とは到底思えぬが、おぬしら、何か知らないか?」
ルナリアがマリーに向き直る。
「何者かの指示で三条院さんが古式の――本を用いた叙述魔法を使ったようなのですが、詳しいことは……おそらく三条院さん自身も魔法の本質を理解していないと思います」
「本だと? ならばこのでたらめなブラックドッグの数もわからなくはないが――ふんっ」
背後から飛びかかってきたブラックドッグを、マリーが見もしないでハンマーで粉砕し、ルナリアに訊ねる。
「高等部の生徒に被害は?」
「私が把握している限りは、ありません。大食堂で居合わせた生徒には、建物から出ないようにと注意してきましたが、生徒全員に注意が行き渡ったのかは、わかりません」
「そうか。こっちも幸い、今のところは中等部も大学も、生徒の被害報告を受けておらん。寮の門限が近い時刻だったのが幸いしたな。三条院も寮の中か?」
「万年次席には聞くだけ無駄だと思いますよ、学院長。どうせゴミみたいなプライドをくすぐられて、わけもわからず魔法構築の片棒を担いだだけだもの。って、邪魔なのよ!」
アリスがナイフ投射魔法で横手のブラックドッグ数匹を滅ぼす。
「本は残っておるのか?」とマリー。
「ありません。最後に残っていた革装丁を、三条院さんが魔法発動の鍵に使ってしまったので――ハッ!」
ルナリアがじりじりと距離を詰めてきたブラックドッグめがけて大剣を振るい、剣撃を飛ばして目標を背後の一群もろとも切り捨てる。
「ならば今、三条院に話を聞いてもどうにもならぬか。ブラックドッグを駆除しつつ、ページを使われた場所を探して対処する他あるまい。ルナリア。ここは任せてよいか?」
「お任せを、ハンマー公」
「うむ。早々に獣を片付けたら、おぬしらの停学は働きに免じて解いてやろう。ではな!」
ぶんっとマリーがハンマーを振り回し、ブラックドッグの群れに突っ込んだ。
手当たり次第にブラックドッグをハンマーで蹴散らし、去って行く。
ブラックドッグの囲みの一部が完全に崩れた。
「チャーンス!」とアリス。
「この機に数を減らしましょう!」とルナリア。
アリスとルナリアが、マリーが作った囲みの崩れた場所へと並んで走り、ぱっと左右に分かれた。アリスは魔法で、ルナリアは剣で、さらにブラックドッグの数を減らしていく。
ブラックドッグはまだどこかから出現しているようだが、それでも、アリスとルナリアが駆除するペースのほうが早い。
散発的に、練たちに向かって火球を放つブラックドッグがいるが、全てジェンカが魔法の光を宿した拳で迎撃する。紫音が防御魔法を使う必要さえない。
手持ち無沙汰の練は、ぼそりと呟く。
「あの火球くらい、魔法効果魔力還元魔法で俺も防げるんだが」
「一回使ったら、魔力が一回復するまでの一分間、使えないんだよね?」
紫音も所在なげに立っているのみだ。
「ああ。でも一分なんてすぐだ」
(インターバルが短いのだけはメリットだよな、おまえ)
「確かに回復時間は短いけれど、万一に備えて温存しようか。どうする? 今なら共用施設棟に戻れそうだね。僕たちがいないほうがルナリ――王女殿下と千羽さんも闘いやすいかも」
一時はブラックドッグに囲まれてしまったが、ルナリアたちが数を減らしてくれたおかげで、共用施設棟まで道が開けている。
「いや。どうしてもこの妙に濃い空間魔力が気になる。三条院がどんな魔法を構築したのかわからないが、これで終わりだとは思えない」
「と言うと?」
「このブラックドッグの大量召喚は。別の何かを召喚するための、時間稼ぎじゃないのか?」
「外に出る前にも、そんなことを言っていたね。大規模な召喚魔法がどうのって。学院島全域にブラックドッグが出現しているんだ、充分にこれは大規模な召喚魔法だと思うけど」
「ブラックドッグ――エビルビーストは、大規模召喚魔法発動の余波でも現れると聞いている。だから、本命はきっと別にいる」
どこから何が来るんだ、と練は召喚の兆しを見逃さないようにと周囲に視線を配った。
空に上がった照明魔法とは違う光が、ぽつぽつと闇に灯り始める。
「……部分的に、停電から回復し始めたのか?」
建物や外灯の光には違いないが、様子が妙だ。
一般的に停電は区画ごとに復旧する。今のように、まばらには直らない。
「停電が復旧し始めたということは。ブラックドッグの駆除は進んでいるということだろうね。それにしても――別の召喚の可能性、か……」
紫音が腕組みをし、夜空を仰ぐ。練もつられて空を見上げた。
暗い夜空の頂点に佇む白い半月。それが、瞳に映る。
「……月……だって? 出てたか、今日?」
練には、その白い半月がとても不気味なものに思えた。