闇の中、黒い獣
大食堂のある共用施設棟を出た練たちは、すぐに足を止めた。
「停電、寮だけじゃないのか」
辺りは真っ暗だ。大学のほうも中等部のほうも、灯りは何もない。
月のない暗い夜空の下、商業施設のあるビル群の向こう。
東京湾岸エリアの街灯りが遠くに見えるのみ。
三体のジェンカが淡く発光しているおかげで、練たちの周辺だけがわずかに明るい。
「ゴーアアア」「ゴアアッゴアッ」「ゴアアアッ」
獣に似た唸りが、あちこちから聞こえてくるが、闇のせいか姿は見えない。
「いるわね、闇に紛れてうじゃうじゃと」とアリス。
「ああ。これは思ったよりやっかいそうだね」と紫音。
「確かにいるな、何かが」
姿は見えない。だが練は魔力の動きに敏感だ。
闇の中。幾つもの強い魔力を持った、人間より巨大な何かが蠢いているのが感じ取れる。
だが周辺の魔力が妙に濃いせいで、距離がよくわからない。
「ゴッフ」
すぐ真後ろで、獣の息づかい。練は強烈な悪寒に身を震わせる。
「接近された!?」
(振り向く前に逃げやがれ!)
強烈な悪意。殺意そのものが凶器と化して練に叩きつけられる――
「来たれ我が剣、セレブレイト!!」
闇に白銀が一閃した。練に迫っていた魔力と悪意が霧散する。
「魔法術装、展開。ジェンカ、照明魔法弾、用意。放て」
大剣を召喚し敵を一刀のもとに斬り捨てたルナリアが、白いワンピースから白銀の甲冑装備に姿を変える。
三体のジェンカが拳大の丸い魔法記述光跡をそれぞれ作り、空へと放り投げた。
ぱっと宙で魔法記述光跡が弾け、外灯ほどの明るさの光球となって辺りを照らす。
「ゴルルルル」
唸り声を漏らす怪異の群れの姿が露わになる。どう見てもこの世界の獣ではない。
頭部だけが異様に巨大な、デッサンの狂った犬のようなシルエット。影そのものが立体化したような質感の漆黒の身体に、照明魔法の光を受けてか、眼だけが赤く光って見える。
それが、少なく見ても二〇体以上。
いつの間にか、共用施設棟に通じる道まで怪異に塞がれている。
練たちは完全に取り囲まれていた。
「ブラックドッグか」
と紫音。補足するようにグロリアス。
(エビルビーストの中じゃメジャー中のメジャーな怪異だ。この世界のイギリスでも似たような化け物の伝承があるぜ、今度調べてみな)
「これでも生物なのか?」
(生きているかどうはか知らねえが。生きているものを片っ端から呑み込むぜ、コイツら)
ルナリアが練のすぐそばで大剣を構える。
「心配無用です、練さま。このような下級怪異に、練さまには傷一つ付けさせません」
「は!」とアリスが短く笑った。
「どんな怪物が出てくるかと思ったら、この程度? この数なら私一人でも余裕ね!」
アリスが両腕を真上に掲げ、踊るようにくるりとその場でターンする。頭上、手の軌跡に流れるように魔法記述光跡が生じる。複雑な記述だが練には簡単に読み取れた。
先ほど、道長の火炎弾魔法を迎撃したナイフ投射と基本的に同じだが、規模が大きい。
「千切れ散れ、クソワンコどもッ!!」
アリスが魔法を発動させ、無数のナイフの刃が掲げた手の上で実体化した。
そしてブラックドッグの群れに降り注ぐ。
「ギャ!」「ギャンッ」「ギャウッ」「キャウゥンッ」
次々とナイフの雨に切り刻まれ、ブラックドッグが悲鳴を上げる。
切られた場所から水に墨が混ざるように形が崩れ、消滅していく。
「見た、練! サウザンドブレードの二つ名は伊達じゃないんだから!」
「確かに凄いが。まだまだいるみたいだ、ブラックドッグ」
「マジで!?」
アリスがきょろきょろとする。闇の中、ぽつぽつと赤い点が増えていく。
一桁だった赤い点の数が、数秒経たずに数え切れないほどになった。
一〇〇やそこらの数ではない。下手をすれば一〇〇〇近くあるだろう。
およそ五〇〇匹のブラックドッグが、遠巻きに練たちを囲み、じわじわと距離を詰めてくる。
「少し多いですね」とルナリア。
「隠れていてもいいわよ、王女殿下は。練は私一人で守れるもの」とアリス。
「そちらこそ休んでくださっていて問題ありません! 練さまはここを動かずに!」
ルナリアが両手で剣を斜め下に低く構えた。身を捻って切っ先を後ろに向ける。
「ハアアッ!!」
ルナリアがその場で、下から斜め上へと大剣を振り抜いた。
赤い眼の群れとの距離は、一〇メートル以上。
いかに大剣とはいえど、切っ先が届く距離ではない。
「疾れ、斬月!」
振り抜かれた大剣の刃の軌跡が、虚空に白い三日月を描く。
その三日月が飛翔し、ブラックドッグの群れを切り裂いた。
耳障りな悲鳴が連なり、数メートルの幅で赤い光の群れが遠くまで消え失せる。
大剣の一振りで、数十匹のブラックドッグが滅んだようだ。
「やるわね。さすがは聖騎士さま」
「褒められるほどのことではありません」
「じゃ、そっちは全部任せちゃっていいわよね、当然」
アリスがルナリアに背を向ける。ルナリアが振り向かずに剣を構え直した。
「もちろんです。こちらは一切、お気になさらず。ジェンカは練さまの護衛を」
「あい」「あい」「あい」
ジェンカたちが、練と紫音の周囲を固めた。
「それじゃ仕切り直し、行くわよ!」
「参ります!」
アリスとルナリアが、それぞれにブラックドッグの群れと闘い始めた。
アリスのナイフ投射魔法が機銃掃射のようにブラックドッグを微塵に切り裂き、ルナリアの大剣の閃きが、数十匹のブラックドッグをまとめて両断する。
「さすがは二人とも二つ名持ち、圧倒的だね。でも練、奴らは原始的な魔法も撃ってくるから気を抜かないでね」
と紫音。練は思わず訊き返す。
「原始的な魔法?」
練の視界の隅に、朱色の揺らめきが映る。
ばっと練は振り向いた。
ブラックドッグが大きく開いた顎門の奥に、火球。
(攻撃本能のみで魔力を魔法に変換するんだぜ、コイツら。これが、もっとも単純で原始的な魔法の姿だな。原理は、火炎を風の魔法で閉じ込めて放つファイアーボールと同じだ。火の他に光術を使うこともあるんだぜ)
「なるほど」
と練。うっかり、まじまじとブラックドッグの火球に見入ってしまう。
「あ」
気付いた時には、火球が放たれていた。
「研究熱心なのはいいけれど、危機感も忘れずにね」
紫音が苦笑し、片手を掲げる。瞬間的に魔法記述光跡を構築し、多層の防御魔法を発動させると火球をあっさり受け止めた。
どんっと火球が破裂し炎をまき散らす。まさに典型的な火炎系攻撃魔法ファイアーボールと同じ効果だった。
その爆発音を合図にしたように、アリスとルナリアの攻撃が行き渡らないブラックドッグの群れが、練と紫音を目指して殺到する。
「仕方ない。僕も働こうかな」
身構える紫音の前に、さっと三体のジェンカが回り込む。
「余計なことを」
「する必要は」
「ありませんデス」
ジェンカたちが全身に紅く淡い魔法の光を纏った。拳と足首から下に一際まばゆい光が宿る。
光る拳でジェンカがブラックドッグを殴りつけ、光る足で蹴り飛ばす。
ブラックドッグが、打撃を受けた場所から爆散した。
ざっとジェンカたちが靴裏を鳴らして拳を構え直す。
「消えたい奴から」
「かかってくるが」
「いいのデス」
(おーおー。頼もしい背中だな、おい。ちっこいけど)
ジェンカたちが押し寄せるブラックドッグと打撃戦を始めた。