潜入、女子寮!
その日の放課後。練は日課になっている大図書館の自習には行かず、寮に帰ってきた。
寮の自室には、一足先に紫音が帰宅していた。
「あれ。今日は珍しく早いんだね」
練がドアを開けると、素足に上半身はシャツ一枚という格好の紫音が、手にジャージのズボンを持った姿勢で振り返った。練は即座にドアを閉めると、くるりと回れ右をする。
「着替え中だったのか、すまない」
「構わないよ。君と僕の仲じゃないか」
練は背中で、ふわりと柔らかいほのかな熱を感じた。
紫音が身体が当たるか当たらないかのぎりぎりの場所までやってきたようだ。
「で。何か僕に、用があるのかな?」
「その前に着替えを終えてくれないか。その格好だとやっぱり落ち着かない」
「ふふっ。裸ワイシャツより、ワイシャツジャージが好みなんだね。またニッチだねぇ」
「そういうのは、いいから」
「はいはいっと」
しゅるりと衣擦れの音がした。ジャージのズボンを穿いたかと練は振り返る。
「なんちゃって」
穿くどころかワイシャツを半分以上はだけた紫音が、そこにいた。練は再び回れ右をする。
「そういうのは、ほんとうにいいから。俺を気遣ってくれているのはわかるが」
「そっか。一日中、何か難しい顔をしてたから、励まそっかなと思ったんだけど」
しゅるしゅると先ほどより長めに衣擦れの音がした。
「今度はちゃんと着たから。で、何の用かな」
紫音が自分の勉強机の椅子に腰掛ける。練も自分の椅子に行き、紫音に向き直って座った。
「紫音、放課後はいつも早く帰るが、何か、特別なことをしているのか?」
「いや、特に。ただ、楽をしているだけだよ。ほら、僕ってこんなだからね」
紫音がちらりとシャツの胸元を開けるように引っ張る。
「……なるほど。放課後まで男の振りをするのもしんどいな、確かに」
(ちょいと違うと思うけどな、俺は)
「何だって?」
「どうかした?」
うっかりグロリアスに反応してしまった練に、紫音が不思議そうな顔をする。
「っていうか。たまに練って会話がかみ合わない時あるよね。独り言にしても変な感じで」
「……悪いが、そこは気にしないでもらえると助かる」
(ほんとおまえって、ああいううっかりだけは治らねえな)
じーっと紫音が練を見る。練は気まずくなり、少しだけ視線を逸らした。
そか、と納得したように紫音。
「気にしないよう努力するよ。で、今日早く帰ってきた理由をそろそろ教えてもらえるかな」
「手短に話すと、女子寮の王女殿下のところに行きたい。紫音の魔法で何とかならないか?」
紫音がきょとんとする。
「そんなの、共用施設のラウンジにでも呼び出してもらえばいいじゃない。寮内ならテロの危険性は低いはずだし、ルナリア――王女殿下なら、君の呼び出しには絶対に応じるよ?
たとえ警護の人たちが自室を出るのを止めようとしたとしても、あの騎士姫を止められはしないさ。
ハンマー公が出てきたら、話は別だけど。あの二人が本気でやりあったら、女子寮なんてものの五分で瓦礫の山になるからね、さすがに出てはこないんじゃないかな」
つらつらと紫音が語った。練は小さく首を横に振る。
「俺が王女殿下に接触したことを誰かに知られたくない。あくまで王女は、きちんと自室にいることにしたいんだ、これ以上立場を悪くしたくない」
「……なるほど。そういうことなら協力する。会って何の話をするのかは、あえて訊かないでおくよ。君にはまたルナリアを助けてもらったことだしね。じゃあ、すぐに行こうか」
「今から? 夜を待ったほうがいいんじゃないのか?」
「賊は夜に動くものさ。だから普通、夜のほうが警護は厳しいよ、寮の玄関にも鍵がかかるしね。今なら普通に行って、帰ってこられる」
こともなげに、紫音。女子寮は男子生徒立ち入り禁止だ。
(言うねえ、コイツも。よほど自信があるのか?)
「……信じるよ、紫音。任せる。俺は何をすればいい?」
「練はただ僕の後ろを離れずに付いてくるだけでいいよ。魔法だろうが監視カメラだろうが、誰かの目をごまかすことは得意なんだ。さ、後ろに立って」
先に紫音が椅子から立った。練も腰を上げ、紫音の背後に立つ。
「さて、と」
紫音から強い魔力の高まりを感じる。直後、二人の周囲に魔法記述光跡で編み上げた球状の魔法陣が発生した。練の知らない記述だ。
魔法の構成を読むのが得意な練でも、一瞬では読み切れない膨大な情報量と密度。
グロリアスが驚いたように言う。
(こりゃ熱光学系迷彩魔法か? さらに感圧対策の疑似重力制御と精神系の強制回避まで入ってやがる。それを二人分の空間にって、ちょいと尋常じゃねえぞ、コイツの魔法技術)
外からは見えず、床を歩く重さで察知されることもなく、誰にも気付かれない魔法を、紫音が使ったということだ。
練はまじまじと魔法陣を眺め回す。グロリアスの言葉で魔法効果がわかったため、構成も読みやすくなった。それでも理解できない箇所が多い。でたらめに高等な魔法なのは確実だ。
「凄いんだな、紫音」
「それほどでもないよ。機能だからね」
肩越しに練を振り返り、微笑む紫音。練は首を傾げた。
「……機能?」
「気にしないでくれると助かるかな。それじゃ、離れないようにね。エレベータは使わず階段で行くけどいい?」
「ああ。誰にも見えないなら、場合によってエレベータが無人で動くように見えて変だろう」
「そういうこと」
紫音が先に立って部屋を出る。練は言われるままについて行った。
廊下でも階段でも、誰一人、練たちを気にするものがいない。身体がぶつかりそうになった時には、相手が自然に避けた。相手は道を譲ったことにさえ気付いていないようだ。
一階まで降りてラウンジを通り、女子寮への通路に入る前で、練は紫音のワイシャツの裾をつまみ、軽く引っ張った。紫音が立ち止まり、振り返る。
「何? 声を出しても大丈夫だよ、遮音性もほぼ完璧だからね」
「声、OKなのか。わかった。そう言えば俺、王女殿下と千羽さんの部屋を知らないんだが」
「ああ、大丈夫。僕が知ってる。だから付いてくるだけでいいよ」
「任せる。ほんとうに頼りになる、ありがとう」
「感謝の意志は、いずれ身体で払ってもらおうかな。あ、そこで引かないでよ。冗談だから、冗談。この先、女子寮だけど緊張しないでね」
「わ、わかった」
(コイツが言うと何か冗談に聞こえねえよなあ)
練と紫音は再び歩き出し、女子寮への通路に入った。相変わらず誰にも気付かれる様子はない。行き交う生徒が全て女子になり、心なしかいい匂いがする。空気さえ微妙に甘いようだ。
通路から階段へ。階段を数階分上がって廊下へ。要所要所に黒服の警備員が立っている。
女子寮だからか警備員は女性ばかりだが、全員、緊張した面持ちだ。
もしバレたら、練たちは即座に捕まるだろう。
練は少し緊張したが、紫音は鼻歌交じりに先に進む。そしてある部屋の前で立ち止まった。
紫音がドアを指さし練を振り返る。
「ここだけど。どうする? 中に声をかけるのなら、一度、この迷彩魔法を解除しなくちゃならないんだけど。そうなると、ほら。そこにも警備の人がいるし、見られることになるね」
「となると、不自然に見えないよう、ドアを中から開けてもらうしかないのか……どうする」
練が考えかけた時だった。かちゃりとドアノブが音を立て、ドアが開けられた。