プライドを利用される、凡人
ブリタリア王国、中央ブリタリア王城の一室。
ソニア・ソード=ブリタリアは、先ほどまで覗き込んでいた水晶玉を、ぺしっと叩いた。
「設置型魔法のトラップって陰湿ねっ! あの子の考えそうなことだわ、まったくもうっ」
ジェンカの目を通して、ソニアは暗殺未遂の瞬間を見ていた。日本から輸入した『人をとことん堕落させる大きなクッション』に、ぼすんと背中を預けて愚痴る。
「私のルナリアの可愛い顔に傷でもついたら、タダじゃおかないわよ、それこそ四肢を引き千切って治療して、また引き千切って治療して、指先からじわじわと潰して治療してって、無限の責め苦を味わわせてあげるところよ、ほんとに。
それにしても。あのハンマー公に気付かれない設置型魔法って、よっぽどね。あの子の手駒だとまあ、できるのは彼女だけ……当然と言えば、当然かな。そのための彼女だものね」
ぐるんと寝返りを打って、柔らかいクッションに腹ばいになる。
「よっぽどと言えば。あの練くんが使った魔法……まさか、とは思うけど。いや、でも。効果から推測したら、魔法効果キャンセルしかないんだけど――そんなもの、実現させた魔法使いなんて、ブリタリアにはいないはずだし。
だいたい攻撃魔法は防御魔法で対抗するのが常識であって、効果そのものを消すなんて難易度の高いこと、誰も考えないわよ。弓から放たれた矢を消すようなものなんだから。そんなこと考えそうなのは、非常識を常識に変えた魔法の祖、あの暴君グロリアスくらいなものよね」
再び寝返りを打ち、ソニアは天井を見上げた。
「何だか。やっかいというか、めんどくさいことになりそ」
「ソニア姉さま。入ってもよろしいでしょうか」
不意に、ドアの向こうから弟カミルの声が聞こえた。
「いいわよ」
「失礼します」とカミルがドアを開いて入室する。
「何の用よ?」とソニア。カミルが神妙な顔で口を開く。
「つい先ほど。日本でルナリア姉さまの暗殺未遂事件が起きたと聞いたのですが――ドロイドを使っているソニア姉さまなら、詳しいことを知っているかと思いまして」
「ああ、それね。見てたわよ、事件の瞬間を、ね? 命じた奴の性根の腐り具合がわかる陰湿な設置型魔法で、テーブルが紅茶まみれになったわよ」
「……テーブルが、紅茶まみれ?」
怪訝そうに、カミル。ふん、とソニアは鼻で笑って説明する。
「液体が刃物状になって襲撃する魔法が、ルナリアをターゲットにしてテーブルに設置されてたらしいわ。至近距離で散弾みたいに紅茶が刃になって飛んで来たら、まあ普通は頸動脈を切られて大出血、高確率で死ぬわよね。それを同席していた彼が防いでくれたのよ」
「彼――黒陽練、ですか。しかし彼は、ノウ無しのはずでは」
「なくはないわ、限りなくゼロってだけで。罠を仕掛けたどこかの誰かさんも、あんなちんけな罠で暗殺が成功するとは思ってなかっただろうけど、いい気味よ。ノウ無しって馬鹿にしている彼に、まんまと阻まれたんだから。カミルもそう思うでしょ?」
「……まったくですね。とにかくルナリア姉さまが無事ならば、何よりです。もし何か新しいことがわかったら、教えていただけますか?」
「わかったら、ね。ま、罠を仕掛けた犯人も、それを命じた黒幕も、きっと見つからないでしょうけど。カミルも何か情報が入手できたら、教えてくれるのかしら?」
「もちろんです。それでは僕はこれで失礼します。お騒がせいたしました」
丁寧に一礼し、カミルが退室する。会話の間、まったく不自然な様子はなかった。
ソニアはもそもそと立ち上がると、クッションを踏みつけた。
「……ほんっと、可愛くない。黒幕ってあんたでしょ、カミルっ。絶対にバレないと思ってるわよね、あの様子だと。どうにかしてあの子の鼻を明かしてやりたいわっ!」
カミルがルナリア暗殺を企てている。間違いないとソニアは踏んでいるが、確たる証拠は何もなく、誰かに相談しても憶測に過ぎないのではと言われるだけだ。
そもそも。『強者が玉座に座るべし』というこの国において、王位継承権争いの暗殺は、禁じられてすらいない。
殺されるほうが弱く、王の資格がなかったのみ。
王位継承権一位のソニア自身、そう納得している。
理性で納得はしているが、感情は別だ。素直で可愛く健気な妹が、クソ生意気でずるがしこく見た目が可愛いだけの弟に殺されるなど、姉として絶対に納得するつもりはない。
それが、ソニア・ソード=ブリタリアという第一王女なのである。
ぼんっとクッションを蹴り飛ばし、そのままソニアはクッションへと前のめりに倒れ込む。
「それは、それとして。落ち込んでるわよね、ルナリア。カフェテリアにはいずれ行っただろうけど、今日、あそこに行くことになったのは。自分が言い出した課外授業のせいだもの」
どうしたものかしら。
ぼそりとソニアは呟いた。
「この僕が……あんなミスを――いや、あの程度のケアレスミスなど減点するほうがおかしい。解法の途中に記述ミスがあるだけで、解答そのものは合っているんだからな。
そうだ、僕はやはり悪くはない。あの頭の固い女講師め、いつか僕がこの国の魔法界のトップに立った日には、本国に送り返してやる」
三条院道長の口から、ぶつぶつと愚痴ばかりがこぼれる。
すっかり薄暗くなった校舎の廊下を、道長は昇降口に向かって歩いていた。
午後六時。教職員の専用出口以外、校舎が閉め切られる。その時間がもう近い。
課外授業選考テストの結果に納得できない道長は、ホームルーム終了から今まで、職員室でシャーリーに詰め寄っていた。抗議すること、およそ九〇分間。結果は、くつがえらず。
「ふざけるな! この僕の貴重な時間を一時間半も使ってやったんだぞ、あの女講師! ええい、腹立たしい!」
道長は廊下にあったゴミ箱を蹴りつけた。無人の廊下に酷く音が大きく響く。
「くそ! くそ! くそおっ!」
繰り返してゴミ箱を蹴りつけ、その音の大きさに、はっとする。
「……こんなところを見られたら、品行方正な僕のイメージが台無しじゃないか。ちっ、誰も見てなかっただろうな」
舌打ちして道長はきょろきょろとし、ぎょっとする。
すぐ後ろ。メイド服姿の少女が、立っていた。ジェンカだ。
「お、王女殿下のメイドか。そんなところで何をしているんだ」
道長はゴミ箱から離れ、平静さを取り繕った。
「心配しなくてもゴミ箱に八つ当たりしていたことは誰にも言わないデス」
「う。見ていたのか、やはり――ま、いい。黙っていてくれるのならな。で、何か用か?」
「三条院さまの実力を見込んで、我が主よりお願いがあるデス」
道長は今、機嫌が悪い。たとえルナリアの使いでも、素直に頼みを聞く気にはなれない。
「お願いだって? そんなもの、贔屓にしている黒陽に頼めばいいんじゃないのか? それか、千羽くんにでも頼めばいい。何せ僕は万年次席らしいからな。そもそも王女殿下が選考テストなんてやらなければ、僕は不要な恥をかかされることもなかったんだ。お断りだね」
道長は踵を返した。途端、再びぎょっとして足を止める。
一瞬で音もなく道長の前にジェンカが回り込んでいた。
「我が主は三条院さまを高く評価していますデス。他に頼める人間はいないそうデス」
「高く評価……だって? 黒陽でも千羽くんにでもなく、僕だけに頼みたい、と?」
こくりと頷くジェンカ。王女殿下も実はわかっているじゃないか、と道長は機嫌が治った。
「仕方がない、話だけでも聞いてやろうか」
「ありがとうデス。それでは、こちらを」
辞書のような大きさの革装丁の厚い本と、ノートに似た薄い冊子をジェンカが差し出した。
「儀式魔法のお手伝いをお願いしますデス。詳しくはこの冊子に書いてありますデスが、この本のページを破り、学院島の指定された場所に、術を施して欲しいのデス」
儀式魔法。個人が行使する通常の魔法とは異なり、様々な道具と広いスペースを使って魔法陣を形成し、空間にある魔力そのものを用いて大規模に発動する特殊な魔法だ。
「儀式魔法? いったい何のためのだ?」
「ブリタリア王家の秘術デスので、説明はできないのデス。ただ、主の望みであるとしか」
主の望み。ルナリアが何を欲しているのか道長にはわからない。
――ここで貸しを作って損はないだろう。
――儀式魔法の内容、この革の本から何かわかるかもしれないしな。
――いや。僕ならきっとわかるはずだ。
道長は一秒足らずでそう思考し、革の本と冊子を受け取った。
「いいだろう、頼みを聞いてやる。作業の期限はあるのか?」
「できるだけ早めに、デス。ただし、決して人には知られぬようにお願いするデス」
「心得た。心配しなくても僕の仕事は完璧だ。誰かにバレるようなミスはしないさ」
「ありがとうございますデス。正式な報酬は、儀式魔法完成の後に、改めて、デス」
とんっと大きく一歩、ジェンカが真後ろに跳躍した。物陰に入ると、ふっと気配が消える。
現れた時のように、ジェンカは足音なく去って行った。
道長は手にした革装丁の本を改めて見やった。ずしりと重く、異様な存在感がある。
「表紙の文字が読めない……見知らぬ言語だな。ブリタリア王国以前の魔導書か、これは? それに何だ、この革の手触り。滑らかで指に吸い付くようだ――いったい、何の革だ?」
その革が人間のものだと、道長が知ることはない。