王女殿下、気丈に振る舞うけれども
紅茶の色がわからないほどに薄く鋭い、カミソリのような刃だ。
わずか一枚でも頸動脈に命中すれば、確実に致命傷になる。
「起動!」
魔法の刃が立体魔法陣に入ったその瞬間、練は魔法を発動させた。
立体魔法陣がまばゆい閃光を放ち、魔法の刃が紅茶に戻る。雫となって周囲に降り注ぐ。
ルナリアの前を中心に、二杯ぶんの紅茶がテーブルにぶちまけられ、滴り落ちた。
ぶちまけられた紅茶の上。無効化された魔法の魔力の気配が数秒だけ存在し、霧散する。
「敵デスか!」
ジェンカがグラスやカップごとトレイを横に投げ捨て、身構えて周辺を警戒する。
陶器とガラスの割れる音に、周囲の客が気付いて騒然となった。
「何、今のっ?」とアリス。
「……暗殺未遂――かな」と苦い表情で、紫音。
「いつかは起きると思っていたが。さっそく、こう来たか。やれやれ、学院の施設全体を調べさせねばならなくなったではないか、面倒な」
マリーがスマートフォンを取り出し、操作する。どこかに連絡しているようだ。
ルナリアが平然とした顔で、練に小さく頭を下げた。
「助かりました、練さま。今の攻撃、私もジェンカも対処できませんでした」
「たまたま俺が先に気付いただけです。攻撃は全部無効にしたはずですが、大丈夫ですか?」
「はい、おかげさまで。これで命を救われたのは二度目となりました。このお礼はいずれ、必ずいたします」
「あい。ほんとうにありがとうなのデス、マスター練」
ジェンカがぺこりと頭を下げる。
「いや、礼を言われるようなことじゃ」
(バッカ野郎、ここぞとばかりに恩を売っておけ。王族に貸しを作って損なんかねえしよ)
――そういうのは好きじゃないって前にも言わなかったか。
(さあな、覚えてねえっての。ったくほんとに堅いな、おまえ)
ほっとけ、と練は口の中だけで呟き、ルナリアに告げる。
「とにかく、お気になさらず。それより紅茶を拭かないと。スカートにも垂れていませんか」
「ええ。びしょびしょですね。ジェンカ、警戒は不要です。それよりタオルを」
「あい姫さま」
ジェンカがメイド服のエプロンの下から、次々と新品のタオルを何枚も取り出し、ルナリアの服を掃除し始める。
「テーブルも拭かないといけませんね」
ルナリアがどこからかハンカチを出した。その指が震えているのに練は気付いた。
(そりゃ動揺もするか。毅然と振る舞っていても、しょせんは小娘だからな。にしても練、高速起動の補助魔法、上手く機能したな)
――機能するのはわかっていた、理論に破綻はなかったから。
(まあ、な。しかし設置型とは予想してなかったぜ。この様子だと全てのテーブルに、トラップが仕掛けられているな、おそらく)
――全部のテーブルに? どうして。
(どこの席にいつルナリアが座るか、わからねえからさ。魔力を持った人間には、個人個人で異なる魔力の波動がある。それを察知して発動するような設置型魔法だったってことだ。
ここにいるマリーが気付かなかったくらいだ、隠蔽も完璧。仕掛けた奴はよっぽどの腕だな)
全てのテーブルに魔法トラップ。事実だとすれば驚きだ。練はカフェテリアを見渡した。
「ん?」すぐに練は気付いた。
自分たちのテーブルの周辺、他の席との間の床に魔法記述光跡が走る。転移の魔法陣だ。
すぐに魔法が発動し、ボディーガードのような黒服の男たちが一〇人ほど現れる。
「来たか、警備部」とマリー。
「おぬしら。ルナリア・ソード=ブリタリア暗殺未遂事件が起きた。まずはこのカフェテリアをくまなく調べろ。何らかの魔法の設置、痕跡、些細なものでも見逃すな」
「御意」と一人の男を除き、警備部の男たちが散らばる。残った男が声を張る。
「全員、学生カードを裏にしてテーブルに置き、両手を頭の後ろで組め! もし魔法を使おうとしたら、その時点で王女暗殺事件の関係者と見なし、拘束する!」
カフェテラスの客たちが、戸惑いながらも指示に従った。男が練たちにも指示をする。
「王女殿下のご学友の皆さんも、学生カードを裏にして提示してください。念のため、王女殿下もお願いします。魔法使用の履歴を確認させていただきます」
練はアリスと紫音、ルナリアを見やった。三人とも言われた通りに学生カードを出し、裏にして男に掲示する。カードの裏は白紙のままだ。
練も二人にならって学生カードを裏にしてテーブルに置いた。練の学生カードも白い。
男が、すっとテーブルに向けて手をかざす。
「履歴表示」と男。学生カードそれぞれに魔法記述光跡が一瞬だけ発生し、練のカードのみに文字が浮かび上がった。
MAGIC TYPE / UNKNOWN
TIME DAY MONTH 16:45 13 APRIL
「魔法の使用履歴がある、君。身柄を拘束させてもらう」
「はい?」自分が疑われていることにピンとこない練の手首を、男が掴んだ。
ルナリアが学生カードをテーブルに叩きつけて椅子を蹴り、その身に魔法記述光跡を絡めつつ立ち上がる。
「無礼者!!」
ルナリアが、練の手首を掴んだ男の手を強引に払った。
そのルナリアの腕に絡んだ魔法記述光跡が、ガントレットに転じる。そこから全身に向け、魔法記述光跡が次々とアーマーとなり、制服が白いバトルドレスに変わった。
そして左手に、宝飾のある巨大な剣が出現する。
(おー。あの聖騎士の装備、魔法術装だったのか。さすが王位継承権第二位、リッチだな)
――高いのか?
(べらぼうに。日本円に換算すると、一式揃えてざっくり一〇億ってところか。魔力と相性がいい貴石やら貴金属やら、ふんだんに使うからな。あの装甲、銀じゃなくて全部プラチナだぜ、たぶん。柔らかいプラチナに、魔法の効果で鋼鉄クラスの強度を持たせてるんだろ)
「マジか」と値段を聞いて驚きに目を丸くする練の隣。
白銀甲冑の聖騎士姿となったルナリアが、練を捕らえようとした男に剣を向ける。
「このお方は私の恩人です。無礼は決して許しません」
「で、ですが、王女殿下。事件の起きた時刻、学生カードに正体不明の魔法使用履歴がある以上、彼には容疑が――」
ルナリアが大剣の切っ先を男の喉元に突きつける。
「不愉快です。そのような言葉を発する喉はそこですか」
ひ、と男が短い悲鳴を上げた。見かねたか、マリーが口を挟む。
「剣を納めよ、ルナリア。それからおぬしも余所に行くがよい。黒陽練は、儂が責任を持つ」
男が切っ先から逃げるように一歩二歩と後ずさる。
「そ、そういうことでしたら、閣下にお任せします。皆さん、学生カードはもうしまって結構です。私は別のテーブルを確認しに行きます」
閣下。マリーのことらしい。
「ああ。行ってよいぞ」
「で、では。王女殿下にも大変失礼いたしました」
男がマリーとルナリアにそれぞれ一礼し、逃げるように立ち去った。
「ルナリアよ。とっととその魔法術装を解け。周りが怯えるでな」
「わかりました」
ルナリアの装備が光の粒子と化して消え、瞬時にして制服に戻る。そして大剣が消えた。
元の姿に戻ったルナリアがテーブルから学生カードを取って懐にしまうと、練に向けて小さくお辞儀をした。
「ブリタリアの者が失礼をいたしました。改めて、彼らには後で注意しておきますので、ここはどうかご寛容に」
「気にしてませんから。それより、片付けないと」
練はルナリアがテーブルの上に放置したタオルを手にし、テーブルを拭き始めた。
「練さま、片付けなら私が――」
ルナリアの言葉をマリーが遮る。
「ルナリア。おぬしはちょいと、儂と来い」
マリーが席を立つ。ルナリアがマリーに顔だけを向けた。
「すぐにでしょうか、学院長」
「ああ、すぐにだ。こんなことが起きた以上、今後の対応策を考えねばならんからな」
練たちをぐるりと見て、マリーが続ける。
「おまえたちは今しばらくここに留まれ。警備部の連中が一通り現場を調べ終われば解放されるだろ。行くぞ、ルナリア」
マリーが踵を返した。だがルナリアは動かない。
「騎士として、このような時に、主のそばを離れるわけにはまいりません」
アリスがルナリアを横目で見る。
「その騎士のそばが、一番危ないんじゃないのかしらね」
「それは」と言いよどむルナリア。
マリーがルナリアの横に来て、二の腕を掴むと引っ張る。
「いいから来い。これからも、この学院にいたいのならな」
「…………わかりました。練さま、今日はご迷惑をおかけしてしまいました。この埋め合わせは必ずいたします」
「別に埋め合わせなんて。ショックだとは思いますが、気をしっかり持ってください」
「お気遣い、ありがとうございます。では」
ルナリアが申し訳なさそうに一礼し、立ち去った。その後をジェンカが追いかける。
不意にマリーが立ち止まり、顔だけで振り返った。
「黒陽練。おぬしにもいずれ話がある。よいな?」
「わかりました」
「うむ」とマリーが頷き、ルナリアとジェンカを連れて去って行く。
カフェテリアは、オープンテラスも店内も、警備部の黒服の男たちが動き回り、とてもくつろげるような雰囲気ではない。
「何だか大変なことになったね。せっかくの課外授業だったのに」
と紫音。アリスが他人事のように言う。
「ほんとよね。めんどくさいったら、ないわ」