魔法学の授業開始!
「はい、皆さん。おはようございます」
教壇で担任のシャーリーが、国立魔法技術学院高等部一年A組の教室を見回した。
席のレイアウトは基本的に縦五席、横六列。一年A組はちょうど三〇人。
新学期の席順は、姓のイニシャルのアルファベット順で並ぶ。
練の席は廊下側から二列目の最後尾で、右隣に紫音。左隣は見知らぬ女子だ。
『おはようございます』と生徒たちの返事が揃う。うんうんと満足げに頷くシャーリー。
「今日から授業が始まります。皆さんのほとんとは中等部から進級されているので特に説明は不要かと思いますが、高等部から編入した方、何か質問はありませんか?」
シャーリーが、ちらりと練を見た。
このクラスで高等部から入学したのは練と隣の紫音、ブリタリア王国からの留学生ルナリアのみだ。
(何か訊きたいことがあるかってよ)
――特にない。
練はシャーリーの視線に無反応を保った。
す、と教室の一角で手が上がる。廊下側、前から二番目の席。ルナリアである。
「はい、先生。質問ではありませんが、お願いがあります」
教室がわずかにざわめいた。シャーリーも予想外だったのか、少し動揺した表情になる。
「お、お願い、ですか。なんでしょう」
「私の席を、練さまの隣に変えていただきたく存じます。私は、認められていないとはいえ、練さまの騎士。主のそばにいるべきですので」
「――はい?」
面食らったような顔のシャーリーに、別の生徒が声を投じる。
「そういうことなら、私もお願いします」
窓側から二列目の席にいるアリスだった。シャーリーが困惑して苦笑する。
「ええと。千羽さんは、どういう理由でしょうか」
「練――いえ、黒陽くんは高等部からの編入組です。授業も、もしかしたらわかりづらいことがあるかもしれません。彼の質問でいちいち授業を止められては、講師も迷惑でしょ? 僭越ながら私が、彼の勉学をサポートしたいと思います」
「あー……そういうことでしたら、お願いしたほうが他の皆さんのためにもなりますね」
練の右隣、紫音がさっそくとばかりに席を立つ。
「それなら僕が、王女殿下に席をお譲りしますよ」
練の左隣の女子が、シャーリーに言われる前にカバンを持って腰を上げた。
「あたしが千羽さんと替わります。別に困らないですし」
アリスの姓は千羽。道長の姓は三条院。出席番号はアリスが道長の一つ後ろで、席順も同じ。
立ち上がった女子の口元がわずかに綻ぶ。小さな独り言。
「三条院くんの後ろになれるなら、ラッキーじゃん」
どこかで「いいなぁ」という女子の呟き。どうやら道長は女子に人気があるようだ。
嬉しそうに、左隣の女子は去って行った。
「ちょっと残念だけど、僕も移動するよ」と紫音。
「では」「それじゃ」とルナリアとアリスも席を立つ。
ルナリアが荷物を持たずに歩き出す。その背後、ふわりとカバンが宙に浮かび上がり、教室に驚きの声が広がった。
「な、何?」
「魔法じゃないよな、あれ?」
「超能力とかかよ!?」
ルナリアがちらりと背後を見やる。
「ジェンカ。許可します、姿を見せなさい」
「あい姫さま」
ジェンカの声。カバンを持った白い手袋がまず現れた。
そこから滲み出すように幻術系の魔法で姿を隠していたジェンカが出現する。
教室のざわめきが大きくなった。
「メイドだ、メイド!」
「メイドが出てきた!」
「お付きのメイドって奴か!」
「昨日、校庭に出てきた子だよな!」
「ちっちゃーいっ」
「超可愛いッ!」
教壇の上でシャーリーがあたふたとする。
「み、皆さん。静かにしてくださいっ。ジェンカさんは生徒ではありませんが、これからこのクラスで、ルナリアさまのおそばにいることになりますから、すぐに慣れますからっ」
騒ぎの中、ルナリアとアリスが平然と練の左右の席についた。
直後、前側のドアが開いて中年のブリタリア人男性講師が現れる。
「さっきからうるさいですよ、シャーリー講師。何事ですか。もうホームルームも終わる時間ですし、授業を始めたいんですが」
男性講師は一時間目の授業をしに来たらしい。シャーリーがさらにうろたえる。
「え、え、え、もうそんな時間――」
シャーリーの言葉を遮って、一時間目開始のチャイムが鳴り響いた。
「皆さん、静かにしてください、一時間目が始まりますよっ、ああもうみんな、聞いてえっ」
慌てふためく教壇のシャーリー。練はぼそりと呟く。
「一番うるさいのはシャーリー先生じゃないのか?」
(違いねえな、まったく)
「えー。時間も押しましたので授業を始めます。中等部からの生徒は知っていることですが高等部からの生徒もいるので、まずは教科書5ページ。近代ブリタリア魔法史の序章から」
先ほどの男性講師が教壇に立ち、教壇に埋め込まれたタッチパネルを操作する。
講師の背後。黒板代わりの大型液晶に、指定した教科書のページが表示された。
「近代ブリタリア式魔法は、一五世紀後半に一人の天才によって構築されました。名は、グロリアス・ロード=ブリタリア。初代ブリタリア王ですね。まあ、この辺りの話も中等部からの生徒は知っているでしょうが、史上稀に見る暴君でありました」
(おいおい、酷ぇ言われようだな。俺、そんなに圧政しいた覚えないぜ?)
――歴史は後の人間が判断するんだ。圧政だったんだろ、その人たちにとっては。
(そっかあ? 大陸東征のためにちょいと貢納を増やしたくらいだぜ? 賦役もちょっとしか厳しくしなかったしよ、俺)
貢納は、日本の中世時代でいうところの年貢。
賦役は、民衆から集める一種の強制労働だ。
――ちょっとって、どれくらいだ。
(貢納は収穫の八割くらいだったかな。賦役は、どうだっけ。三〇歳以下の動ける男は問答無用で働かせたような)
――……充分以上に圧政だろ、それ。
講師の説明が続く。
「このグロリアスという男は、そのでたらめな魔法の力を振るい、ブリタイル島、この世界ではグレートブリテン島から、五年かからずに大陸を東部まで制圧しました。ですので一五世紀以降、あちら側の世界には、ヨーロッパからアジアまでは一つの国しかありません。それがブリタリア王国で、これが世界地図です」
大型液晶に世界地図が表示される。大陸や島の配置、形状はこの世界とほとんど同じ。
グレートブリテン島、ユーラシア大陸全土、オーストラリア大陸が赤で塗られ、ブリタリア王国と記されている。
アフリカ大陸は別の国が幾つかあり、北アメリカ大陸、南アメリカ大陸も別の国々だ。
日本に相当する列島も、独立国になっている。
国名は『倭』。
(これから倭攻略ってところで俺、暗殺されたんだよ。くっそう、倭を制覇すれば俺の東征は完成したってのに。今でも悔しいぜ)
――異世界とはいえ同じ国土に住むものとして。
――収入の八割を税金なんて平気で抜かすおまえに征服されずによかったと、つくづく思う。
ふと練は、大型液晶に表示されたブリタイル島に目を向けた。同時に違和感を覚える。
何か、物足りない。
少し考えて違和感の正体に気付いた。
この世界では、グレートブリテン島の西にアイルランド島がある。それが、ない。
――アイルランド島がないんだな、おまえの世界。初めて気がついた。
(ああ、エールランドのことか。あの島国な、俺に反旗を翻そうとして自滅したんだよ)
――自滅?
(ブリタリアを滅ぼそうと旧神竜なんざ召喚し、制御できずに自分たちが島ごと滅殺されてんの。間抜けな話だぜ)
「旧神竜? 何だ、それは」
聞いたことのない単語だった。無意識に練は声を出した。
講師の声が途絶えたタイミングだったため、教室にその呟きが妙に大きく響いた。
周囲の生徒の目が練に集まり、講師が練に問う。
「今の、黒陽か? 旧神竜などこの世界の教科書には載っていないはずだが?」
(不用意に声にする癖、直したほうがいいぜ?)
――こればかりは素直に忠告と受け取るよ。
練はしまったと思ったが、もう遅い。とにかくごまかすしかない。
「その世界地図を見て、思い出したんです。この世界でアイルランド島に相当する島がないのは、旧神竜のせいだとどこかで聞いたことがありまして」
「どこかって……ああ、そう言えば黒陽は英才教育プログラムの経験者だったか。確か担当は……シャーリーか、あの。彼女ならうっかり口を滑らしていてもおかしくはないな。
いいか、黒陽。旧神竜などすでに歴史の彼方に消えた存在だ、あんな禍々しいものの存在など、忘れるように。では、話を元に戻そう。で、どこまで話しましたか」
三条院道長が、挙手をして進言する。
「ヨーロッパからアジア全土を統一したのがブリタリア王国というところまでです」
「おお。ありがとう、三条院くん。それでは――」
講師が教科書の説明を再開した。
(アイツはくん付けで呼んで、練は呼び捨てか。舐められたもんだな?)
――ブリタリア人は、ノウ無しを人間扱いしない。それが普通なんだろ?
(まあ、な。あっちじゃ魔法は使えて当たり前、魔力はあって当然だからな。もっとも、その結果。次元に穴なんざ開けるはめになったわけだが)
――ブリタリアのある世界の空間の魔力、そんなに少なくなっているのか?
この世界とブリタリアの世界は、北極点と南極点の真上に開いた、二つの次元の穴でつながっている。そしてその二つの次元の穴が、不活性状態だったこの世界の魔力を活性化させた。
魔力は『空間の持つ可能性』そのものだ。
何物でもない代わりに、何物にもなり得る。その可能性を体内に蓄積させ、論理と意志と技術で、特定の現象や物体などに固定するのが、魔法。
(あっちの世界。俺が死んでいる間に魔法をやたらと発展させて、このまま魔法文明に頼り続けていたら、あと一〇〇年も持たずに空間の魔力が枯渇するらしいな。
だから、手つかずの魔力が空間に満ちているこの世界と次元の穴をつなぎ、こっちの魔力をもらってるわけだ)
――湯が温くなった風呂を、沸かし立ての風呂とつなげるようなものか。
(おう、そんな感じだな)
――それだと、こちらの世界の魔力もいずれはなくなるのか。
(ま、そんなのは数百年先の話だ。今、心配することじゃねえって)
――俺が心配することでもないし。そんなことより。
――いつまでおまえの話をするつもりなんだろうな、あの講師。
「で、ありまして。このグロリアスという男は、確かに近代ブリタリア式魔法の創始者であり、今に続くブリタリア大魔法文明の礎ではありますが、王としては最悪だったようです。
当代ブリタリア王家、ソード=ブリタリア家の始祖にして初の女王、エミリア・ソード=ブリタリアによって討たれたのも当然でしょう」
グロリアスを殺した女王。そんな話、教科書に載っていたか? と練は教科書を確認した。
そんな記載はない。講師が雑学として披露しているだけのようだ。
練の左目の中。グロリアスが不意に練に背を向けて寝転がった。
(あのクソ講師。余計なことまで話してんじゃねえっての。死にやがれ)
グロリアスは聞きたくない話のようだ。
どうにかして止めさせられないかと思案する練の、右隣の女子生徒――ルナリアが、無言で手を上げる。
「な、何でしょうか、王女殿下」
ぎく、と講師が身を固くした。ルナリアが手を下ろし、口を開く。
「その話は、近代ブリタリア式魔法の成り立ちとは無関係かと。話を脱線させずに進めていただけますか?
それから、私は今、生徒としてここにおります。他の生徒と同様、ルナリア、とお呼びください」
「わ、わかりました。王女……い、いいえ。ルナリアさま」
「敬称も不要です。貴方は先ほど、練さまを呼び捨てにしたでしょう?」
「く、黒陽は。普通の生徒ですし……」
講師の目が泳ぐ。
王女に呼び捨てにしろと言われて困らないはずがない。
場所が違えば立派な不敬罪になるだろう。
「構わないと私が言っているのです。私のことも練さまと同様に扱いなさい」
ルナリアが語気を強めて言った。講師の顔が青ざめる。
(おーおー、あの講師。可哀相に。ルナリア、おまえがぞんざいに扱われたことにかなり腹を立てたみたいだな。ま、俺の余計な話をした罰にゃちょうどいいだろ)
「俺のせいか?」
ぼそっと練は呟いた。
練の左隣の席で、アリスが唐突に大きめの声を出す。
「いじめるのもそのくらいにしておいてあげたら、王女さま。先生、泣きそうよ?」
右にルナリア、左にアリスという練の席は他の男子には玉座のようにすら見えるだろうが、練自身は、嬉しくも何ともない。
どうでもいいから早く魔法の授業を始めてくれないだろうか、と考える練を挟んで、ルナリアとアリスが視線を交えた。
「いじめているつもりなどありません」
「そのつもりがなくても王族が呼び捨てなんか命じたら、パワハラよ」
ルナリアの後ろ。
教室の後ろ側掲示板の前に椅子を置き、ちょこんと座っていたジェンカが、がたんと椅子を鳴らして立ち上がる。
「おまえ、姫さまに失礼。ジェンカ、排除を姫さまに申請するデス」
ざわり、と教室がどよめいた。
「パワハラ――パワーハラスメント、でしたか。そんなつもりもありませんが、そう見えるのでしたら自重するといたします。ジェンカも控えなさい、申請は却下です」
ルナリアが振り返らず命じた。ジェンカが、すとんと椅子に座る。
「あい、姫さま」
(ノウ無しの元神童に中等部主席、ドロイド付き王族。こんなクラスの授業をさせられるなんざ、講師たちも大変だな)
他人事のように、グロリアス。寝そべったまま練のほうにごろんと向き直る。
(ま、あんまし期待なんざするな、授業によ)
――どういうことだ?
(すぐにわかるさ。そんじゃ俺、寝る)
グロリアスはあくびをすると、ごろりと練に背を向けた。すぐ軽いいびきが聞こえてくる。
「さ。さて。気を取り直して。序章の説明はこれくらいで、これからが授業の本番です」
と、講師がどこからか取り出したハンカチで顔を拭い、告げる。
「教科書、九ページを開いてください」
練は、わくわくしながら教科書を開いた。
この新鮮な気分を味わうために、寮ではあえて教科書を開かず、予習もしなかった。
「何だ、これ」
思わず練は呟いた。
講師に指定されたページに記されていたのは、魔法記述光跡の解説だ。
だが。それは練にしてみれば、極めて幼稚なものだった。
そして授業は、始まった。