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雲のお医者さん

作者: ヨシィ

 春に四歳になった娘は久しぶりのドライブにおおはしゃぎだ。

後部座席から身をのり出し、目に映るものすべてが珍しいかのように興奮してしゃべり続けている。

「パパ!あそこのワンちゃん見て!」

「パパは運転してるから見られないよ」

「パパ!あの白いお花なに!?」

「ああ、あれはキョウチクトウだよ。これからもっといっぱい咲くよ。」

「うわぁすごーい」

他愛のない娘とのやり取りが心地好い。


 信号待ちのさなか、急に娘のトーンが変わった。

「パパ?前の車見て?」

ゆっくりと噛みしめるように落ち着いた口調だ。

「うん、見てるよ。前の車がどうかした?」

「前の車ね、雲が乗ってるの。」

一瞬娘の言葉の意味がわからなかったが、すぐにああと気がついた。

軽のワンボックスのリアウィンドウによく晴れた空に浮かぶ白い雲が綺麗に反射していた。

「あの人はね、雲のお医者さんなんだよきっと。」

信号が青に変わり、車が離れ始めてもなお娘は話し続けた。

「はしごわかる?あのはしごで具合の悪い雲を治してあげるんだよ。」

なるほど。

ワンボックスの屋根にははしごが乗っている。

おそらく大工さんかペンキ屋さんか、なにかの職人さんの車だろうな、と思いながら娘の話に相槌を打つ。

「ママが黒くなったじゃまいご捨ててたでしょ?悪くなっちゃったからもう食べられないって言ってたじゃない。でもね、雲はこーんなに大きいから黒くなっても捨てるところがないの。」

「だからね、お医者さんが治してあげないといけないの。」

まだじゃがいもと言えない娘の想像は止まらない。

「あのはしごで雲のところまで行って悪いところを治してあげるんだよ。」

「パパ!あたしお医者さんが雲治してあげるとこ見たい!これからおうしん行くんだよきっと!ついて行こうよ!」


 おじいちゃんの具合が悪い時に往診をお願いしたことがある。そのときにママが言った往診という言葉がわからなくてお医者さんがおうちに来てくれることよ、と教わっていた。

覚えていたんだな、おうしん。

娘の興味を叶えてやることにした。

目的地はあるが、時間はたっぷりある。

「よし!じゃあついて行ってみようか。」


 前の車が左折をしたら左折、見失わないよう同じ場所を目指す。

梅雨時には珍しくよく晴れた日だから、あの職人さんはどこかではしごをかける作業をするだろう。

もし大工さんなら屋根の修繕かもしれない。

もし電気屋さんなら配線工事かもしれない。

いずれにしても作業が始まったところで、雲のお医者さんではなかったねぇ、今度雲のお医者さんがいたらそのときこそ治すところ見せてもらおうね、と娘を納得させる筋書きはできていた。


 娘は話し続けた。

どこまで行くんだろうねぇ?

あの車の中は注射もあるんだよ。

もしもしもあるけど雲は大きいからどこにもしもしするのかわからなくならないかな?

お口開けられるのかな?

雲のお口はどこにあるのパパ?

自分がお医者さんに行ったときの経験に照らし合わせながら雲の心配をしている。


 ふと気付くと空は少し曇り始めていた。

天気予報を気にしていなかったので、このまま雨になるのかな?と考えながら車を走らせた。

前の車を追いかけながら娘に話しかけた。

「雲が増えてきたね。顔色も少し悪そうだよ。」

「ねパパ!具合が悪いんだよ。雲が増えてきたのはねぇ仲間が心配してお見舞いにきてるんだよ。」

と教えてくれた。

まだ晴れ間もあるのにとうとうぽちぽちと降り始めてしまった。

「雨だ」

口に出して呟いた。

娘はあっと息を吸い込みながら言った。

「泣いちゃった!痛いのかな?早く行ってあげないと!」

雨は雲の涙か。

具合が悪くて痛くて泣いているのが雨なんだ、と娘は自分の言葉に妙に納得しながら心配している。

雨は強くなることもなくぽちぽちと落ち続けている。


 やがてお医者さんの車が一軒の家の前で停車した。

お医者さんが車から降りてインターホンを鳴らそうとしてるところで目の前を通りすぎた。

「パパ!?止まって!」

「ちょっと待ってね。お医者さんはこれから往診の準備をしなくちゃいけないからちょっとだけ邪魔しないでいようね。」

「そっか……そうだよね。」

素直な子でよかった。

ついてきている車に気付かれていたとしたら、その車が同じところで停まったらあからさまに怪しいもんな。


 離れたところに車を停めて様子を伺いたかった。

見知らぬ町だが住宅街にありがちな小さな公園があった。

公園の脇に車を停めて歩いて見に行こうと娘に提案した。

娘は了解し、二人で外に出てみた。

大人には傘が必要なほどの雨ではなかったが娘に風邪を引かせる訳にはいかないと思い立ち、助手席の娘の荷物から黄色い雨合羽を取り出した。

「これ着て」

娘は素直に従った。


 手を繋ぎ先ほどのお宅へ向かい歩いていると雨が上がったようだ。

「お医者さんがきたから泣き止んだんだね。」

雨が強くなったらはしごかけの作業はしないだろうと心配していたけどこれなら大丈夫かな?

幸いアスファルトの道路も黒く滲む程度のお湿りですんでいる。

屋根に上がる作業だとしても足場が危ないから中止、なんてこともなさそうだ。

娘のワクワクが移り始めていた。

なんとなくワクワクする。


 往診先が見える位置まで来た頃、奥さんらしき人が見守る先にはしごをかけるお医者さんがいた。

ちょうどこれから始まるようだ。

お医者さんが片手に往診セットを持ち残る片手で器用にはしごを登って行く。

さっきまでの饒舌が嘘のように黙ったままその光景を見つめていた。

屋根の上にその姿が消えるまで見届けると、今度は下を向き両手を胸の辺りで強く握り、

「大丈夫だよ、すぐよくなるからね。」

と呟いている。

我が娘の優しさに胸が熱くなった。


 お医者さんが有能なのか、娘の祈りが届けられたのか、晴れ間が広がっていった。

ほんとうにたまたまなのかもしれないけれど、その時の光景は奇跡のように鮮明に記憶に残り死ぬまで色褪せないだろうと確信した。

隣の祈り続ける黄色い天使の頭に輪っかがあった。

濡れた雨合羽のフードに射してきた陽の光が反射して輪っかに見えただけなんだ、と今なら理屈でそう思えるけど、その時の天使を見つめながら神様に感謝した。

この子を授けてくれてありがとうございます。


 祈る娘が雨が止んでいることに気付き、フードを上げながらこちらを見上げた。

娘と目が合うと驚いた顔で、

「パパどうしたの!?」

と言われて初めて自分の目から雨が降っていることに気付く。

「あ、ほら空を見てごらん。顔色がよくなってきたね。」

「ほんとだ!すごーい!治ったんだね!?よくなったんだね!?」

「うん、そうだね。よかったね。」

「うん!すごいねあのお医者さん!」

飛びはねて喜んでいる。

君の方がすごいよ。

いつまでもそのままでいてね。

「ほんとによかったね。じゃそろそろ行こうか?」

「うん!ママんとこ行こう!ママにお医者さんの話してあげるんだ!」

ママが待ってるよ。


 雨合羽を脱がせて車に戻り、本来の目的地へ向かう。

おじいちゃんとおばあちゃんが揃って出迎えてくれた。

「ママは!?」

「あれあれ、おばあちゃんに挨拶もなしかい?」

「おばあちゃんおじいちゃんこんにちは!ママは!?」

「今少し歩いた方がいいって散歩に出てるよ。じきに帰ってくるよ。」

義父母に手土産を渡しながら中に入ろうとしていると娘が叫んだ。

「ママだ!!ママーーーー!!」

大きなお腹を抱えニコニコしながらママがこっちに向かって歩いてくる。

娘はママに向かって走り出した。

「これこれ!慌てると転ぶよ!」

おばあちゃんが心配そうに後ろから声をかけた。

「ママ!ママ!あのね!」


 生まれてくる子が男の子か女の子かはまだわからない。

でも君のお姉ちゃんは天使なんだよ。

君も同じところから生まれてくるから天使なんだよ。

夢中で話している娘をニコニコと見つめながら二人手を繋ぎ歩いてくるママのお腹の子に、今すぐ話してやりたかった。

パパの具合が悪くなっても、君たちはパパのお医者さんだよ。

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― 新着の感想 ―
[良い点] 小さな子供の描写がとてもうまい。生き生きと描かれていると思います。目に見えるようです。じゃがいもとまだ言えないところもリアリティーがある。 [一言] 空に浮かぶ雲が病気になるという発想は、…
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