Re: 変身 (卅と一夜の短篇 第11回)
フランツ・カフカの『変身』ががっつりネタバレしております。未読の方で、ご自身で結末を知りたいは、そのままブラウザバックをお願いします。
フランツ・カフカの『変身』を読んだ。
なんとも皮肉な話だった。ある朝、主人公は突然巨大な虫になっていて、悲惨な末路を迎えるのだ。
彼は普通のサラリーマンで、養っていた家族は揃いも揃って生活力がなかった。椅子に踏ん反り返っている実父。身体が弱い実母。可愛いだけの妹。そんな家族を支えていた主人公グレゴール・ザムザ。彼が虫になってしまったのなら、家族はこの先どうなるのだろう。
結果から言うと、彼の家族は成長した。虫になったグレゴールの代わりに仕事をし、勉強をし、なんとか生活を維持しようと力を合わせ、努力した。逆にグレゴールは思考が時折虫のそれになり、邪険に扱われ、父親から林檎を投げつけられ大怪我をする。目にかけていた妹からは拒絶された。汚い部屋に隔離され、そして衰弱の果てに命を落とす。誰も悲しむ者はいなかった。グレゴールは暗い部屋の片隅で、誰に気づかれることなくひっそりと息絶えていったのだ。
思考が虫に近くなっていっても、グレゴールは最後までグレゴールだった。飢えと怪我で弱りきった身体を引きずりながら、虐げたれた現実を嘆き、家族を想った。このグレゴールの悲壮な最期と、家族の輝きだした未来の明暗が、たまらなく切ない。
グレゴールが変身しなければ、あんな哀しい最期は迎えずにすんだろう。しかし、あの家族の晴れ晴れとした姿は、彼の変身なくしてはなかった。あの朝を境にグレゴールは終わりの道を歩み、家族は再生の道を歩んでいった。
大きな変化、特に人間に内面の変化には何かしらきっかけが必要なのだろうか。『変身』のように変わざるをえない状況。大いなる挫折や困難。あるいは今までの価値観ががらりと変わるような体験。きっと大きなきっかけは、大きな変化をもたらす。
劇的には変わらなくても、日々の中でゆっくりと進行していく変化もあるだろう。気づかないほど細々とし、しかし振り返れば確実に変わっている。それは知識や技術、あるいは加齢に伴う身体の変化であったりと様々だ。
この変化が好ましければ人は「成長」といい、逆の場合だと「劣化」などと言う。そう、変化が常にいい結果だとは限らない。受け入れられない場合もあるだろう。
「若く美しいままでいて欲しい」
「昔はいい奴だった」
「作風が変わった、前の方が良かった」
変わらないものは少ない。
変化は好まれ、そして厭われる。
私の変化は、後者だ。
◇
『変身』をさきほど読み終えた。文章が古臭くてよく分からなかった所もある。オンラインのブックショップで目に入って、なんとなくダウンロードしたものだ。無料だったし、単に暇を潰せる物が欲しかったから読んだだけだ。時間だけはたくさんある。
後味が良い話ではなかった。大きな感動もなければ、勧善懲悪のスッキリさもない。むしろ虚しさ、悲しさでいっぱいだった。だけどなのか、だからなのか。心に沁みついて頭から離れない。
グレゴール。あなたの最期を思うと胸が痛い。なのにどうしてあの瞬間、あんなにも穏やかだったの。もっと生きたかったんじゃない? 家族に理解してもらいたかったんじゃない? どうしてあなたは死んで、家族はハッピーエンドなの。あなたは厄介者なんかじゃないよ。きっとそう。……違う、これは私の願望だ。
学校に行かなくなってどれくらいだろう。確認するのが怖くてカレンダーはゴミ箱に捨てた。自分の部屋に引きこもって1日を過ごしている。両親は心配していて、三度の食事を持ってきてくれるが、食欲がなくて手をつけない日もある。体重が減ったのか増えたのかもよく分からない。
このままじゃいけないのは分かってる。だけど体全体に鎖を繋がれているようで、身動きが取れない。息苦しい。周りの目が怖い。一回つまづいたらこんなにも起き上がるのが大変だなんて思わなかった。少し前まで自分がこんな風になるだなんて想像もしてなかったし、そんなつもりもなかった。少し立ち止まって休みたかっただけだ。だけど気付いたら座り込んでいて、そこから立ち上がれなくて、時間とともに焦りやプレッシャーが大きくなって、もっともっと身動きが取れなくなった。全身に絡みつく鎖が重い。きっと今日よりも明日の方が鎖は重い。明後日はもっと重くなっている。一番身軽なのは今この瞬間だ。何か行動するなら今なんだって頭では分かってる。——分かってるだけで、前に進めない。
死んだ方がいっそ両親に迷惑をかけなくてすむかも、と考えた事もある。だけど死ぬ勇気もない。死ぬのはとっても怖い。だから生きている。寝て起きて、ご飯を食べて、排泄するだけ。それだけだから、私は人間社会にはなんの役にもたってない。私に食べられる為に殺された動物達は、なんてかわいそうなんだろう。
きっと私は人間じゃない。虫だ。家族に迷惑をかける毒虫だ。なんの価値もない。暗くて散らかった部屋に閉じこもって、運ばれてきた食事をただ流し込む、大きな毒虫。グレゴールと一緒だ。だけど彼と違うのは、自分でそうある事を望んだという事。選んでこうしているという事。……そのぶんもっと悪質だ。
お母さんは私の事で悩んでる。きっとお父さんもそう。家族が私の事を気にかけてくれるのは分かっているんだ。そしてまだ突き放されてはいない。……虫になったグレゴールは家族に受け入れてもらえなかった。当たり前だ。人間とは似ても似つかぬ恐ろしい虫になってしまったのだから。いくらグレゴールが訴えたって、人間の耳にその声は届かない。実の両親も、大事な妹にさえも、その声は届かなかった。だけど家族は変身したグレゴールを無下にもしなかった。最低限の世話はしていたし、とくに母親は「この虫はグレゴールかもしれない。ああ、なんて可哀想に」と思っていた。ただ、それにも限界があっただけだ。家族の情ゆえに世話をせねばと思ったし、情ゆえに捨て置けず足手まといになった。
このまま、グレゴールみたいに本当に虫になってしまったらどうしよう。それでお母さんやお父さんに見捨てられたら。
「お母さん、私だよ」って大声で一生懸命伝えても、虫の声は伝わらない。ギーギーと気味が悪い空気の音がするだけだ。お母さんは怖い顔をして「私の娘をどこにやったの!」と私を箒で叩くかもしれない。あるいは恐怖で泣き崩れるかもしれない。お父さんはそんなお母さんの肩を抱いて、悲しい顔をするんだ。そして私はその現実に打ちのめされて、惨めに死んでいく。
グレゴール。あなたは最期の瞬間、何を思った? この世の不条理を悲しんだ? 自分を受け入れてくれなかった家族を憎んだ? ——それとも、立派になった家族の姿に、安心した?
私だったらどうだろう。そんなのきっと耐えられない。想像しただけで悲しくなって涙が出てきた。家族の足手まとい。お荷物。いない方が良い存在。ああ嫌だ、嫌だ、それは嫌だ。涙は止まらなくて、ついに嗚咽も漏れ出した。幼い子どもみたいにヒクつきながら泣いていると、お母さんが心配して来てくれた。閉められたドアの外から声を掛けられる。ごめんなさい、お母さん。お母さんは何にも悪くない。私の勇気が足りないだけなの。お願い、お母さん、泣かないで……
このままじゃいけない。でもどうしたらいいか分からない。グレゴール、私はどうしたらいい?
何が私の体を重くしているんだろう。……なんとなく、だけど。それはきっと他人の目だ。恥を感じる自分の心だ。他人からどう思われているのかが怖いんだ。「あの子、引きこもりらしいよ」と思われるのが怖い。もし学校に行っても「あの子、学校来てるよ」と思われるのが怖い。面と向かって言われないだろうけど、そう思われているんだと感じてしまう。それだけで身が縮こまる。
だけど、恥で人間は死なない。
多分、他人はそこまで私に興味を持ってない。卑屈になっているのではなく、自分が周りからどう思われているか気になるように、周りの人間も自分がどう思われているのかが一番気になる。自分が思っているほど、周りは自分を気にしていないんだ。
周りを気にして動けないのなら、恥で死ぬのは自分のチャンスだ。恥で殺すのは、自分の未来だ。
私は毒虫だ。自分で選んでそうなった。でもグレゴールは違う。彼はなりたくてなったわけじゃない。死にたくて死んだわけじゃない。……彼の末路はきっと、私の未来のひとつだと思う。数ある未来のひとつ。このまま毒虫でい続けると向かうであろう、未来のひとつ。
このままでいいわけが無い。心配している両親がいる。待ってくれている友だちがいる。戻らなきゃいけない世界がある。
私は毒虫だけど、今、目の前に選択肢が2つある。
"虫のままでいる"
"人間に戻る"
グレゴール。生きていうちにこの選択肢があったのなら、あなたはどちらを選んだだろうか。私が選ぶべき答えは分かっている。ああ、分かっているのに、その一歩を踏み出すのが難しい。恥が邪魔をするんだ。
お願い、グレゴール。
私に勇気をください。
一歩踏み出す勇気を。
変身する、勇気を。
『変身』の主人公の名前が「グレゴール」ではなく「グレーゴル」となっている本もありますが、筆者は初見のインパクトからグレゴールを使用しております。
また、『変身』はいろんな解釈や受け取り方があり、本作で主人公の女の子が感じたのはその中のひとつです。気になった方はぜひ本家『変身』をご一読ください。