名もなき森 <生誕> 2
「おいしい!」
陽が西に傾く頃、ルシェルとアリアは森の溜め池地帯で足を休めていた。ロアと呼ばれる樹々の群れが吸収した雨水を浄化し、渇れる事の無い湧き水を産み出している。
溢れんばかりの湧き水は自然に出来た大地のくぼみに注ぎ込まれ、幾つもの天然池を作り出していた。ルシェルは池の前で膝をつき両手をお椀代わりに湧き水をあおる。
「どうだルシェル、疲れも飛ぶだろう」
「体が軽くなったよ」
「ロアの樹液は疲労物質を分解する成分が含まれているらしいからな。どんな成分か聞くなよ」
「うぐっ…… それにしてもこの森にこんな場所があるなんて思ってもみなかったよ」
「お前達がどう思っているのかは知らんが、この森は生きる者にとってどこよりも美しく、どこよりも公平だ」
「確かに、その通りだね」
ルシェルはリュックから水筒を取り出すと中身の水を捨て池の湧き水と入れ換える。
「そうだアリア、聞きたいんだけど……」
「またか…… 道中も質問ばかりじゃないか。お前の知りたがりは病気だな。で何だ」
「森狼徒の血の反応は人間以外の血でも起こるのかい」
「いや、人間の血だけだ。何故かは知らんぞ」
「うん。それじゃあその人間の血をどこから入手しているのかなって疑問でさ」
一瞬の沈黙。目を伏せ押し黙るアリアの様子がルシェルに気まずさを与える。
「いや、いいんだ。企業秘密もあるだろうし。ハハハ」
焦るルシェルをよそに顔を上げたアリアは、振り向きもせず歩き続ける。
「お前がさっき倒した奴がいるだろう」
「え、あぁワーム」
「獲物を丸呑みするようなあの手の溶解種は、倒した後に腹を裂くとたまに人間の死体が出てくる…… 後は解るな」
「そうかなるほど。その死体から血を抜けば人間に関わらなくて済むね。実に合理的だ」
あっけらかんと話すルシェルにアリアは不思議そうな顔を向ける。
「同じ人間がそんな事になっていても気にはならんのか」
「ならないさ。アリアがさっき言ったじゃないか。この森は生き物全てに公平だって。生き残った者の糧になるのは当然だよ」
「ほぅ」
「人間は自分達を特別視しすぎるんだ。君達を迫害出来るのも、自然を壊すのも特別な存在だと勘違いしているから」
「そうだな。そんなごう慢な人間もこの森に来れば気付くだろう。自分達もただの生き物の一部だということを」
「ああ。貴重な場所なんだよ、この公平な森は…… 公平な森で思い出したんだけど、もう一つ質問いいかな」
「ダメだ。いい加減にしろ」
「えぇ! そんなぁ」
本気で落ち込むルシェルにアリアは大きなため息を吐くと、とうとう歩みを止め振り返る。
「ではあと一つだけだ。それ以上の質問は里に着くまで許さん」
「一つか…… 厳しいな」
目を閉じ腕を組み必死に思案するルシェル。里に到着するまでの間、己の知識欲を抑えなければならない、たった一つの質問。
「目から光線出す妖精っています?」
「いるか、そんなもん」
「ですよねぇ」
疲れを癒しオアシスを出発した異種族コンビは、当初のぎこちなさも薄れスムーズに森を進んで行く。ギルド内でもほとんど情報の得られない危険なエリアにルシェルは警戒を怠らないものの、前をゆく用心棒が無類の強さを発揮する。
見たこともない獣も、吸血植物も、人を襲う虫の群れも、ルシェルが愛剣を抜こうとする頃には既に薙ぎ払われていた。
男性顔負けの剛剣に加え、女性ならではのしなやかな身のこなし。この二つを併せ持つ無敵の剣に、いつしかルシェルは警戒を解き鼻歌混じりに森を進んでいた。
そしていよいよ里に近づいた事を知らされたルシェルは、よぎる思惑に身を震わせているのか、ソワソワと落ち着きがない。
「おいルシェル。興奮しすぎだ。少し落ち着け」
「分かってはいるんだけど、これから人生最良の一週間が始まると思うと、どうにも」
「……本当に死ぬ気なのか」
「ああ。問題ないさ」
他人事の様に笑って話すルシェルにアリアは沈黙したまま寂しそうな表情をのぞかせる。
「アリア?」
「なんでもない。ふん、そううまくいくと思うなよ。何せ里の仲間は皆、大の人間嫌いだからな。会った途端になぶり殺されるかも知れんぞ」
アリアの言葉にルシェルは一瞬、息を飲む。
「……女性にこんなこと言いたく無かったんだけど…… その時は全力で守ってね」
「フフフ、冗談だ。んっ?」
突然立ち止まるアリアは何やら気配を感じたのか辺りを見回しながら様子を探り始める。
「ルシェル、お前の仲間もここに来ているのか?」
「仲間? まさか。こんなところにまで来れるギルドの人間を僕は知らないよ」
アリアは手でルシェルを制し一歩前に出ると木陰をにらみつける。
「こそこそしないで出て来たらどうだ! 居るのは分かっているぞ」
動きを止めたアリアが、しばらく辺りを警戒していると樹々の隙間からいくつかの人影が現れた。
「チッ、こんなところに小国の人間がいるとはな」
声もギリギリ届きそうな離れた位置に三人の男が姿を見せる。目許の開いた覆面に胸当ての付いた装束姿の軽装備。背中に剣を差した以外は何も持ち合わせていない様子に後ろで見守るルシェルは思わず呟く。
「人間だとしたら舐めすぎ。こんなところにあんな装備で来るなんて無知にも程がある」
憤慨するルシェルに、男達を見据えたままアリアが問い掛ける。
「奴等は人間だ。お前の仲間ではないのか」
「違うよ。人間なら多分大国の斥候部隊あたりかな。大国は隣の国で僕らの小国と戦をしているから」
「よく分からんが、くだらん人間の争いに我等を巻き込むな」
「面目ない…… それよりどうするの」
「森狼徒と知られなければ殺す必要もない。適当に追っ払うさ」
装束姿の男達は一斉に剣を抜き身構える。
「小国の人間に見られた以上、生きて返すわけにはいかぬ。死んでもらおうか」
「ほぅ」
アリアは鋭い笑みを男達に向けながら腰の剣をゆるりと抜いた。
「私を殺すなど聞くに久しい…… 良いだろう。貴様等の腐った身体を我が剣の血と錆にしてくれよう」
「アリア、完全に悪者のセリフだよ……」
装束の輩を前に力量の差を察しているのか、抜いた剣を肩に乗せ余裕の表情を浮かべる豪傑アリア。それを後ろで見守るルシェルも静観したまま助太刀に入る様子もない。
対峙する男達もまた、アリアの発する剣気に並々ならぬものを感じてか、押し黙ったまま身動き一つ出来ずにいた。
「どうした。来ないのならこちらから行くぞ」
力強い空斬りを一薙ぎ入れ、ゆっくりと歩み出すアリア。動き出したケンカ場に男達は揃って身構えるが、すぐにその構えを解いてしまう。
コオオオォォ…… コオオオォォ……
「おい、何だこの感じ」 「な、何かおかしいぞ」 「さ、寒気がする……」
森に異常事態が起ころうとしていた。
ザワザワとした急激な森の変化。目に見えない何かが、そこにいる全員の動きを止める。
「この感覚は一体……」
森の上空を見つめボソッと呟くアリア。
味わった事のない森の違和感。言葉に出来ない雰囲気のズレ。気のせいでないことは自分以外の人間を見れば明白である。
森の素人であるただの人間でさえも、見えない変化を体感してしまう強烈な感覚の不一致。吐き気を催すほどの歪んだ場のバランスは立っているのもやっとの状態であった。
「あっ! あれを見て」
ルシェルが指差し声をあげる。混乱の中、アリアと装束の男達の間に真っ黒なもやが集まり始め、それが徐々に膨らんでいく。
障気の集合体のような暗黒の膨らみは、雷雲さながらにどんどんとその大きさを増していく。
突如として起こった現象に、一同は目を見開いたままそれを眺めていた。集まった雲のような黒いもやは、やがてもぞもぞと形を変えていくと立ち尽くす面々に更なる衝撃を与えた。
「うおおぉぉん! うおおぉぉん!」
哭く!
地の底から沸き上がる様な低く重い連続音。繰り返される音の波はまるで森が哭いているよう。
「……」
呆然と、もやを見つめるルシェルの肩をアリアは突然乱暴に掴み、そのまま地面に引き倒すと驚くルシェルを無視したまま頭を押さえ付ける。
「と、突然どうしたんだよアリア」
「黙れ! 目を閉じてろ! あれを絶対に見るなよ」
「えっ! 見るなって…… それってまさか」
その姿を見た者は発狂の中で確実な死を迎える。
「魔狼!?」
アリアとルシェルは四肢を畳んでうずくまり、亀の様にじっとしたまま息を殺している。
「な、なんだ! なんだこの化け物は! うわあああぁぁ……」
魔狼を目の当たりにする男達の悲鳴は、やがて絶叫に変わり、絶叫は更に度を超えヒートアップしていく。
「うああぁぁぁぁああガガガガガバババ――」
息継ぎの無い絶叫は途切れる事なく森を駆け回り、その声質は人の域を超え、声帯を壊しながらも音を紡いで行く。
目前で起こっている状況を聴覚のみでしか知りえないアリアとルシェルは地面に丸まったまま、その身体を震わせていた。
もはや人の悲鳴とは思えない金切り音をベースに破裂音や破壊音、何かを掻きむしった様な引っ掻き音が混じり合い不快なメロディーを形成する。
不視ゆえの恐怖……
うずくまるアリアとルシェルは両の眼で見られない状況を、音だけを頼りに心の眼で視認する。偽りの眼は想像の力を借り、その視力を格段に跳ね上げる。
現実の恐怖を超えた恐怖。丸くなったまま息を殺し、言葉を失い、身体を小刻みに揺らし続ける二人の姿が、その度合いを示していた。
長く異常な喧騒が収まると不穏な気配も消え日常の森が帰ってくる。唐突な静けさの中、生ぬるい湿った風が未だ震えるアリアとルシェルを思わぬ形で刺激する。
「うっ、この匂いは……」
「……血だね」
風に煽られた血肉の匂いは失った言葉を取り戻すには充分過ぎる素材であった。
アリアは目を閉じたままゆっくりと立ち上がると静まり返るいつもの森に魔狼の不在を確信したのか、落ち着いた様子で気配を探り始める。
「ルシェル、もう大丈夫だ。立て」
促されたルシェルはヨロヨロとおぼつかない足取りで立ち上がる。
「目を開けても……」
「ああ」
ルシェルが恐る恐るまぶたを持ち上げると、そこには既に目を開き前方を見つめたまま無表情で立ち尽くすアリアの姿があった。
ルシェルはアリアの見つめる方向に顔を傾ける。
「うっ!」
地獄絵図…… 男達であったであろう肉片が湯気を立てながら四方に散乱し、強烈な湿り気と臭気を辺り一面に充満させている。
轢死とも圧死ともとれる男達の亡骸は、もはやその原型を留めておらず肉の塊と化していた。
「うっぷ……」
容赦なく込み上げてくるものをルシェルは思わず吐き出すと、その場に膝をつき胸を押さえたまま、むせ込んでいる。
もはや耐性の有無も意味を成さない凄惨な現場に、無表情で立つアリアは奇跡に近い。
「こんな力を人間が…… こいつらがやったというのか……」
切り倒された大木を見つめながらアリアは呟く。正確には殴り倒された様な乱暴な切断面であり、大小様々な木があちこちに横たわっていた。
「こんな力を出せば生身の体がもつわけがない……」
散乱する肉片を横目に、アリアはルシェルの首根っこを掴むと無理矢理立ち上がらせる。
「行くぞ。とにかくこの場を離れよう」
「あ、ああそうだね。そうしよう」
二人は急ぎ足で現場を後にする。
「あれが守り神だと…… とんだ化け物だ」
「……」
呟くアリアを先頭に二人は再び里へと向かって歩き出した。
つづく