91.禍福の日々Ⅱ
道は、思った以上に遠かった。
薄暗い道、左右は様々な建物、石畳だけが頑固に時代もなにも関係ないとばかりに敷かれている。
息を止めて一歩前へ動き停止、素早く呼吸をして再び動く――
普段であれば気軽に歩ける距離が、今は別の世界の更にその先にあると思えた。
少年の口元はへの字に引き結ばれ、足は工業用ロボットを思わせる鈍重さで動いては大地を踏みしめる。
口から量産される吐息は残らず白く、全身からも薄く湯気が立っている。
視線はときおり周囲を――まっくらで禄に明かりもない路地裏の様子を睨み、意識を凝らして鈴をちりんと鳴らす。
探索のために発した音は、普段であれば状況把握を可能とするが、今は難しかった。
少年自身の呼吸音がそれを阻害し、また路地裏という複雑な地形もある。
危険地帯を――敵に奇襲されても察知できぬ状況を、戦闘能力の低い二人がのろのとろ進んでいることを自覚する。
歯を食いしばり、前へと進む。
体力はすさまじい速度で減って行く。
今倒れたなら、おそらくもう二度と立ち上がることはできないだろう。
遠くでは騒がしい声がした。
実に楽しげで愉快そうだ。
一体自分は半裸でなにをしているのかとも思う。
もっといい方法があるはずだとも思う、それに気づかない己は愚か者だとも。
次々に弱気は浮かぶ、足を止めるべきもっともな理由を提示する。
それらを、踏み込む足と奥歯に挟んですべて打ち砕き、前へと進んだ。
言い訳や逃げ道など必要ない、ただ歩き進むことだけが己に課した命令だ。発したのが己自身である以上、これを違えるな。
固く強固な決意は――
「ヤマシタさん……」
ちいさく耳元で聞こえた委員長の声によって一瞬にして木っ端微塵に砕け散った。
足が止まった、内蔵辺りに寒気が注ぎ込まれた、ぶるりと全身が震えた。
――起きた!?
「えへへ……」
そのまま、幸せそうにすうすうと眠った。
膝をついて土下座して五体倒地をして信じてもいない神様に感謝しそうな勢いで安堵した。
心臓が信じられないテンポで脈打ち、「はぁぁあ……」という息はどこまでも続き、目元から涙がほろりと流れた、ここが薄暗くて良かったと思う。誰にも見られていない。
耳元で「ぅひ……っ!」と興奮のあまり漏れ出てしまった声が聞こえた気もしたが、おそらくは幻聴だろう。
「よっと――」
いくらかずれ落ちてしまった委員長を抱え直した。
それだけで冷たい空気が入り込んだ。
抱える腕が限界を示すように震えていたが、まだ大丈夫だと己に言い聞かせる。
……その瞬間、本当に心の底から安堵していた。
それほどまでに委員長に今の人姿がバレることは危険だった。なにがどう危険なのかは上手く説明できないが、魂と呼ばれるものが「知られたなら致命的」と断じていた。
それは、別の言い方をすれば完全に油断していたということでもあった。
前方で発生していた音を聞いていない。
鈴の音による周囲の探査も怠った。
だからこそ――
「……失礼、この道は掃除中です、ワックスをかけたために滑りやすく歩きにくい、別の道行きがおすすめだ」
七三分けの銀縁メガネが、デッキブラシを手に接近していたことに、咄嗟には対処できなかった。
+ + +
「……」
唖然とする少年の前で、ふたたびその相手は掃除を再開した。
上着を脱ぎ、ワイシャツやズボンを捲り、汚れてもいいようにしている。
かなり手慣れた様子だった。
ヤマシタさんは自分自身の姿を確かめてみた。
半裸の最低限の衣服を下半身にまとった状態だ。
禄に物がなく、また、あったとしても委員長の『不運』によって一定時間が経過すれば破損してしまうため、空き家に残っていたカーテンを借用し、腰につけていた。
おそらく通常の対応としては、そうした姿につっこみを入れるか、さもなければこのような時間に子供が出歩くことの是非についての指摘だろう、あのタレ目であればそうしていた。だが、その銀縁七三はそうしたことを一切言わず、『薄汚れた路地』だけを相手にしていた。
こびりついているガムなどは、膝をついてヘラのようなものでこそげ落としてもいる。
彼より後ろの道はぴかぴかに清掃され尽くされているようだった。
そこらの路地裏が、高級ホテルの廊下のような有様になっている。
「まさか、すべてを清掃するつもりなのであろうか……」
思わず呆然と言う。
「口惜しいことにそれはできない。残念でならない」
手を止めず、視線だけをよこしたまま。
「ただ、普段の通勤路は秩序正しくあって欲しかった」
「なるほど……なるほどッ!?」
最初の「なるほど」は納得のため、次の「なるほど」は戦慄の現れだった。
彼は委員長を背負ってここまで来た。周囲の建物をばしばし破壊しながら。
そして、そのスタート地点は破滅的な様子と化していた。
疲れとは別の汗がだらだらと流れた。
入念で妥協を知らぬような清掃の様子が、少年を心理的に追い詰めていた。
「じゅ、住居がどこかを訊いても?」
「この先をまっすぐ進み――」
土下座の準備態勢を整えた。
教えられた地点は、委員長が作成したクレーターの外円部付近。今となっては瓦礫しかないことが確実だった。
「た、大変、申し訳ないが……」
「こちらもまた申し訳ないが、近づかぬまま会話して欲しい」
「……どうしてだろうか?」
「腹立たしいことに理由不明だ。だが、あなたが背負う女性に近づきたくはない。この距離にいるだけで、せっかく作り上げた積み木にドロップキックを食らわせたあの幼なじみのことが強制的に想起される、混乱と混雑と混沌の発生だ……まったく不合理きわまりない指摘だが、できれば今すぐにどこか別の場所へ行って欲しい」
眉間にシワを寄せながらの、苦悩に満ちた表情だったが、少年はむしろ素直に納得した。
このまま道を進んだなら、この綺麗に清掃された場所は面白おかしい様子に変換されることになるだろう。
やはり未誕英雄とは直観力に優れているのだなと、ヤマシタさんは一人納得する。
「――」
そして、ここで「わかりました迂回路を行くことにします」と言えないのも辛い所。なにせ何もない道をせっせと清掃しているような人の家を完膚なきまでに破壊した。
積み木にドロップキックどころではなかった。自宅にダイナマイトのレベルだ。怒る程度では済まないだろう、下手をすれば命の取り合いとなる――
そう、決定的な闘争へとつながるかもしれない。その可能性がある。
一度それに気づいてしまうと、素直に謝ることがとたんに難しくなった。
どのような能力を持つのかはわからないが、この時間、この場にいるということは未誕英雄であるはずだ。さすがに二回生ではないとは思うが、それすらも断言はできない。
どちらにせよ、病人を抱えている自分は、戦いとなれば決定的に不利であることに違いはない――
苦悩する少年の瞳孔は縦に裂けるネコ目だが、それでも胸に貼られたネームバッチに「ただの人間」と書いてあることまではわからなかった。
また、わかったとしても悩みが解消されることはなかっただろう。
こちらは加害者、向こうは純然たる被害者だ。
それでも人と比べてその聴力視力は優れており、十分にその効果を発揮する。
廃墟のような地点、人気も光量も少ない場所、そして複雑な地形。
この状況で起こり得ること――つまりは奇襲に、いち早く気づくことができた。




