86.二人の日々Ⅰ
「足りませんね」
背中がびくりと震えた。
ここは最近やたらと綺麗になった依頼受付所、前であればとてもじゃないけど何か食べていこうって気にならなかったところだけど、今だと猫耳の人とかがほやほやした様子でお茶とか飲んでいる。
平和な午前の日差しの中で、僕は冷や汗をだらだらと流し続ける。
同じ場所なのにまったくの別世界だ。
空気を悪くして申し訳ないなと思うけど、同時にその平穏をこっちにも分けて欲しかった。
七三分けの銀縁メガネの人の後ろでは、妖精がその背に隠れながら僕を警戒の目で見ている。
どうしてそこまで用心されているのか、まるでわからない。
日々けっこう品行方正に生きてると思うんだけど、たまにこういう人と出くわすことがある。
「え、ええと、ハラウチ、さん?」
「はい、祓打です」
「た、足りないってどういう……」
「元の量に対して、明らかに中身の分量が不足しています、これでは満額の支払いはできません」
「そ、そんなことは無いはず――」
視線が泳いでるのが、自分でもわかった。
僕とハラウチさんの間には大樽があり、それらは今は重量計の上に乗っていた。
ここまで運ぶのはけっこう大変だった。
図書館にあったカートを借りることができなかったら、もっと苦労することになったんだと思う。
横にしてごろごろ転がせば楽に移動そのものはできたんだろうけど、中身の重要さを思えばとてもじゃないけど、そんなまねはできない。
なにせ、何に使ってもおいしくなる魔法で万能の調味料だ。
味噌の方は、もともとそこまで好きじゃなかったけど認識を改めた。
ちゃんと作った味噌汁が、あそこまで美味しくて懐かしくて味わい深いものだとは思ってもみなかった。あと、お肉をしばらくつけ込むと旨い。ご飯がとても進んだ。ついつい食べ過ぎてしまった。そう――
「て、天使の取り分って言葉があって――」
「あなたは天使ではない」
「いや、でも、ギリギリにはしてたはず! 規定量内には抑えてあるはずだよね!?」
「おそらくあなたは単純な重量比で計算をした、混乱の源がそこだ。樽そのものの重さを引いて計算する必要があった」
あ、そういえばそうだった。
思わずぽんと納得の手を叩く。
極端な話、樽の重さを百、醤油の重さを百として、「三割まで使っていいよ」と言われたとき、使える分量は三十までだ。樽+醤油の重さで考えてしまうと、六十も使えてしまうことになる。
妖精がひょこっと顔をのぞかせた、口元を手で隠し、ぷぷぷぅ!と笑いながら。
「うっわー、だっさー、ねえねえ、ひょっとして掛け算とかできない人?」
「サルファは口を挟まないでくれ」
目をアーチ状にして、指さし笑う妖精を、ハラウチさんは後ろに押しとどめた。
サルファと呼ばれた人はどこか嬉しそうに暴れてる。
「……」
僕は目を閉じ、がっくりとうなだれた。
そうして思いを馳せる。
たとえばお刺身。単純に魚の切り身をつける食べ物だけど、醤油が美味しいと味が更にワンランクアップする。
たとえばすき焼き、砂糖と醤油とかをたっぷり使うあれは、料理上手がいい素材使って作るとなんか別物にみたいにウマウマになる。
たとえばお鍋、ちょっとだけお味噌を焦がして香ばしくしたところにダシをたっぷりと注いで、お野菜やお肉をどさどさ入れるだけで絶品になる。
そして、おウドン。むしろ王道のドン。
目尻から涙が流れたのは、それらとの決別のためだった。
望んでいたあれやこれやが消えることになってしまった。
「……はい」
実はこっそりと別分けにしまい込んでいた、味噌と醤油。
ペットボトル入りとタッパーに入れていたのそれらを、自首する気持ちで差し出した。
「しょうゆ……?」
どうやら樽の中身を知らなかったらしいハラウチさんが、なんか葛藤している様子があったけど、僕は多大な犠牲を出しながらも後払い報酬を手にすることができた。
+ + +
「寒……」
懐は暖かくなったはずなんだけど、気温と心はとても寒い。
もう完全に冬だった。「ちょっと重ね着すると暑いかなぁ」って季節はいつの間にか過ぎ去り、何もかもを凍らせる寒さが忍び寄り、制圧していた。
行って帰って来たら、いつの間にかこうなっていた。
どうやら異世界への渡航は、時間の流れをいろいろおかしくするらしく、こういう出来事はたまにあるとのこと。ペスを残して行かなくて良かったと心底思う。
下手をしたら、戻ってきたら百年後とか百年前とかだったかもしれない。
同じ日に生まれたクラスメイトたちの何割かとも出会えなくなっていた。
僕らのようにどこか異世界へ行っているのかもしれないし、『生まれ』たのかもしれない。
ただ、教室は寂しくなっていた。
これもまた、未誕英雄世界の流儀。そう受け入れるしかないみたいだった。
いつの間にか、見知った人がいなくなる――
少しだけ、悲しな、とも思う。
冬を、僕は歩いていた。
本来ならヤマシタさんがコタツで丸くなるだろうけど、どうやら寒さをあまり苦にしない性質らしく、けっこう平気で出歩いてる、たまに道ばたで顔を合わせることもある。
委員長は着膨れして身動きせずに部屋の中にいるらしいから、なおのこと自由を謳歌しているみたいだった。
委員長の『不運』も万能じゃない。どれだけ周囲を『不運』にしても、気温そのものが変化するわけじゃない。
むしろすきま風を呼び込むことになる。
なるべく部屋全体を暖かくし、委員長は身動きせずにその能力を出来る限り制御しなきゃいけなかった。たぶん、冬の間はあまり出歩くことはできない。
はー、と吐き出すと、息は白く広がった。
すぐに拡散して消えていく。
買ってきた細々とした必要なものがビニール袋に入ってる。手袋をせずに素手のままだからとても冷たい。
石畳はカチコチだ、その場で立ち止まっているだけで足が冷える。自然と早足にもなる。
これだけ寒いと雪が降ってもおかしくないんじゃないかなと思うけど、どうやらここではあんまり降ることはないらしい。
残念だなぁと言うと、ペスに叱られた。
雪は、意外と厄介で面倒で大変で――外から見れば綺麗であこがれでロマンチックかもしれないが、その内にいると苦労しか感じないとのこと。
やけに実感をこめてしみじみと言う様子が、ちょっと不思議だったけど、まあ、今更のことかもしれない。
そのペスは、今は僕の家にいる。
どうしてなのかは、本当によくわからない。
ただ、気づいたらそうなっていた。
部下にすることを了承したばかりだったし、追い出すのもそれはそれで不義理というか邪険にしすぎだと感じたから、そのままだった。
そして、作ってくれる料理が美味しかった。
本当に、美味だった。
いい料理人が存分に腕を振るうとこうなるのかって感じだ。
魔力のあるこの世界で、いっさいの制限なしに作られそれは、なんかもう僕の理解を越えていた。
「困ったなぁ……」
今更一人であの部屋でものを食べることができるとは思えなかった。
どんなに贅沢したとしても、きっと味気ないことになる。
空を見上げる。
凍った空気は透明で、ガラスみたいに澄んでいた。
手を伸ばしてみる、当たり前だけど『掴め』なかった。
ただ寒いばかりだ。
ポケットに手を突っ込み、早足で行く。
なんだか僕が今したことが、妙に恥ずかしくなった。
空を見上げて手を掲げて握る男の姿だ。
思わず周囲を見渡す、幸いなことに他には誰もいなかった。
それでも恥ずかしさは止まらない。
どこか、ここでは無い場所で、同じことをやって盛大に笑われたような記憶がなぜか実感を伴って思い出された。
「ああ、もう」
根拠不明の羞恥に身を焦がしながら、僕はペスが待っている自宅へ早足で戻ることにした。




