85.受付の日々Ⅳ
住所不定無職――
そんな犯罪者の経歴のような立場になってしまった祓打は、結局そのまま依頼受付係及び配膳係になることとなった。
敬遠していた雑務に専門の人間がついたことに、誰もが喜んだ。
文字の読めない受付だ。
問題があるどころの騒ぎではなかった。それでも、上手くいっていた。
依頼受付における重要事項は、結局のところトラブルの対処と、適切な依頼の受諾だ。
『なんとなく』で依頼が適切かどうかがわかる祓打にしてみれば、問題の半分が自動的に片づいていた。
もっとも、本人としては納得できなかった。
仕方なしに今はこの忌むべきものに頼っているが、『勘』などという不安定なものにすべてを委ねることは、彼としては「少しくらい部屋は散らかっていた方がいいよね」と言っているようなものだった。
だからこそ暇な時間を見つけて図書館に赴き。
「日本語に関連した書物を借りたいのだが……」
そんなものは無いと馬鹿にされることを覚悟で訊いた。
司書はぼーっとやる気の無い様子で祓打を見つめていたが、よろよろと立ち上がったかと思うと無言のまま背後の書架へと向かった。そして五分後、枕草子と新刊ラノベと辞書と初心者用釣りの本とSFと――
それらを山のように満載したのをカートに乗せてやって来た。司書の小さな背丈を完全に覆い隠す分量だった。
「あと、百五十往復……」
涙目だった。
細い腕で本を丁寧に机の上へと運ぶ。
一冊手にとってみれば間違いなく日本語だった。新聞などは今朝の朝刊だ。
あまりのことに呆然としていた祓打はハッと気づき。
「た、大変申し訳ない!」
非礼を深く詫び、この世界に対応した辞書と、絵本だけを持ってきてくれるよう頼んだ。
「……」
「それだけです」
半眼の目が、本当にそれだけなのか、必要なものが他にもあるのではないか、また別のを頼もうとしているのではないか、これ運ぶのすっごく大変だったんだけど、腕がぷるぷるしてるんだけど――と言っているように思えたので、そう言葉を付け足した。
司書が目を瞑り、腕を振った。
それだけの動作しかしていなかったと思えたが、手には辞書と大判の絵本があった。
「これ?」
「は、はい」
中をたしかめる。
宝と呼べる情報だった。これを作るのにどれだけの時間が必要だったのかを思うと背筋が震えた。
「これらの本は、いったいどうやって入手を……?」
「さあ?」
どうやら司書本人にもわかっていない様子だった。
胸に抱き、深々と頭を下げた。
「ありがとうございます」
「おういぇ……」
すでにもう司書はくうくうと眠りについた。あれだけあった本の山は、いつの間にやら消えていた。
入り口で、やたら巨大な黒い鎧姿とすれ違った。
+ + +
昼間は忙しく対処しながら、ときに依頼受付よりもよほど忙しい配膳皿洗い会計を手伝う。
夜は夜で細い明かりの下で文字を学び、書き取りをし、辞書片手に絵本を読む。
二時間ばかり眠り、誰よりも早く起床し、まずは店外の掃除を行う。
肉体労働と頭脳酷使を組み合わせたハードスケジュールだったが、気力は満ちていた。
始めは奇異の視線を向けていたものたちも、徐々にその存在を認めた。
そう、ただの人間である祓打は、いつのまにか有名になっていた。
未誕英雄と住人との間には、たいてい棲み分けが行われている。
住宅地で喧嘩をする未誕英雄は強盗や殺人の未遂と同じであり、鼻つまみ者となる。
代わりに、『ただの人間』がいない場所では存分に力を振るったところで誰にも咎められることはない。
一級の危険地帯に住み、いまだに生存している祓打は無茶無謀を通り越していっそ自殺行為ですらあった。
だが同時に、その『自殺行為』は、他ならぬ未誕英雄の良識の証明ともなった。
彼が生存し、清掃を行い、依頼の対処を続けるうちにそうした認識が芽生えた。
そう、多数であれば問題だが、一人くらい度胸のある一般人を受け入れることもできずにどうするというのか。
まして祓打が受付を初めて以降、あれほど薄汚れていた店は開店直後のようなまっさらな様子となった。
机や床は鏡のように顔が映り、壁は元の色彩を取り戻し、町外れの寂れた居酒屋風から小洒落たシックな高級店へと変化した。
堅苦しい様子に、飲食の売り上げは減ったが、オーガのコックはつまみ食いできる量が増えて満足そうだった。
だが、それでも祓打は現状にまったく満足していなかった。
まずは文字を自在に書けるようにしなければならない。
最初は依頼書を読んで確認したかったからだが、今となってはもう少し別の理由も乗っていた。
「こうか……」
「違う違う、へっただなぁ」
平行して魔術も習う関係上だ。
この世界の文字は魔術的な要素をかなり取り込んでいる。
幸いなことに最低限ではあるが魔力と呼ばれるものが備わっていた。もともとあった直感力はそれの現れであるらしい。
「不器用だねー」
「面目次第もない……」
この世界に満ちる魔力と、己の内にある魔力を反応させる。
熟達すれば片方だけでも可能であるらしいが、基本的に魔術とは『流れの構築』だった。
基盤に電気を流すことによって機械を動かすように、図形に魔力を流すことで魔術を成す。
サルファは祓打の話を聞き、元々持っていた魔力がなんらかの形で『流れを構築』してしまい、この世界に来てしまったのではないかと推測を述べた。
仮に、もし仮にそれが正しいのであれば。
「魔術とやらによって来たのであれば、魔術によって戻ることもまた可能なはずだ」
祓打は、そう信じた。
それ以外に、道はなかった。
未満英雄世界とは、もともとは他世界へ行き来しているが、未だ日本とつながってはいなかった。『英雄』が訪れ、戻ってきた世界でなければ気軽に渡航することはできない。
目標となる地点がわからなければ、手段があったところで無意味となる。
祓打が、自分の手でその『行き先』を見つけなければならなかった。
必要なのは大魔術ではなく、目的地発見だ――
もっとも、いまだに魔術は一度も成功してない。
サルファは実に、退屈そうに、嫌々の仕方なしに、罰ゲームで望まぬことを行っているような様子だが、いつ見ても彼の傍にいた。
「ホント、頑張るねー」
「無論」
四桁に届こうとする失敗にもめげず、ふたたび挑戦する。
「一刻も早く帰らなければならぬ」
その一念が彼を動かしていた。
不満そうな妖精の様子にはまるで気づいていない。
そう、ここの生活も悪くはない。
混沌そのものの様子だが、意外とバランスがとれている。この世界なりの秩序があるのだと、ようやくわかった。
住めば都であり、その良さもわかる。
だが、幼なじみの世話をしなければならない。他の人間の介入などさせてはならぬ。
今どうしているかを想うだけで、胸の内がざわついた。もっとも望まぬ混乱が内側にある。
「馬鹿だねー」
今日も魔術は成功しなかった。
あきらめるつもりなど微塵もなかった。
そう、もっとも清掃しなければならない場所がある。
それをあきらめられるはずもなかった。
+ + +
祓打は、ときおり時間を見つけては扉を開ける。
魔力と祈りを込めて。
何度も、何十回も、何万回も。
懐かしい場所へつながることは、今のところなかった。




