84.受付の日々Ⅲ
事態は動かない。
空気は困惑を含みながら硬直している。
振り上げられた拳はその振り下ろす先を探している。
祓打は、ただの人間であることを明示した。
これを殺すことは、果たして『英雄』の行動としてふさわしいかどうか。
彼が賭けたのは、実のところただその一点だった。
その一点に命を張り、睨み続け、指は並び直しを指示した形を続ける。
そう、誰であっても、自らを良いものであると信じたいものだ。ごく普通の考えの持ち主であれば、殺傷するのに『言い訳』がいる。「あれは理由があったから殺した、人が死んでしまったことはとても悲しいことだが、どうしようもなかったのだ」云々などだ、まず誰よりも先に自分自身に対して、釈明の言葉を必要とする。
そして、その釈明とは――
「これだけ馬鹿にされて、黙って引き下がるのが英雄のわけないよなぁ?」
ごく簡単な、理屈にもなっていない理屈であっても成立する。
拳がより強く握られ、なにかをごまかすような笑みがその口元に浮かび、殺意が祓打を穿った
銃口を突きつけられ、引き金に指がかかったような状態。
目を閉じ、眉間に力を込め、覚悟を決めた。
彼が感じていたのは、恐怖よりもむしろ無念だった。
――ここにも整理整頓の志はないのか。
結局は、あの幼なじみが正しかったということか。
世の在り方は混雑であることの方が正しいのか――
それだけが心残りだった。
相手の無抵抗を見て取り、殺意はさらに確たるものとなる。
周囲もようやく気づいたように動こうとする。
事態の成り行きを見守り続けるのも限度がある。
未誕とはいえ英雄であるのならばなおさらだ。
全員が一度に行動しようとしたその瞬間――扉が開き、やけに難しい顔をした者が入ってきた。
膠着状態ではなく戦闘が終わったと判断され、閉鎖が解除、他の人が行き来することができるようになっていた。
それは、誰も望まない闖入者だった。
祓打の胸倉をつかんでいる者からすれば、余計な横やりを警戒する必要がある。
今まさに止めようとする者たちからすれば、余計な行動をされて事態を悪化させたくない。
皆が注目しているその人間は――やけにげっそりとやつれていた、まるでここしばらく禄なものを食べていないかのようだ。手元にあった紙を鬼気迫る様子で確認しており、そしてタレ目だった。
「おい――」
「……」
無言のまま、物も言わずふらふら近づき、予備動作もなく、祓打を殴り殺そうとしていた人間を横から蹴り飛ばした。
「ぐふぅ!?」
見事な一撃だった。
イスを数脚なぎ倒して吹き飛び、壁へと衝突し、気絶させた。
おそらくまだ生きている。
その場がしんと静まりかえったのは、その威力などではなく、その『殺意の無さ』ゆえだった。
曲がりなりにも全員が注目していたというのに誰も反応できなかった。
まるで「大きめの石があったからちょっと蹴った」ていどの様子で致死レベルの攻撃を行ったためだ。
戦士が攻撃に反応できぬ事態――場を凍りつかせるのに十分すぎる出来事だった。
だが、タレ目は自らが成した攻撃の結果をたしかめることなく――というよりも気づいた素振りすらなくトコトコと近づいた。
そうして、ただ単純に、無意識下で殺意に反応した者は、
「あの、この依頼お願いします」
どこかせっぱ詰まった様子でそう言った。
先ほどの攻撃時よりも、よほど必死だった。
祓打は言葉少なく対応し、目を白黒させていた妖精に前払い金を頼み、すぐさま可能な限り素早いお引き取りを願ったのは言うまでもない。
+ + +
その後はスムーズに物事が流れた。
危険人物は問題なく依頼を受けて、帰って行った。
ゴネて蹴られて失神した者は、様子を見に来た仲間に引き取られた。
そして、どういうわけかそのまま祓打が受付のイスに座り続けることになった。
――実は自分は異邦人であり、どういうわけか迷い込んでしまって――
などの説明をする暇などなかった。
より正確に言えば一度は辞去しようとしたのだが、すぐさま座り直すことになったのだ。最初に受付をしていた妖精――サルファという名前の彼女は、こうしたものには徹底して向かない性格だった、二回に一度は依頼書を持ってきた者とトラブルを起こした。
素人どころか、この世界の文字すら読めぬ彼が対応した方がマシなほどだ。
書面を見つめ、持ってきた相手のスキルや仲間や実力を確認し、受諾するか拒否するかを決定する。
実に簡単なこの作業を、どうやればそこまで拗れさせることができるのか、まったく不思議なほどだ。的確に相手が気にしている部分を言葉の槍で突き刺していた。
「うっわ、あんた臭い臭い、鼻曲がる、どれだけ文明レベル低いとこから戻ったの?」
「あはは、ダッサ、こんな簡単なの失敗? うわぁ、うっわぁ、本気ですかマジですか、みんな見て見て!」
「あ、禿げてる……」
そのたびに祓打が対処することになった。
彼が受付を行い、報酬支払いその他はサルファが行う形になったのは、ごく自然な成り行きだった。
妖精はぶうぶうと文句を言っていたが、その方が楽だと気づいてからは丸投げに躊躇しなかった。
「でも、めずらしーね」
「なにがだ」
依頼者が訪れず、併設されている酒場の方も暇となると本当にやることが無くなる。
奥の調理場では、オーガが中腰で嬉しそうにシチューをかき混ぜている。味見と称して半分ほどに分量は減るだろうが、それでも十分なほど巨大な鍋だ。
コトコトという音と、香しい匂いを嗅ぎながら、サルファは頬杖をつき、祓打はてきぱきと掃除を行っていた。
「こんな退屈なことやるとかキトクだよ、予定表には入ってなかったでしょ」
「ああ」
「しかも文字も読めないのに」
「面目次第もない」
「あー、けどけど、良かったのかなー」
「なにがだ」
「今思い出したんだけどさ、最初のあの依頼受け付けちゃった人のやつ、あれ、けっこうヤバい依頼だったよーな気が……」
妖精はパタパタと羽を揺らし、渋面を作った。
「おそらく大丈夫だ」
「なんで?」
「勘だ」
「えー」
七三分けでメガネで、見るからにきまじめな人間がいうところの『直感』だ。
妖精がさらに渋面になったのも当然だった。
だが、祓打にしてみれば、それほど悪くないもののように思えた。
不思議なことに、ぴたりと『当てはまる』と感じたのだ。
それは言ってみれば不揃いだった積み木同士が上手く噛み合い、乗せることができたような感覚だった。他のものではダメだが、時に誂えたように適合するものがある。
彼にしてみれば『その感覚』に近いかどうかだけをたしかめれば良かった。
「でもさ、度胸あんね」
「なにがだ」
「ただの人間とか、そんな嘘までついてあの場を収めようとするとか、やるね。ちょっと思いつかない対処だったよ」
「?」
「……なに不思議そうな顔してるの?」
「嘘など、生まれてから一度もついた覚えがない」
「え、いやいや、さすがに未誕英雄じゃないってことないよね?」
「一般人以外のものであった記憶はない」
まじまじと見つめられた。
ぺしぺしと小さな手で額を叩かれた。
ぐるっと一回りして、あちこちを確かめ。
「は?」
なんなのだろう、この馬鹿者は。
そんな視線を向けられた。




