82.受付の日々Ⅰ
私鉄に揺られて一時間、駅から十五分の道のりを十分に縮める早足で歩き、仕事の疲れが肩にどっしりと乗った彼が――祓打充が扉を開けると、そこは見慣れた自室ではなかった。
西洋風の居酒屋――バーなどという洒落たものではなく、お年を召した品性がいささか欠如していると思われる方々が、ビールをあおりながら油たっぷりで体に悪く、それでいて旨いものを喰らう場所だ――そんな風に彼は思った。
電気の類はなく代わりにランプらしきものが下がっているが、それらは点灯されておらず薄暗い。
蛍の光のようなものが、ふらふらと天井付近で揺れているお陰で、どうにか輪郭だけは見える。
木製のイスの群が混沌を表し、汚れは堆積している、たまに聞こえる小さな音は昆虫界の嫌われものだろうか。漂い来る若干の臭さに渋面となる。
手元を見れば捻ったはずのドアノブはどこにもなく、代わりに真鍮製の取っ手に手をかけていた。
後ろを振り返る。
先ほどまでの商店街はどこにもなく、代わりに石畳の敷かれた広場の暗さが見えた。
先ほどまで確かにいた帰りを急ぐ人々の姿は誰もおらず、彼方でのみ騒がしい声が聞こえた。
その騒がしさは、あきらかに聞き慣れたものではなかった。
しゃべる声の大きさも、騒ぐやり方も、おそらくは内容までもが違う、そうした雰囲気はわかるものだ。
安物のスーツを着込む彼の姿は、町並みから浮いていた。
身にまとう疲れや風情の種類が、この場所ではまるでない。
「ふむ――」
一度閉め、ふたたび開いてみた。
同じだった。
自宅にはつながらなかった。
「仕方ない」
腕まくりをし、店内へと入る。
異常な事態に巻き込まれた自覚はある。
常識では考えられない出来事が起きた。
が、それはそれとして乱雑が乱雑のままであることが彼には許せなかった。
「掃除をしなければ……!」
久しぶりの大物だ。
目は興奮に燃えていた。
+ + +
祓打は混雑というものが許せなかった。
それは機能美の逆だ。正しく流動せず、停滞し詰まり機能不全へと陥る有様だ。
この不合理をどうして他の人は放置しておけるのか、彼にはまったく理解できなかった。
それは、言ってみれば汚れに汚れた耳の穴を見せられ続けるようなものだ。
他人のだからと放置するにも限度がある。
手に綿棒と耳かきがあれば――綺麗にしてしまえる手段があれば、すぐにでも実行する。
このような信念が生じるようになったのは、幼なじみの影響もいくらかあるのだろうと見ていた。
祓打とは逆に、無駄こそを愛した。
意味のないもの、不合理な阻害物、時代も場所も状況にも合わぬ邪魔物。
それをすばらしいと賛美するのだ。
今も昔も変わらず、まったく理解できぬ相手だ。
思い返せば、初対面のときからそうだった。
出会いは幼稚園。
積み木をきっちりシンメトリーに組み上げる横で、極限のバランスをとりながら逆ピラミッド状に組み上げるのを認めたのが一番最初だ。
互いに互いのものを「なんでそんなもの作るの?」と問いかけた。
返答の説明は、双方ともにまったく通じることはなかった。訳の分からぬことを力説する変人、お互いに相手をそう評した。
以来、反目し合いながらも、つながりは途切れることはなかった。
延々と変わることなく混雑を賛美し、そのすばらしさを吟味し、より深く知ろうとする姿は、祓打に「理解は出来ぬが、その姿勢は賞賛に値する」と判断させるに至ったのだ。
理解できぬことと、愛することは違うのだと気づいた。
理解できぬは主観だが、それを愛する者がいることは客観的事実だ。
だが、だからといってアトリエに籠もったまま、風呂にも入らず食事もせず着替えもせずにいることは違うだろうとも思う。
定期的に祓打は、その世話をすることになった。
おそらく、彼がいなければ今頃は冗談抜きにくたばっていたのではないか。
合理不合理の観点から見ても、無駄を愛する姿勢からしても、作る最中の死は望まぬものに違いない。
幼なじみの世話は、もはや習慣であり意識して行動するようなことでもなかった。
そして、この酒場は、どこかその幼なじみの部屋に似ていた。
好ましくない混雑であり、混乱だ。
彼にとって、言語道断の有様だ。
衛生観念という言葉がどこにもない。
そんなものが目の前にあれば、自動的に掃除せざるを得ない。
「く、なぜモップがこれほどまでに汚れているのか――」
「まさかこの皿は洗い終えたということになっているのか……!?」
「書類!? まさかここは酒場としでだけではなく別の機能も併せ持つ場所だと――」
どこか嬉しくも聞こえる叫び声をあげながら、祓打は夜を徹して清掃作業を続けた。
見違えるように、とはいかないが、まだしも見れる有様となる。
暗く外観は見えぬために、まだ手を着けていないが、内部が終わった後はこれも行うことを決めていた。
しかし――
「なんだ、この文字は……」
事態は、彼が想像していた以上に『異常』だということに、ようやく気がついた。
彼としては、なんらかの理由により瞬間移動したのだろうと思っていた。幼なじみが嬉々としながら披露していたオカルト知識にそのような例もあった。事実であるかどうか怪しいと常々思っていたが、じっさい身に起きたことであれば認めぬわけにもいかぬ、あとで謝罪しなければ――そんな風に呑気に思っていたのだ。
しかし放置されていた書類、そこに書かれていた文字は日本語はもちろん、英語仏語伊語その他もろもろのいかなるものにも似ていなかった。
強いて言えば楽譜に近い。アラビア語とも異なる流麗と緻密だ。
文字特有の「意味」はひしひしと感じる、分厚い異国の本をめくったときに覚える感覚だ、まるで読めぬし、理解もできぬ。だが、歴史と知識を積み重ねた佇まいだとはわかる。何かを伝えるための手段であり想いだ。
どうにか解読できないかと挑戦していたが、手がかりすらもつかめない。
単語レベルですらもわからない未知の言語だ、中学高校と六年間にもわたって英語を学んだというのに、これを自在に操り会話することができないことを思えば、数時間程度ではまったくの不可能だ。
「む……」
むしろ眠気と疲れが限界に近かった。昼間仕事をしてから、夜を徹しての清掃作業だ、やりがいはあったがさすがに無茶だった。
掃除は片づけまでが掃除――その信念のもとにロッカーらしき場所へ使い終わった用具を入れる。
そこが限界だった。
頭から突っ込み、そのまま倒れ込んだ。
固いばかりの鉄壁が、今このときばかりは最高の枕だった。
不法侵入、あるいは、勝手に他人の店を掃除したこと、あるいは、元に戻ることができるかどうか。
そうした諸々を考える余地などなどなかった。疲れと睡魔だけがみっちりと詰まっている。
全てを忘れ、すやすやと珍妙な恰好で彼は眠った。




