72.河蛾邦字について
赤い水壁が今更のように高さを下げ、やがては消えた。
城壁が無くなった。
薄赤い光景が消え、当たり前の日光に照らされる。
だけど、そこにあるのは混沌とした状況で、誰もが誰かの敵となる様相だ。
その中で、誰よりも意気軒昂なのは。
「呪詛を操り、人々を一カ所に押し込め、時には家畜のように刈り取る――報告を聞いたときにはまさかと思っていたが事実のようだ」
エルメンヒルト殿下だった。
着地したすぐ側にいる猫のことなんて気にもせず、堂々と周囲の敵すべてに向けて宣告する。
「悪しきものたち、異形のものたち、混乱をもたらすものたち、残らず駆逐してくれよう。この場に巣くう邪悪は我が誇りにかけて浄化する!」
「はは、はは、侵略者が偉そうな口上を。素直に言ったらどうです? うらやましくなったと、だから力で盗ろうとしていると。強盗風情がよくもまあ綺麗事を言えたものだ!」
「テメエらはただの馬鹿だ。呪詛を背負うことなく否定する馬鹿も、呪詛を作り出すことを肯定する馬鹿も、どっちもおれから言わせりゃ上に立つ資格なしだ、人の死を食い物にしてんじゃねえッ!」
地面に立つロボは銀色に輝く。
薄毛の男は幾多の兵士に囲まれる。
多くの『人』たちは骨姿の解放者を見上げる。
三者三様の殺意が満たす静寂――それは、本当に一瞬だけの静けさだった。
銀色のロボはいくつもの銃身を展開し、ぶっ放した。周囲すべてが敵だ、なんの遠慮もない破壊を行った。
とはいえそれらは、聖銀を纏ったものじゃなかった、怨霊たちをすり抜け、ペスの防壁に弾かれる。
零れる薬莢がヤマシタさんへと降り注ぐけど、覆いかぶさる委員長がそれらを自壊させた。
そう、それは誰一人として殺すことのできない乱射だった。
「この、この――!」
「テメエ!」
だけど同時に、この上なく有効だった。
銃弾は尖塔に向けられていた。
ハリネズミのような姿で出された銃の群れが、一個の建築物を打ち倒そうと吠えた。
「戯れ言に関わり合う暇などありはしない! 悪しきものの根元を破壊してくれよう!」
「厄介な、まったくなんと厄介な!」
「どんだけの銃弾積んでんだ!」
期せずして、ペスとアルフの共闘のような形になった。
僕らからしても、彼らにしても、尖塔の完全破壊は望まない。
防壁で大半は防いでいるけど、それで全てが防御しきれるわけでもなかった。
巨大な手で放り投げられる爆発物を撃ち落とさなければならないし、なによりもその歩みを止めなければならない。
そう、こっちに攻撃手段はなかった。
ペスは防御だけで手一杯。
アルフが指揮を取り、怨霊兵が撃ち込んでいる銃弾は、残らず聖銀に弾かれる。
それ以外の怨霊達もまた同様。接近することすらできずにいた。
集団と銃弾を意にも介さず、暴力を振るい、接近する。
それは歩兵ばかりの戦場で、戦車が現れたような光景だった。
絶望的な相性の悪さ、敵が望みのままに動くことを止められない。
「そして、僕は足止め食らって、助けにいけない有様と……」
「もちろん、通しませんよ?」
戦況はわかった。
わかったけど、こっちの事情は変わらなかった。
目の前の男は想像以上に「やりにくい」相手だ。
純粋な戦力差、たとえば筋力であるとか速力であるとかであれば勝ってる。
だけど、とにかく機と間の取り方が上手かった。
こっちの虚を突くような攻撃、絶妙の見切りで位置関係を把握し、ときに幻体を見せ、それでも足りない戦力差は拳銃や手榴弾などの近代兵器で埋めた。
「……」
この狐央兵士の狙いは僕の足止めだ。
戦力として合流させないことだけを目的にしている。
おそらくは道中ずっと観察されていたせいだった。
旅の間、戦っていたのは主に僕とペスだけだ。
僕って攻撃力を封じ込めれば、あとは問題ないと判断した。
それは正しい認識じゃないけど、彼が足止めって役目をきちんと果たし、この現状を作り出していることも否定できない……
「さて、こうした時はなんと言えばいいのですかね? 時間を稼ぐのはいいが、別に倒すことなく幼女に囚われてしまっても構わないだろう、でしたか」
「絶対にそれは違う、名言を改変するな」
左手はもう麻痺の感覚しかない。
痛みがないのは幸いだけど、だんだんと抜ける血が意識を朦朧とさせる。
この場を切り抜け合流して――ああ、クソ、そこからどうすればいい。頭がまるで回らない。
僕の苦悩とは裏腹に、にこりと、今までとは少し毛色の違う笑みを浮かべ。
「ああ、やはりあなたは『――――』でしたか」
言葉の内容がわからない。
それを理解することを僕って機能が拒んだ。
「以前のやりとりの時からもしかしたらと思っていましたが、先ほど反応で確信いたしました。いやはや敵味方とはいえ、このような偶然があるとは! 意外と『―――』は他にもいるのかもしれませんね」
「……」
「おや、ここは驚きと感動の場面のはずですが? まさかの遭遇に言葉も出ませんか。まあ、さすがに直接の面識があったわけではありませんが、間違いなく我々は同『――――――』」
懐かしそうに、あるいは嬉しそうにしゃべり、その唇が動いていることはわかる。
だけど、鼓膜から伝わる情報は遮断され、脳までは伝わらない。
頭が痛む。
巨大な取りこぼした記憶、その根本が目の前に現れたような。
「ああ…………なるほど? 未誕英雄とは、予想していた以上にブラックなもののようですね。ならばやはり、そのような者達に任せることはできない。この国は、幼女殿下の支配下にあることがもっとも相応しい」
どこか寂しそうにそう言い、構えた。
姿と形のどこにも特殊なものはない。
ただの無手、ただの人間、技術を鍛えて高みへと達した者の姿。
「そういえばまだ名乗っていませんでしたね、ワタクシ、河蛾邦字といいます、河の蛾に本邦の字――少しばかり奇妙でしょうが、間違いなく本名ですよ?」
なじみ深い形式の名前、と思えた。だけど、その感覚がどういうことかは、僕の内側をどれだけ浚っても表れない。
「……わかった、覚えておく。申し訳ないけど、僕には名前がないから名乗れない」
「おや、それは残念。ですが、ふむ、なかなかありがたいものですね、漠然としたものであっても、名を音ではなく意味として記憶されるということは」
「だったら、それに免じて退いて欲しい」
「ふふん、それはできません。ワタクシ、幼女殿下がかっちょよく暴れるために成すべきことを全て行う所存!」
河蛾は胸を張り、堂々と言ってのけた。
「そう、どのような世界、どのような時代、どのような環境であっても行うことは変わらない、すなわち愛に生きることこそ我が人生!」
「それはまったく共感できない」
状況は何一つとして変化していない。
だけど、なぜだか敵を殺しにくくなったような感覚があった。




