68.逃走開始について
遠くから見たときはきれいな模型のようだった景色は、今や奈落の底みたいになっていた。
悲鳴が上がり、悲嘆の声を上げ、あるいは怒声が木霊した。
透明に透き通っていたはずの水壁は、いつの間にか赤黒く着色されていた。
透明であればわからなかった水の流れが、おぞましく蠢く。
きっと今も断続的に放っている呪詛塊のせいだった。一向に効果を発揮せず、ただ僕らにとっての味方だけを増やすその攻撃は、防御面まで変化させていた。
血の色をした壁がぐねぐねと生々しく動き、内部では怨霊が闊歩し、遠く呪詛塊を打ち込んだ地点では呼応するような叫びが上がる。
地獄が現れたようにすら見えた。
太陽を透かして薄赤くなった光景を僕は駆ける。
明らかに地元民じゃない僕に注目する人はほとんどいなかった。
いや、違うのか――
そんなことはもう関係なかった。
目的地である尖塔に近づくにつれて、住む人の地位とか富豪としてのランクがあがった。
私兵がそこかしこにバリケードを築き、近づくものを無差別に攻撃した。もちろん、それが効くのは生者だけだ。肝心の止めるべき相手にはまるで効かない。情報の伝達速度が遅すぎた。実際に痛い目を見てから、彼らはそれを知った。
怨霊たちの行動は様々だった。時に家族のもとに戻り、時に目当ての人を探し、時に一人ただじっと馴染みの場所に座り――でも、大半は尖塔へ向かった。
そこは、原因の大本になる場所だ。
彼らの様子は濁流か、それともなければ、奇妙な遠征に見えた。
ほとんどの人が武器を手にしていない行軍だ。
「あー……」
戦いの興奮が過ぎたせいか、左手と右足はじくじく痛み続ける。
歩くたびに失神しそうな激痛が生まれる。傷痕だけのものじゃなかった、また弾丸はめり込んでいるっぽい。
鉛中毒とかは、そこまで心配しなくてよかったんだっけ?
ああ、そういえば、ここ数日はペスの料理を食べてなかった。
帰路に作って貰おうかな、その時にはもう問題は解決しているはずだ、うん、そう思えばやる気だって出てくる……
そんなことを思っているのは、きっと目をそらしたかったからかもしれない。
行軍の様子についてじゃない、もっと別のことだった。
魑魅魍魎な有様、そこに二筋の痕跡が刻まれていた。
片方は徹底した破壊。バリケードも建物も道ですら関係なくボロボロに崩壊した痕跡が一直線にあった。
そこでは誰も死んでいなけど、何が起きたのかぜんぜんわからないと言うように呆然とする人たちの姿があった。
もう片方は断続的な気絶、バリケードも建物も道も壊されていないけど、そこかしこに昏睡して倒れる人たちの姿がある。助けようとしている人たちの姿もあるけど、圧倒的に数が足りていない。
で、その二筋は徐々に接近し、遠くの方で交差していた。
「おい委員長、あんまこっち寄るなって、こいつら怖がってるだろ!」
「え、いやです」
「なんでだよ」
「実は私は少しだけ方向音痴です。このままでは迷ってしまいます、そして、一度迷えば迷い続けます、私の運の悪さは伊達ではありません。それではYAMASITAさんと再会できないのです」
「なんでちょっとかっこよく言ったんだ?」
「ちょっとかっこいいからです!」
人的被害と物的被害の首謀者たちの顔合わせだった。
ちなみに、委員長はきょろきょろと前方を見渡していた。
逢いたくてたまらない誰かを探しているように見えた。
ペスはたまに体を寒そうに震わせて、同じように後方を見渡していた。
必要でたまらない誰かを探しているように見えた。
心理的な欠乏と、魔力的な欠乏の顔合わせでもあった。
今すぐに回れ右して立ち去りたい衝動にかられた。
あれ、やばい。
だって、血付きの包帯むしゃむしゃしてる。
合流すれば、僕がむしゃむしゃされることになる!
約束したし速く行かないとな、みたいな感情は綺麗に消えた。
誰だって罠が待ち構えてるところに飛び込みたくはない。
建物に背を預け、暴れる心臓を手でなだめながら、だるまさんが転んだをやってるのかってレベルで何度も振り返るぺスの視線から逃れた。
ちりっ――と何かを思い出すような感じで景色が現れる。
目の前の見ている光景とは別に、リアルな映像を見る。
ヤマシタさんのそれだった。
もしくはYAMASITAさん。
僕の位置からは、破壊発生源を挟んでちょうど反対側。
恐怖に浅く繰り返される呼吸に、心臓の激しさがわかるようなブレ具合。僕から見たらいつも通りに見えた委員長は、別視点からだとまったく違った、なんか目が笑ってない、飢えた捕食者が好物のニオイを捉えたかのようだった。
――拙者、気づかれてしまったようだッ!
そんな叫びが聞こえてきそうだった。
どうやら委員長は正確な位置は捉えてはいないものの、「近くにいる」とはわかっているらしい。下手に動けば発見される、かといって、動かないままでいてもやっぱり発見される。
じりっ……と焦れったくなるほどゆっくりと、気配を完全に殺しながらヤマシタさんは移動した。
斥候ってこうするのかと参考になった。
学んだばかりのそれを早速実行に移す。
ヤマシタさんは僕視点から左方面へ移動しようとしている。
今も前進する二人から逃れるためだ。
僕もまた左方面へと移動する。
向こうが二人なら、こっちも二人だ。
最終的には四人になるとしても、その位置はこんな道ばたじゃなくて、尖塔あたりで行うべきだ。
そうすればこう、平和で効率的でいい感じのことになる。
「よし……」
「やった……」
無事に捕食者たちから逃れ、僕らは合流した。
なぜか物凄い達成感と連帯感があった。
ヤマシタさんはいくらか痩せていた。
魔力の消費と、食糧事情によるものだと思う。
僕の傷の様子に、ヤマシタさんの方も驚いたみたいだ。
とんでもなく懐かしい感じがしたけど、それを味わってる暇はなかった。
僕らはできる限り急いで尖塔へ行く必要があった、もちろん、かなりの大回りで。
遠ざかれば遠ざかるほど発見される危険性は低くなる、一番不味いのはこの場所にいつまでも居続けることだ、だから――
「あ、猫さんだ、久しぶり! またごはんいる?」
「ッ! 貴女は今すぐに逃げるべきだ!」
幼い少女が朗らな言葉に、ヤマシタさんは全身の毛を逆立て叫んだ。
「姐さん、アンタの探してる人、ここにいるぜえッ!」
「あんた達って成仏的なことしてたんじゃなかったの!?」
同時に、僕の背後ではそんな声を上がった。
振り返ると、さきほど戦った怨霊たち全員が、ぐっと親指を立てていた。
「そのツラぁ見たら、ちっとは気分晴れたぜぇ?」
腹を抱えて笑いながら彼らの姿が薄れる。
無念を張らした感動的な状況のはずなのに、僕はまったく清々しくない。
ヤマシタさんが少女を突き飛ばした。
その位置を黒い何かが通過した。
リードロープだった。
何本にも増えながら、すさまじい速度で飼い主を捕らえようとする。
僕も飛んできた数発の魔力弾をはじき返した。
やけに粘着力が強いそれは、ひょっとしたら捕獲用だったのかもしれないけど、そこに込められた殺意的な何かは本物だった。
四つの瞳が僕らを捕らえてた。
委員長は小首を傾げながら、どこか虚ろに笑いながら、ヤマシタさんと尻もちをついて事態を理解できていない女の子を見比べてる。
ペスは、目を輝かせながら、ゆっくりと唇を舌で湿らせていた。心なしか生唾を飲み込む音も聞こえた気がした。
二人は高所に陣取っていた。
ペスは怨霊たちをいくらか引き連れながらの浮遊だったし、委員長はリードロープを使ってその体を上げていた。
おかげで僕らの姿はバッチリ見られてた。
「や、やあ」
間抜けな挨拶の返事は、ゆっくりとした手招きだった。
ぺスはともかく、委員長もそれをしてるのはどうしてなんだろうかと思う。
僕とヤマシタさんはうなずき合った。
この場でつかまるのは、不味い。というか、本気で何が起こるかわからない――!
一瞬の緊張、一秒にも十秒にも思えた時間が過ぎ、僕ら四人は同時に動いた。
細い路地裏へと僕らは行く。
上空から偵察されることもないし、飛行速度だって落ちる、僕らの勝機はここにしかない……ッ!
逃走劇が、開始された。




