1.樹さんについて
あれから二か月、時間ばかりが経過して、僕はただ迷い続けていて、あんまり前に進んでる感じはしなかった。
課題とかをクリアして、練習して、少しは前よりも強くなってるのかな、と思うけど、それでも不安が尽きることはない。
同じところで足踏みしているイメージ。
進んでるんだか進んでないんだか、あるいは、ちゃんと僕が望む方へ進んでいるのかどうか、そのあたりがよくわからない。
簡単に言ってしまえば、「僕って本当に英雄になりたいの?」――この悩みの答えが出なかった。
というよりも、「なりたくないし、なるべきじゃないんじゃない?」って答えだけが出てくる。
気づけばため息ばかりが出てくる感じだ。
「やっぱりさ、なんかの間違いなんじゃないかと思うんだ、樹さん」
グラスをちょんちょんとつつきながら言ってみる。
こっちとしてはかなり切実な悩みだけど、答えはにっこりとした笑顔だけだった。
ここは、喫茶店というか趣味でやっているお店だった。
店主、って言っていいのかな? 樹さんはエプロンドレスの、物静かなお姉さん風の外見をしている。
「――」
樹さんは黙ったまま、店内で生っているいる果実をもいでいた。
店内は一見すると小洒落たカフェとかお店風、木目の色味も優しい落ち着けるいい雰囲気。
最近見つけた、僕のお気に入りだった。
朝の忙しないこの時間、僕以外のお客がまったくいない閑古鳥の鳴き具合もいい感じだ。
学校内では学食もあるけど、みんな殺気立ってるから落ち着くことなんてできない。殺気立った相手には、こっちも殺気立つことがきっと礼儀だ。なんか間違ってるんじゃないかなと薄々思ってるけど、まあ、とにかく落ち着くことができないことには変わりない。
「ありがと」
空になったグラスにジュースが注がれていた。
果実からそのまま、ヘタ部分を回せばそのままぎゅっと皮に捻りが入って、下方から液体が溢れる。
真面目な顔してそれをしている樹さんを見るのが、ちょっと好きだった。
他人の真剣を見るのは、こっちもいい気分になる。
まあ、これも樹さんの本当の感情ってわけではないんだけど。
実を言えばここは、「一本の樹木」だった。
いま座ってる椅子も、肘をついてるテーブルも、高い天井も、そこから吊るされている飾りも、そして樹さん自身も全て。
パッと見には制服着たお姉さんっぽい感じにしか見えないけど、よくよく間近にまで近づけば木目が見える。
言ってみれば僕は、巨大樹木の中でリラックスして愚痴を言って、朝の時間を満喫しているようなものだった。
ついでに言えば、その中で生った果実を、その端末の人がもいでジュースにしてくれる。
「んー……」
こくこくと飲むジュースは、いつも通りに美味しい。
リンゴっぽいんだけど、もうちょっと爽やかな感じ。
冷たいはずのそれは、胃に落ちるとぽっと温かくなった。
学内の新聞に「体力値上昇効果あり、ただし店に捕獲されないように注意」と書かれるだけのことはある。
飲み干すたびに満足感。
だけど、コップを置いた先――カウンター形式のテーブルでは、樹さんがちょこんと両手を揃え、その上に顎を乗っけてた。
にこりと微笑み、何かを期待するように見上げてる。
視線を合わせたくなくて目をそらす。
とことこと回り込んで来た、ふたたび視線が合う。
「他の支払い手段は――」
ギブアップみたいに聞いてみた。
とたんに世にも情けない泣き顔が出現した、子供が大好物を目の前で取り上げられた表情だ。
見た目、しっかりしたお姉さん風の外見でそれをする。
「うぅ……」
今の表情も、それまでの笑顔も、すべて残らず人の形を模倣したもので、樹さんそのものの感情ってわけじゃない。インターフェイスに表情をアイコンみたいに出してるだけ。
でも、だからって断れない。断ったら僕は相当の鬼だ。
僕の敗北宣言を見て取ったのか、樹さんはイタズラっぽく、ぺ、と舌を出した。そこから、するっと針が一本出てくる。
このお店は、金銭の代わりに別のもので「ジュースの代金」を支払うシステムだった。
いつものように木製のそれを僕は受け取り、手の甲の、青い静脈あたりを狙って突き刺した。もはや躊躇するようなこともない。
点の攻撃は、あっという間にぷっくりと円状の血を出して、すぐに線となって流れようとする。
数センチ動くか動かないか――それだけの間に樹さんは立ち上がって、がっちりと僕の手を捕らえ、ついでに座ってるイスからもぎゅるぎゅると枝が伸びて拘束し、肘ついていた机までもがいつの間にか凹んで固定し――というか逃げられなくなった。
熱病みたいに揺れる瞳が僕の血が流れる様子を捉えてた。偽の、なんて枕詞が付く必要のないくらい爛々とした、余計なものが一切無い「飢え」だった。
樹さんが観賞していた時間は、きっと一秒にも満たない。
すぐに舌が――温度のない、だけど滑るそれが肌を、そして傷口を這った。
ほのかに熱く感じるのは、分泌している回復薬のせい。
なんか変にどきどきして直視できないのは、僕の心理状態のせい。
やけに熱心に、一ミリグラムだって逃さないというように舐め取っているのは、ここが樹木の中でも『吸血樹木』であるせい――
全部分かっていても、やっぱりそれでも毎回の、「なんか悪いことしてるっぽい」感じは拭えない。
だって樹さん今、膝立ちの姿勢だし。
未誕英雄――海のものとも山のものともわからない存在の中でも、どうやら僕の血は「美味しい」部類に入るらしかった。怪我した時に自分で舐めてみても、変にしょっぱいだけでまったく分からなかったけど、人によってはそれこそかなりの高級品扱いになるとか。
でも――
「樹さん、もう血、止まってると思うよ?」
そんな風にいつまでも、何もない肌を舐められ続けるほどじゃないと思う。
「……」
上目遣いで見られる。「なにを言っているのかわからない」風に小首を傾げた。その手には、いつの間にか別の針が握られてる。
「違うから! 止まったからもうやめようだから! おかわりいる? って問いかけじゃないから!」
えー、という顔。
もうだまされない。だまされてなるもんか。
こういうので追加支払いしたのは、五回もやれば十分なんだ……!
これ以上はただの馬鹿だ。というか、もうかなり馬鹿やってる気がするけど!
強い決意と共に立ち上がる。
幸いなことに、拘束されていたものは簡単に剥がれた。
下手にこのままここにいたら、良くない未来が待ち受ける。
具体的には僕→樹さん、血。
樹さん→僕、果汁。
そんな無限ループな未来。
なんかそれも悪くないんじゃないかなー、とか思う心の隅を無視して、申し訳なさそうな感じに摘まれた裾の感触を振り払い、雄々しく進む。というか、ここで勢いをつけないと、いつまで経っても立ち上がれない。
やけに固いというか、拗ねるみたいに開かない扉を開け、ドアベルと共に外へと出た。
しばらく歩いてから振り返ると、樹さんが小さく手を振っていた。
なんだかよくわからないけど居たたまれないような気分で、後頭部をがりがり掻く。
手を振り返しながら――相変わらず英雄なんてものになりたいのか自分でも疑問に思いながら、それでも学校へ行くことにした。
引き留める手を振り払って、見送られてる。
そんな状態なら、やる気が無くたってそうするしかない。