31.ヤマシタさんの日々Ⅰ
目が覚めると同時に、手は自然と首もとへと動いた。
どれほど指を動かしても、あのヘンテコな首輪がないことを確認し、安心の息をつき、それからようやく起床する。
自室で、裸で、少年だった。
人でいえば十を越えたか越えないかくらいの年齢だ。
ヤマシタさんと呼ばれているところの彼は、普段から猫をやっているせいで全裸であることに抵抗感があまりない。
大きく伸びをしてみる、尾てい骨から生えている尻尾も元気良く伸びた。
朝日がシーツを白く染めていた。
「んーむぅう……」
良い睡眠と、心地よい起床に、少しばかりの罪を感じる。
完璧に意識を落として寝てしまうことは、あまり褒められたことではない。
他の未誕英雄と違い、戦闘力もなければ特殊能力もありはしないのだ。せめて偵察としての役目を全うするのであれば、常に意識の一部を覚醒させ、どのような状況にも即座に対応できるようにしておかなければならない。
「だが、その罪深さこそが味わい深いものである……」
誰にともなくそう言い訳する。
まぶしくて、まだ瞼は閉じたままだ。
むろん、それが以外にも理由があった。
猫は古来、寝子と書いたという。
常に寝ているのが常態のような生物の影響を受けている。短時間にそれを凝縮することだけでも精一杯だった。
「拙者、よく寝ていると思うのだが、果たして育っているのだろうか……」
頭に手を起きながら、そんなことを呟いたりもする。
普段であれば必死に低音を出しているが、今はふつうに甲高い。
裸のままぺたぺた歩き、そのままシャワーを浴びる。
実を言えばこれもあまり好みではなかった。今は人の姿ではあるが、毛皮がべっとりと濡れて萎む様を連想するためだ。あれは感覚として言えば、無理矢理に服を剥ぎ取られるのに近い羞恥と情けなさだ。猫の衣服とはすなわち自前の毛なのだ。
だが、ニオイをできるだけ消して置かなければならない以上、これを怠るわけにもいかなかった。
ニオイの残りにくい石鹸で体を洗う。
どのような配合がされているかは知らないが、たしかにどれだけスンスンと鼻を動かしても匂わない。自らの体臭が消えてしまうのは酷く不便だとも感じたが、同時にその有用性もまたわかっていた。
頭から始まり、全身をくまなく。
前と後ろの尻尾はよく洗っておく。
体が小さいだけに、洗うのも乾かすのも短時間で済んだ。
猫の体はより小さいが、こう手早くはいかない。人間というものは、手の届く範囲が広いのが利点であると思う。曲がりなりにも背中にまで手が届く。
わしゃわしゃとバスタオルで頭を拭きながら、だんだんと意識が覚醒していくのを感じる。
自分が今ひとりでここにいることの幸福と幸運を思う。
以前は、シャワーを浴びているといつの間にか委員長が乱入してきたことがあった。即座に猫姿で逃げ出した。たぶん人の姿は見られていなかったはずだ。
こうして頭をタオルで拭いていると「あ、私がやりますよ」と手助けされたことがあった。逃げられなかった。きっとあれは見知らぬ子供を手伝っただけで、委員長はヤマシタさんだとは気づいていない、と思う。たぶん。
やたらに部屋数の多い寮――その空き室を転々としてからはそうしたことは少なくなったが、未だにピンポイントで居場所を当てられることがある。どのような技を使っているのかは、まるでわからない。あるいは――
「委員長殿も、何か特殊な目を持っているのだろうか……」
ここではそうした能力は珍しくない。
斥候、あるいは密偵役ではあるものの、彼はそうした瞳術系統の能力を持たなかった、正直うらやましい。
自身の力のなさを思うと、彼はいつもどんよりとしてしまう。
四人の中で、もっとも戦闘で役立たずが自分であると確信していた。
彼の所属するチームは、前衛の近接戦闘能力、後衛の遠隔魔術の威力は、新入生の中でも上位に位置する。
そして、それらが通用しないときには、委員長の不運が事態を回転させる。
彼がいなくとも十分なのだ。
今はアシストとして、いくらか役立っているが、これはあくまでも補助でしかない。
三人が成長し、レベルアップすれば不必要となる位置にいる。
「直接的な力はなく、魔力を魔術へと転用することのできぬ身、すべてを反転させるが如き能力もまた皆無――」
彼以外の三人は、いなくなれば致命的だが、彼の代わりとなるものはいくらでもいる。あるいは、いなくてもかまわない場合もある。
へばりつくコンプレックスは、常に心の片隅に居座っていた。
英雄?
なんの冗談かと思う。
今ここでこのような体たらくであるというのに、そのようなものになれるものか……
暗く沈む気持ちは、シャワーくらいでは流すことはできなかった。
鰹節をごはんに乗っけて食べることで少しだけ復活した。
+ + +
ヤマシタさんの朝は、かなり早い。
委員長と学校間の道のりの清掃をしなければならないからだ。
たいていの場合、小鬼の集団や、野良ゾンビが二三いるのでこれを処理しておく。
猫の体であっても、この程度であれば対処できる。自前の爪や牙の鋭さは伊達ではない。
あまりに強大な、彼一人では倒すことのできない相手であれば、鈴の音を使って別の場所へと誘導する。
引きつけ、隠れて、逃げ出せば、脅威を無力化することができる。事態の解決にはならないが、無事な登校という目的は果たすことができる。
ただ、最近はやけに委員長が早起きに――というよりも早く出てくるので大変だった。
家屋倒壊の音を出てきた合図として確認することもできない。
必然、併走するようにしながらの処理になる。
朝の光を、ずもももという暗黒へと変えながら呑気に歩く様子は、たいへんおそれられているため近寄る人はいないが、より遠くからいろいろなものを引きつける。
遙か遠くから狙撃のように投げられた石――おそらくは戦闘の余波にて飛んできたそれを空中でたたき落とし、噛み癖のある犬を睨みつけて追い返し、前触れもなく発進した車に乗り込んで体全体を使って運転し、路肩へと止める。
様々にいろいろなバリエーションで、予測のつかないアクシデントを提供する。
それらに対処してはいるが、いくらかは取りこぼす。
局地的かつ限定的な、委員長しか濡れぬ豪雨などは猫一匹の手に余る。
あと、何よりも一番厄介なのは、最適なタイミングで邪魔をしてくる委員長の持つリードロープだ。
だいたいの危険を排除し終わった途端、それに気づいたかのように近づき、足下や首もとに巻き付いて来ようとする。
「負けぬ……!」
どうしてこんなことをしているのかと、たまに自身でも不思議に思う。
だが、それよりも今は、数キロほど疾走しているのに、まだ追いかけてくるロープを撒くのに忙しい。
途中から五本くらいに数を増やしているのは、一体なんの冗談かと思う。捕まれば、きっと委員長はそのまま学校へ行かずに家へと引き返すに違いない。
ここは逃げ切るより他に手はなかった。
それは、それまでの護衛作業などより、よほど命の危険を感じる真剣勝負だった。




