153.一人だけの日々
「あ、え……」
目の前のものは、動かなくなった。
痙攣すら、もうしない。
突き刺さる剣はずるりと抜ける、重なる手からも外れ、甲高い音をさせて落下した。ぐらりと、その体ももたれかかる、筋力の一切を失って地面に伏す前に抱き留める。
魔術が――この目の前の者を得るために構築したそれは、対象を失い拡散して消えた。
どうしてそうなったのか、わからない。
理解できない。
抱き留める感触、もうなにも喋らない。閉じた瞳は開かない。
「あ……」
ぎゅっとその体を抱きしめる。
両手を使って、逃さぬように。
手がぶらんと垂れ下がり、揺れていた。
どれだけ近づけても、暖かい心音は聞こえなかった。
夜中、こっそり胸元に耳をつけ密かに聞いていたそれを、もう二度と聞くことはできないのだということが、出来の悪い冗談だとしか思えない。
鎧の隙間から血は染み込む。
魔力だけではなく、力も意志もあるいは魂の欠片も混じったそれは、今はただ忌まわしいものでしかなかった。こんな量はいらない、そんなに大食らいじゃない、少しでいいんだ、それだけで十分すぎるほどなんだ――
声は出て行かなかった。言えばあまりの空々しさに死にたくなる、死にたくなる理由に、思い至ってしまう。
体温は失われる。徐々に己と似たような物質としての温度しか持たなくなる。
「回復……を……」
なんておれは馬鹿なんだ、朦朧とする頭で叱咤をしながら、この世界で覚えたばかりの魔術を使う。
染み込むそれは、しかし、拘束封印のそれと同じくまるで効果を発揮しなかった。対象となるものはどこにもなく、魔力を拡散させただけだった。
――おかしいな、おれ、ちゃんと覚えたはずなのに……
――おまえが怪我しても、治せるように……
銀円は回り、魔力の光はこぼれ続ける。
抱き留める体は、ただ不可逆に冷え続けるばかりだ。
懐かしい声も、眼差しも、魂も、すでに無い。
きっともう『生まれ』ている――
どれだけ強く抱きしめても、ここにあるのは空っぽだけだ――
己の冷静な部分がそう告げた。
欲しがっていたもの、求め続けていたもの、得ようとして誰にも渡さないと覚悟と決意を固め、すべてをなげうち闘った、その結末。
己の想いだけをぶつけて回り、結局は一切合切を失った。
記憶の奥底の、魂のさらに先、ぐちゃぐちゃに加工されてかき混ぜられて意味と忌みを与えられ、もはや別ものと化したもの。記憶に無いはずの映像、覚えの無いはずの想い、それがささやく――ああ、またか、と。
また、おまえは、おれは、この愚か者は、同じ失敗をした――
悲鳴が上がる。誰のだろうかと思うと自分のだった。なぜ叫んでいるのだろう。わからない。どうして「嫌だ」と繰り返しているのだろう。許しを求めている声は誰へと向けたものだろう。
なぜ、抱きしめているものは、なにも答えてくれないのだろう。
どうして――今、泣くことができないのだろう。
誰かが、やけに強大な力を持つものが、五月蠅いとばかりに破壊を投げかける。
反射的に大切な相手をかばう、直撃し、吹き飛ばされるが離さない。
回復の魔術は継続する、止めるつもりはなかった。
魔力が尽きてもかまわないと思えた。
壁面に衝突、落石が多く生じぶつかった。どれ一つとて当てさせぬようにかばう。まるで多くの者に投石されているかのよう。
なぜ、もっと投げて来ないのだろうか。まったく構わないのに。どれだけの投石をされたところで、気にもならない、なぜなら――
「あ、ははは……」
口をついた笑いは、思い至ったからだった。
この世界に来てから、映像を幾度も繰り返し観ながら、性別の変わった姿を直接確かめながら、ずっと求めて欲していたことを行なっていることに、ようやく気がついた。
能力もなにも関係なく、ただ触れたかった。
変わってしまった己の姿に引け目を感じていたけれど、ただちゃんと触れて抱きしめたかった。それだけだった。
もう、なにもかもが遅すぎた。
「……」
その頭を抱える。顔を埋める。
どこか遙か先の果ての、見知らぬ世界で、英雄の上げる産声を聞いた気がした。
そこでは今抱きしめている者の前に立ちふさがる敵がいて、その横には助けとなる味方がいて、その背後には守るべきものが、あるいは友人や恋人がいて、そして世界を救うのだ。
まるでおとぎ話のような英雄物語。
骸骨の入り込む隙間など、どこにもない。
触れることも、もう許されない。
「約束……」
声は掠れていた。
「約束、守らねえとな……」
空っぽの、その耳元にささやき、その体をそっと横たえた。
青白い顔で、こちらの手の動きのままに体は動く。
今すぐすべての魔力経路を閉ざして停止してしまいたかった。
この横に、共に並んで居続けることはこの上ない誘惑だ。
それを振り切り動かしているのは、ほんのわずかな繋がりだ。
交わした言葉のその最後、投げかけられた約束だ。
無視することはできない。
だが、触れた手を離すことは難しく、そこから立ち上がることは苦痛そのものだった。
落ちた血塗れの剣、持ち主の命を奪ったそれを手にして、杖とした。
視線の先にいるのは、英雄だ。このダンジョンの、この世界の、あるいはこの法則にあって当たり前の何もかもを壊す存在だった。
比較的被害の少なかった者たち――羽をつけた戦士や神官、魔術師、盗賊が、それに立ち向かっていた。
まるで魔王に立ち向かうヒーローチームのよう。
だが、あまりに無謀な行いだ。
実力差は歴然、わずかな時間稼ぎにしかなっていない。
「考えてみりゃ、無茶苦茶だ」
きっとあの魔神は、ペスが万全の状況であっても勝てはしない。
勝機はそもそも存在してるのか。
――ああ、いや、勝てるかどうかは、問題じゃないか……
思い直す。
委員長やヤマシタさん、ここまでついてきた魔族たち、仲間だった彼らを助けるために、動けばいい。
勝って生き残るだなんて、そんな贅沢は望むだけで罰が当たる。
「こんな馬鹿の最後にしちゃ、上出来だ」
胸は張れない。
罪は雪がれない。
それでも、あいつの意志通りに動けるなら、きっと価値はある。そう思い込む。
――いない……
「……?」
動き出す直線、聞こえる声があった。
空っぽの、虚ろとなった心の奥底に、鼓舞するように、宣言するようにそれは響いた。
――未誕英雄は『生まれ』ていない――
手元から、握る剣からだった。
――僕はまだ、それをやめたつもりはない。
――あの魔神は、一人だけじゃ無理でも、二人ならきっとどうにかなる。
「え……」
――まあ、計画も何もないけど、きっとなんとかなるんじゃないかな、って感じで。
欲して止まない気配がそこにあった。




