142.鬼ごっこの日々
もはや迷いは無かった。
暴論を言ってしまえば、この『空間』の者がどうなろうが知ったことではなかった。彼らは死ねば終わりだ、しかしこれは、死んだ程度では終わらない。
結婚は人生の墓場だというが、この場合は捕まれば地獄だ。死んだその先にすら救いがない。
物も言わずに、荷物をひっつかみ外へと飛び出た。
回りの騒がしさも関係ない、一秒の躊躇はすなわち破滅への直結路だと信じて足を動かす。
小鬼は呆然とそれを見送った。
ヤマシタさんはよく困った顔、ため息をつく姿などはよくあるが、ここまで必死で真剣な表情など見たことがなかったのだ。
ヤマシタさんは、窓を開き、外へと身を踊らせた。
悲鳴に近い停止の声を振り切り、リュックサック一つだけを背負って外へと躍り出る。
振り子運動で下ではなく横へと着地、そのまま手足を使って『空間』壁面を駆け抜け、こっそり幻影系魔術で隠蔽してある扉にぶら下がるようにしながら開いて解除。全身を使って入り込んだ。
背後の悲鳴は、最後には疑問符つきになっていた。
幸いにも、と言っていいのか。ヤマシタさんが逃げ出す様子を誰も見ていなかった。
異変が迫っている状況で、最高の金持ちが夜逃げ以下の逃走姿などが見つかればパニックは確実だった。
壁面中腹に設置された扉は、本来であれば飛行偵察モンスターが使うためのものだが、走って行けないこともない。
ほぼ直角のそこを手足を使って這いずり上がった。
想定されていない移動経路は、まっさらな壁に爪跡を容赦なく残した。
顔にはもはや『本気』以外の要素は何一つとしてない。
勢いよく別『空間』へと飛び出た。
手元かタブレット状の携帯機械を取り出し素早く操作。中立の『空間』だが、割高設定など関係ないとばかりに巨石を購入。隠し扉を含めて閉鎖。重低音が三度響き道を塞ぐ。
残った一つの扉を潜りながらも、操作を止めることはなかった。
次の『空間』へと走りながら、そこも同じように巨石で閉鎖する。
「捕らわれてるわけにはいかぬであろう……!」
強く宣言する。
あまりに購入しすぎるために、巨石の値段が一時期高騰したが、それすら知らないというように買い続けた。
写真の中の姿――幻のようにこちらを見つめる、心の底から懐かしそうな視線がくっきりと思い浮かんでいた。
勝手に背筋がぶるりと震えた。
人だけではなく記憶からも走り逃げなければならなかった。
「あ、置いてきてしまった……」
小鬼のことが思い浮かんだが、後で連絡して合流すればいいかと思い直す。
ただ今は、無心に走り走って走り続ける。
どこへ逃げるべきかを、タブレットの地図に表示させながら――
「……」
その様子に目を止める。
現在、一つの勢力と一つのパーティが『魔神』を目指して進行中だった。
『魔神空間』そのものの異常と比べればいつも通りであるため注目する者は誰もいなかったが、これに援助をするのはどうだろう?
武器防具を与え、食料アイテムその他のバックアップを行うのだ。
そうして、「魔神だけではなく、元魔王である吸血鬼もまた倒してはくれないか」と条件をつける。
敵を倒すのに、なにもヤマシタさん自身が立ち向かわなければならないことはない。
金銭を支払い、暴力沙汰を買うことを、一般的に「依頼をする」と言う。
実のところそのためのアイテムはすでに用意してある。
出会ったことすらない彼らに必要なものが、なぜだか手に取るようにわかった。
きっと気に入るはずだ。
あの幽霊は、吸血鬼に取り憑いていた。
幽体とは、憑依対象なく長く在り続けることが難しい。
大本を倒せば幽霊もまた消える。
そして、吸血鬼とは幽霊と同様に破邪系が効く。
――それでいいのか?
そこまで考えて、思考と足にブレーキがかかった。
立ち止まり、じっとタブレットを見続けた。
上から来る二つのものたちの位置はあるが、『魔神』及びその周辺――ちょうど中立の『空間』が広がる地点はジャミングされたように「不明」の文字が踊っている。
結節点経由の探査を阻害する――それだけの力を持つものが相手だった。
立ち止まる上方では、結節点がジジッと光って鳴り出す。
いつものようにモンスターが生息していない『空間』だった。
中立であるたけにその色は白、明々白々に物事を照らし出す。
対『魔神』のためには、彼らにより強力な装備が必要なことは確かだ。
バックアップそのものことは、決して悪い行いではない。
そう問題は――
「拙者は、一体どうしたいのだろうか……」
それがわからないことだった。
旅をしたいのか、自由でいたいのか、それともなければ別のことなのか。
どれも違うと思えた。
欲するものが何もなく、ぽっかりと空洞のような有様が、今のあり方だった。
したくないことは色々あるが、したいこととなるとわからない。
「……」
結節点、その光を見上げる。
その偽物のライトは、心を明るくすることはない。
なにか、似たものに照らされて、とてもぬくぬくとしていた記憶が、うっすらとあるような――
毛繕い代わりに、半端に長い髪を手櫛で整える。
追われている立場も恐怖も忘れて、「失われてしまった記憶」を探ろうとする。
――なぜ今拙者は、迷子となった子供のような気持ちでいる?
一筋、目の端から涙が流れた。
なんと惰弱な、と思うが止められない。
自身でもわからない感慨は、しかし、次の瞬間には木っ端みじんに粉砕された。
魔力の余波と、破壊音は同時が来た。それだけ近い、という証拠だった。
それは、設置してあった巨石が破壊される音だ。
「!」
一度で終わらず連続する。テンポを上げて破壊は続く。
その必死は、まるで逃げ続ける救いのロープを追っているかのよう。後先を考えず、必死にそれをつかむことだけを考える。
迂回路を選択せず、魔術攻撃による最短の突破を行った。
一度はどこかへ放り投げていた危機感が勢いを増して戻ってきた、しかも追尾機能付きだった。破壊音は、確実にその接近を知らせる。
「拙者は阿呆であろう……!」
巨石は点々と今いる位置までの案内となる。
通常であれば立派な足止めとして機能していたが、規格外を相手では正反対の効果だ。
外れの道へ行けば、すぐにそうだとわかる。
だがそれでも――今は他の足止めを今は思いつかない、それも確かだ。殺傷を迷ってしまった状況となればなおさらに。
破れかぶれとばかりに『空間』そのものを満たすほどの砂利、石、巨石に奇石に宝石を詰め込み、別『空間』へと走り逃げる。物価高騰は石だけではなく他への波及効果すら及ぼしつつあったが、それすら気にせず買い続け、放置をする。
ほとんど札束をばらまくような破れかぶれ。しかし、効果はほとんどない。
破壊音が更に盛大なものとなっただけだった。
おそらく、『空間』間に詠唱を終え、外から魔術をぶっ放している。
こちらは金銭度外視であれば、向こうは魔力残量度外視だった。
手にしたジョーカー、貧乏神、あるいは厄を相手へ渡すための鬼ごっこ。形としてはそれだった。ただし反則なしの何でもアリな点が違う。
「拙者、魔術に空間跳躍がないことがこれほどまでに喜ばしいと思ったことはいままでない……!」
旅をしているときにはよく思ったものだったが、今となっては真逆の意見だった。
目から一筋の涙が流れたが、先ほどとはまったく違った意味のものだった。




