141.双方認識の日々
猫と呼ばれる種族は定住し、縄張りを守る。
縄張り内部の具合がいいようになることを望み、きれいに清掃されてるといいなぁと望み、ちょっと上へと昇れるものがあればいいかもと思うが、それを自らの手ですることはない。
だって前足にあるのは肉球だけなのだから。
舌でベロベロと毛繕いし、もっと居心地のいい場所はどこかと探し、爪立てガリガリと駆け上るのが猫としてのあり方だ。
しかしながら、ヤマシタさんと呼ばれる者は、少しばかり他の猫的種族とは異なっていた。
一人で放浪し、あてもなく気ままに旅をしていた。
まるで狼や渡り鳥のそれ。なにに由来するかわからない熱情は、むしろ、このダンジョンの中にあって生じたもので、ほとんど強迫観念に近かった。
あちらこちらを渡り歩き、その地で抱える問題を解決し、居心地のいい場所にしてしまう。
そうして、十分にその縄張りを満喫したら、また再び旅へと赴くのだ。
どういう理由かは知らないが、じっとその場で安穏としていると、首と右手首あたりに猛烈な違和感を覚えた。
黒く無形のそれは考えることすら拒否させ、逃げだすことのみを強制した。
だからこそ――魔王討伐に偵察役として手を貸しては立ち去った。
『空間』占有問題に揺れる勢力の折衝を行い、約定の締結を見届けてから旅立った。
死病に侵された場所を見つけては、この原因となったモンスターを倒し、死骸から血清を作りだして治療した。
迫害された小鬼を見つけてはこれを助けて一緒に渡り歩いた。
本来であればありえない行動だった。旅という贅沢は、ダンジョンでは難易度がとても高い。野良モンスターの餌食となって終わる。だが、どういうわけかこれをあっさりくぐり抜け、代わりのように二進も三進も行かない問題を抱えた人々に突き当たった。
「ここは結構長く続いたね」
「――」
すでにヤマシタさんは返事すらしなかった。
涙ぐみながら、可能な限りの速度で準備を整える。
考え直す気はなさそうだった。
元小鬼は本格的な旅の時期が来たのだと悟り、ため息をついてステータス画面の操作を行った。
今のこの体は美醜で言えばたしかにすばらしいものではあるが、こと戦闘力、あるいは旅にふさわしい耐久力の面で言えばまったくの不適格だ。
仕方ないなぁ、という顔をしながら行った操作は、彼女を元のような小鬼の姿として現出させた。
かなり背丈が縮んでしまい、衣服がすり抜ける。
顔を振って、余分な粉として排出されたものを振り払う。
一見すると地味、しかしよくよく見れば良品――そんな装備を購入しながらも、表情はどこか物憂げだ。
「そういえばさ」
「む」
「どうなってるかわかってないけど、あれはいいの?」
「むむむ……」
言葉を省略した話題は、彼らが拠点とする『空間』のほど近く、『魔神』の生息する地点に攻め込むものたちについてだ。
『魔神』の配下である吸血鬼が支配するこの場所への侵略行動は後を絶たないが、ほとんど季節の風物詩のような扱いだった。
なにせ苦戦している姿すら見たことがない。
どれほど数を頼んで攻めたところで返り討ちだ。
人間の軍隊が来たときも、だから、冷ややかな目で見送った。
賭の内容はどれだけの時間で全滅するかであり、人間側の勝利に賭けた者はいなかった。
だが、最近――というよりも数時間ほど前からこの『魔神空間』が異様な力を持ち始めたことが観測された。
下方『空間』に無差別攻撃が加えられ、大きな被害も出ていた。いくつかの結節点は起動不能となった。
ついには『魔神』の復活かと思われたが、それ以上の大きな動きはなかった、断続的な攻撃を下方へしかけているだけだ。緊急事態なのかそうでないのかがよくわからない。
それでも、変化は変化だった。
『魔神』領域の近くであること、容易く発見できない隠密性、この二点に防衛力を依存している関係上、見過ごすことなどできない。
「だが、しかし――」
「まあ、あんまり考えても仕方ないけど、覚悟はしといた方がいいかもね」
素肌を装備で包みながら、心配そうな顔を作る。
「次また来たとき、ここが壊滅してるかもしれないよ?」
途端に、ヤマシタさんは泣きそうな顔になった。
小鬼は嗜虐の笑みを、ごく一瞬だけ浮かべた。
すぐさまいつも通りの真顔に戻し、その手を取りながら。
「ここにいれば、いいんじゃないかな?」
「そ、それは――できない」
「そうなんだ」
「う、うむ」
確かにここでの逃亡は、この『空間』にいるもの全員を見捨てることになるのではないか。
せめて、事態の成り行きを観察し、見定めてから出発したほうがいいのでは。
理性と本能がせめぎ合った。
眉にぎゅっと力を入れ、涙はぽろぽろと勝手にこぼれる。
見つめる小鬼の鼻息はふんすふんすと荒くなる。
「やっべー、まじかわええ……」
「何かいま小声で言っただろうか?」
「ううん、なにも言ってないよ」
「そうか――だが、うむ、その忠告は確かに的を得ている、拙者が今旅立つことは、この『空間』の行く末の責任を放棄することに他ならぬであろう」
恐れを押し殺し、立ち上がる。
足はぷるぷると震えた。
小さな拳を強く握る。
小鬼は鼻血を流していた。
「まずは、状況の把握が必要であろう、誰か偵察には向かっているのだろうか」
「誰もいないよ」
「……なぜだろうか」
「そんな危険なこと、好んでする人いるはずないよね」
「経済的安寧が無謀と勇敢を奪ったか……!」
「結節点経由だと、『魔神』領域そのものはわからないから、今のところ直接的な情報はなし――あ、でも『魔王』が逃げ出したみたい」
「本当であろうか?」
「うん、ほら」
小鬼は手を振る動作で結節点経由、ステータス画面操作で写真を取り出した。
荒い画質で撮られたそれを、ヤマシタさんは真剣な顔で確かめる。
『魔神』の影響のためか、ほとんどドット絵のようにしか見えないものだが、ゾンビ特有の両手を前に伸ばした動きを取っておらず、背格好からしても魔王だとはわかった。
どうやら後ろを振り返り、追跡の有無を確かめているようだった。
静止画であるにも関わらず、きびきびとした動作を伺わせた。
魔王が逃げ出した――それ以外の情報はないに等しい。
どこか様子が違うようにも見えるが、特殊状況での撮影のためと考えれば納得が行くレベルだ。
「皆が追跡してるのは、今はその魔王の方。なにが起きたのかわかってる生き証人だし、一番正確な情報を持ってるはずだしね」
まあ、下手に接触したら殲滅させられるから、慎重に慎重を期してるみたいだけど――
小鬼はつまらなさそうに言う。
ヤマシタさんは、更に写真をのぞき込む。
何か違和感のようなものがあった。
まるで、迷彩をかけた人がどこかに潜んでいるかのような、あるいは、暗号が組み込まれたものを見ているような感覚だ。
なにかが隠されている。
じっと見つめる。
特にその肩の辺りを――
「――ぱッ!」
勢いよく手にしていた写真を投げ捨てた。
心臓が一瞬だけ止まったかと思えた。
「どうしたの?」
そこに、人の姿が浮かび上がっていたのだ。
セーラー服を着ていた、楽しそうにしていた、遙か昔どこかで見た顔だった。
そして『ヤマシタさんに気づいて顔を上げた』。
写真の中であるにも関わらずだ。
幻のようなそれは、きょとんとまばたきした後、ゆぅっくりととろけるような笑みを浮かべ、すぐに姿を消した。
だが、たしかに在った、たしかに『認識された』。
心霊写真どころの恐怖ではなかった。




