139.魔神生誕の日々
すぐさま彼女は窓を開けて、外を確かめた。
つい先頃萎んだはずの結節点が再び膨張しようとしていた。
吸い取られたものを奪い返し、永く続いた呪いの堆積すら吸い込んでいた。
いや、それだけではない、この『空間』内にあるすべての死者の血液、放置された残骸ですらも真上へ吸い込まれる。
まるで重力が逆転したような光景だった。
すべてが真上へ『落ちて』ゆく。
そうして、刻一刻と球体はその表面積を大きくする。
球体の中心にいるものはシルエットをより明確にし、瞼を痙攣させ、見開いた。
確かな知性を感じさせる瞳は、真っ直ぐ彼女を、元吸血鬼にして元魔王である彼女を見据えた。
矮小な体へと堕ち、窓を開いて見上げる形を、眼球そのものに焼き付けるかのように凝視する。
「っ!」
総毛立つ、などというレベルではなかった。
文字通り魔の神に認識されたと思えた。
魂が凍え、歯の根が合わなくなる。
それは、明らかに彼女を敵として捉えた。生誕のための力を掠め取り、阻害をしていた狼藉者であると。
――違うはずだ。
その言葉すらいえない。
――同陣営であるにも関わらず吸血という『攻撃』を行えた、だから、その認識は正しくない。
圧倒的な力を前に、半端な知性は押しつぶされる。
正論は殺意を翻す役には立たない。
逆さまの世界で、刻一刻と魔の意志だけが目覚めようとしていた。
灰と化したゾンビたち、地面ごと反転して浮かび上がる吸血草と木々はキーキーと悲鳴を上げ、館そのものですら破砕して舞い上がる。
その中心に居るのは、一個の『魔神』だ。
ダンジョンそのものを支配するに足る力が、今は一人の裏切り者だけを対象とした。
結節点の中、未だ影しか見えぬ腕が持ち上がる。
収束する術は拙いものだが、力の規模は『空間』そのものが震え上がるほど凄まじい。
ただの人間となった彼女相手ではオーバーキルもいいところだ。吸血鬼であった時ですら一秒防ぐことができれば大喝采していいほど。肩に乗り「ほおほお」などと感心したように頷く主犯もまた巻き込まれて終わるはずだ。
「生まれながらにそれほどまでの力は、幸運すぎますね――あなたにとって、これはとても不幸なことです」
「こ、この状況でなにを――」
「ええ、今のあなたに必要なものは、適度な不運ですよ?」
微笑み、指で拳銃を撃つ真似をする。
ぱん、と口にした動きと動作は何の効果も発揮していないように見えた。
『魔神』は意にも介さず収束させた光球を弾かせ――ようとしてその直前に思いっきりくしゃみをした。くちゅんと。
「――!」
レーザー状の破壊が彼女の数メートルばかり横を通り過ぎ、線上すべてのものを破壊した。空気ですら消し飛び、突風が生じる。
結節点内の影は、唖然としたように自身の手を見つめたが、その体勢のまま更に鼻から無数の魔力塊を散弾のように噴出させた。結節点下方はあっという間に穴だらけになる。
元吸血鬼は、乱雑な突風に翻弄されながらも、千載一遇の好機を逃すことはなかった。
吹き飛ばされながらも空中で体勢を立て直し、破壊跡をなぞるように走り出した。
革靴が赤熱した岩石と接触し、じゅぅと音を立てるがむしろその音を頼りに突き進む。
ここまでの破壊力だ、この痕跡は別『空間』まで続いているはずだった。
そう、今この時であれば『魔神』の攻撃は当たることもない。
内側から開ける際にのみ発動するトラップの解除もせずに済む。
背後からは連続してくちゅんくちゅんとクシャミの音が、舞い上がるゾンビ灰の濃度と同期するように繰り返された。
肩に乗る幽霊はそれを満足げに眺める。
「ないす不運です……!」
「おまえはいったい何者だ!」
その有様は、『魔神』もまた「委員長の血を吸いこんだから」だとわかった。
『壊呪』の力は、魔王上位者にすら通用した。
「委員長です!」
「それは神にすら通用する力を持つ者という意味か?」
「はい!」
嘘だろうと責めたくなったが、その根拠がなかった。
「しかし、ううん、よくよく考えれば悪いことをしました」
「ああ、魔王や吸血鬼そのものを壊すなどということは――」
「アレルギー性鼻炎ってつらいんですよね、もう少し別の不運としてコントロールできたなら良かったのですが……」
「そちらか!」
「長く継続的に続く不運は不運ではありません、これはなんとかしなければっ」
「戻る気はさらさらない!」
「ええ、きっとあちらから来るでしょうから、その心配はしてないですよ?」
きっとまた会えます――
訳知り顔にそう頷く。
灼熱に焦げる洞窟へと入り込み、背後からのクシャミと破壊の連続を聞き取りながら、自然と額に青筋が立った。
意識のよらず、勝手に顔に血が集まり、どす黒くなる。
「――この、疫病神がッ!」
「ええ、そんなぁ……!」
「照れるなくねくねするな非難しているんだ気色悪い!」
「全員を分け隔てなく不運にするのって、一つの理想ですよね」
「ああ、わかった理解した、イインチョウとは疫病神を目指す存在だな!」
「はい! その通りです!」
どうしてこんな奴の血を吸ったんだ――!
元吸血鬼は、どれだけ後悔しても足りなかった。
「あ、たぶんこの道をまっすぐ行ってから左です、そっち向かってください」
「行き先を勝手に決めるな、こちらが判断する」
「ですが、そちらに行けば『不運』がずいぶん弱くなりますよ?」
「……仮におまえの判断に従わず、別方向へと行けばどうなる」
返事は花咲くような笑顔だった。
気のせいか、幽霊の周囲に暗雲が濃く湧き出たようにも見えた。
――更にすてきな不運を、あなたに!
「左だな」
「少しくらい遠回りしてみましょう? ね?」
「断る」
おそらく、高い確率で『魔神』と鉢合わせることになるはずだ。
「むむう、不運が減ってしまうのはとても悲しいことです、けれどヤマシタさんと出会えるでしょうからプラスマイナスで言えば虚数ですね」
「……それはどの方向だ」
「本来なら絶対にありえない方向です」
「安い奇跡があったものだ」
「はい!」
――こいつに皮肉が通じることがあるのか?
そんな疲れを感じていた。
オリンピック短距離選手級で走り続けているが、肉体的な疲労はまだない。
膨大な魔力の行使は行えず、吸血鬼でもなくなったが、稼いだレベルアップはなくなっていない。
ステータス値は常人とは比べものにならなかった。そして、その常人離れした精神力であってもげんなりとしてしまう相手がイインチョウだった。
「私が体から弾き出されたことは、差異があることの証明です――そう、姿が変化している可能性があるのです……!」
「なにを力説してる」
「ヤマシタさんはどんな姿になっているんでしょうか、とても楽しみです!」
「誰かは知らないが、おまえに執着されるとは不運な奴もいたものだ」
「ですよねっ!」
まだ出会ってもいない相手だが、早くも彼女はヤマシタさんと呼ばれる相手に同情の念と被害者同士の共感を覚えた。
その背後では、魔神のクシャミがとぎれることなく続いていた――




