137.急転直下の日々
そういえば、血をここ最近まったく吸っていなかった。
集団に襲われたが単純に撃退しただけだ。
生首にした相手の意識を探りはしたが、あんな血など吸いたくもなかった。
そして、見るからに極上の血が目の前に。
肌の色艶からもそれがわかる。ありえない話だが、日頃から十分日光を浴びている者のように見えた。
「いかん」
彼女は自制しようとした。
血など、栄養学的にみてもなかなか豊富なビタミン類と栄養素を持ってはいるが、嘔吐成分があるのだ。吸血鬼である彼女にはまったく関係ないが。
また、血を媒介にした病気も多くある。蚊を媒介とした病気の蔓延とはすなわち血液成分を外部へと運ぶことに他ならない。吸血鬼である彼女にはそんなのまったく効かないが。
なによりも、ここ数年ばかり血を飲んでいない。『魔神』のそれと普通の食事で満足していた。考えてみればその前も、味わう暇などなく、ただひたすらに生存のための作業として吸血を行った。この際、一度くらいはきちんと味を確かめてみるのも悪くはないのではないか。だって彼女は吸血鬼なのだから。
「――」
気づけば、その体を抱え起こし、その白い首筋を見ていた。
起きあがる様子はまったくなく、手は垂れ下がり、頭もまた重力に引かれた。
あかん、あかんでぇ……
よくわからない脳内突っ込みが入っていたが、止まれるはずもなかった。
罠の可能性を理性は指摘するが、あまりに旨そうだ。
周辺『空間』の誰かが運んだ貢物だろうという都合のいい解釈に飛びつき、妥当な判断を封殺する。
衣服はきちんときれいなものであり、横には普段着らしき衣服が――セーラー服が折り畳まれていた。
黒髪に白い肌、触れるたびにぞくぞくと寒気がわき上がるのは、果たして興奮のためか、それ以外の理由か。
ふたたび、視線を感じた。
寝ている者の瞼は開いておらず、感知した方向もそちらからではなかった。
そこに停止の意志はなく。悪意も害意もなく、ただ見守るだけのものだった。
わずかに背筋が震える。
理解を越えたものと接している――その予感があった。
だが、己はこの『空間』の魔王であり吸血鬼だ。矜持が恐れを些事として扱った。
首筋に牙を埋め込み、血を吸った。
天上の美味――『魔神』のそれにも勝るとも劣らぬ……
そう思えたのは、ごく一瞬。
すぐさま鉄臭く、嘔吐を誘うものとなった。
「!?」
血を吐き出す――そんなことを自分が行うとは思っていなかった。
反射的に手を当てるが、隙間から黒い血液は溢れ続けた。
喉は鉄そのものの味を感知するが、絶えることなく逆流し、食道や口内にヤスリをかける。そこからもまた血は流れ、外部へ放出された。
ばきん、と内部で何かが壊れる音をたしかに聞いた。
嘔吐の勢いが増し、塞ぐ手を弾き飛ばし、次から次へと奥から溢れた。
地面を浸し、広がり、流れる黒く濁った血流は、彼女の体積量よりも多かった。
広い中庭すべてを染め上げようとするかのよう、それに押され彼女の両牙が抜けた。
抜け落ちたそれに反射的に手を伸ばそうとするが、空中で『砕けた』。
力や魔術による破壊ではなく、ごく自然に劣化し、壊れてしまったように見えた。
そして、何もないその場所から徐々に人の姿が現れた。否――最初からそこにいたのだ。
ただ気づくことができなかっただけで。
「あ、ようやく見えるようになったんですね」
それは、半透明な姿をより確かにした。
姿は横たわるものとほぼ同じ格好と姿。
「わたしの血を吸ってしまうなんて、不運でしたね?」
祝福するような笑顔を浮かべていた。
+ + +
「――!」
考える間すらなく、瞬時に魔力を構築し、火矢の呪を放った。
通常の五倍以上もの魔力をそそぎ込むことでようやく可能となる呪文短縮。
普段は最上位に匹敵するはずのそれは、「ごく普通の火矢呪」として現れた。
たとえ霊体だとしても魔力余波だけで吹き飛ばしてくれるという意図は外れ、当然のように幽霊の眼前で砕けて散った。
「戻りたてなのに、そんなに無理をしてはダメじゃないですか」
幽霊は指を振り、唇を尖らせそんなことを言う。
聞かず次撃を構築――慣れぬ破邪系呪文を自らへのダメージ覚悟で構築しようとしてガクリと倒れ込んだ。
「――!?」
それは、はるか過去に味わったものだった、あまりに昔すぎて把握するのに手間取った。
意志とは無関係に膝をつき、目の前が暗くなり、上手く呼吸ができなくなる。
「あガ――」
まるで貧血の上位版。
血液ではなく、生命力そのものが枯渇している。
――MP切れ……
そんなあり得ない言葉が脳裏をよぎった。
急激な魔力欠乏が体に影響を与える。
「馬鹿な……」
異常なほどの弱体化だった。
なぜ、と問う意識の前に、答えは示された。
地面についた手、わずかに切れた肌から赤い血が流れ、吸血草がキィキィと嬉しそうに吸い込んだ。溢れ返る黒い血には見向きもせず、ただその赤い血の方だけを。
「え……」
『人間の血』を、それは吸っていた。
草の葉の鋭さが肌を傷つけていた。
同陣営であるはずだというのに。
「どうやら、わたしの血を飲んだことで、あなたの吸血鬼としての部分を『壊呪』してしまったようですね。わたしの血にこんな効果があったなんてびっくりでした」
うんうんと幽霊はうなずいている。
言葉の意味を、元吸血鬼は理解したくなかった。
「ここがどこかはわかりませんし、あなたが誰かはわかりません。どうやら異世界で、ひょっとしたら試験なんですかね? ただ、あらかじめ『用意された体』と馴染まず、こうして弾き出されてしまったようです」
「な、なにを――」
「ヤマシタさんが側にいないことだけが不満です。これから探しに行きましょう」
「なにを言っている!」
「あなたに取り憑く宣言です」
だってわたし今、幽霊ですから――などと自慢げに言う。
「ふざけるな、おまえがこちらになにをしたのかは知らないが――」
「ですがこの苦境、一人きりで抜け出すことは難しいですよ」
「は……?」
「私一人でも無理ですが、あなた一人でもまた不可能です。この不運を乗り越えるには手を取り合い協力することが必要なのです」
えっへんと胸を張っていた。
その稜線の高さがまた気に障る。
結節点、『魔神』の照らすそれが白から黒へと変化した。
すべてに対する中立から、すべてに対する敵対に。
人間魔族陣営問わずにステータスを減算する。
彼女にとっては、まるで重力が倍加したように感じた。
同時に、ゾンビたちが産声を上げた。
なんら条件付けをされていないそれは、黒の時間に祝福され、暖かな血を求めて彷徨を開始する。
そして、唯一生きた存在が、ここにあった。
「あ、私は委員長と呼ばれています。名前はあげてしまったので名乗れませんが、未誕英雄をしています」
とん、とその肩に乗りながら言う。
「さあ、一緒にこの不運を楽しみましょう?」
元吸血鬼は声の限りに「ふざけるなっ!」と叫び返した。
ごく真っ当な叫びだった。
だが『空間』内に木霊した生者の叫びは、死者たちの注目を引いた。
ぼこぼこと、あちらこちらに埋めてあったゾンビたちですら起きあがる。
「いい不運です!」
「他人事かおまえ!」
親指を立てて頷く幽霊へとつっこみを入れた。




