136.現在過去の日々
「――?」
誰かの視線を感じた、気がした。
だが、生きたものなどここにはいない。
暖かな血を持つものがいれば確実に感知するはずだ。それが魔術であっても同様だ。
この場には、一つの魔力のみが満ちているのだ、その阻害要因の把握などたやすい。
だからこそ遠慮なしにラジオ体操を行えたのだし、だからこそ無遠慮に襲いに来た者たちを瞬時に殲滅した。
開始時間に間に合わなくなりそうだったのだ。
そうして、今は外にいる。
今度はご飯の時間だった。
芝生が枯れ果てながら足にまとわりつき、化石のような樹木がわずかな血臭にざわめく様子を見ながら、さらに気配を探ってみた。
神経質かと思うが、たしかに感知したのだ。アリの歩行音を聞き取る精度で確かめる。
結果は、同じだ。生きたものはいない。
はぁ、と息を吐く。
その音だけが無音に響く。
静寂はこの『空間』における日常だ。
「――」
彼女は、目を閉じ、昔を思いだそうとした。
ここに来るより前の出来事だ。
いつものように、それは上手く行かない。
靄がかかったように判然としないが、ときおり断片的なイメージはある。
それは――走る足、破壊の痕跡、高く上がるモンスターどもの鳴き声、そして、吸う血の甘さ――
このダンジョンへと走り逃げ込む契機となったもの。
だが、その根本は、まるで思い出せなかった。
そもそも、いつから『吸血鬼』として在ったのか。
それすらも、不明だ。
ただ彷徨し、敵を倒し、多くの人もモンスターも魔族もその血を吸って生き延び、たどり着き――気づけば真上に『これ』があったのだ。
『空間』の中心にて光る結節点、それは通常のものよりも幾分以上に巨大であり、また異常でもあった。
照らす光は赤ですらない。
白と黒を呼吸するように交互に照らした。
その内部には、影がある。
結節点の巨大さと比べれば微々たるものだが、それはたしかに人の影であり、また、放出される魔力波動の中心でもあった。
「――」
彼女は、「これ」が何かは知らなかった。
結節点にあるのであれば、モンスターかとも思うが、それにしては強大すぎる。
そこから湧き出る力はどれほど吸おうとも吸いきれず、果てなどないように溢れかえった。
血を吸い、生きた彼女にとって、それがどれほどの福音となったかわからない。
いままであった永劫の飢餓――まるで蒸発する雪でも食べているかのようなそれ。ほんのひととき乾きを潤すことすら満足に行えず、むしろ渇望を酷くするものから、救われた。
どれだけ血を吸っても満たされなかった。
戦士の血を。
魔術師の血を。
恋人同士の血を。
そして、この『空間』にいた魔王の血を吸ったが、まったく足りない。――そう、『足りなかった』。
「――」
足を、とん、と軽く蹴り、宙へと浮かぶ。
結節点の側へ行く。
命のない『空間』の中を飛翔し、手が焼け付くのもかまわず、口をつける。牙が伸び、凝固した力そのものであるそれへと牙を突き立てる、当然のように顔の表皮が焼かれ、黒い血は流れる端から蒸発するが、表情は紛れもない歓喜を示した。
体の中を溢れる魔力は、百人ぶんの血液を凝縮させたものだと思えた。
最初に吸ったときの感動は、忘れられない。
どれほどぶりかわからない「満ち足りる」という感情を知った。
永劫と思えばものが終わりを告げた。
乾き続けた放浪者が、永遠に湧き出る泉を見つけたのだ。
副次的な効果もあったが、ほんのおまけだ。
その膨大な魔力は、瞬間的な破壊を可能にさせた。
単純に魔力を放出するだけであっても敵は残らず吹き飛ぶ。
火呪を放てば周辺一帯が火の海と化した。
拘束呪を放てば空間そのものが停止した。
レベルも、見たことがないほどの勢いで上昇を続けた。
部下や仲間など、いらなかった。
彼女一人さえここにいればいい。
この結節点にいるものが――無限の恵みをもたらす『魔神』と自分さえいればいい。
「そう――この餌さえあればいい……」
他よりも大きいその結節点は、幾分か萎み、一般程度のものとなっていた。
その様子を見て、さらに笑う。
これがなにかは知らない。それは本当だ。
だが、強大かつ無双の力を持っていることはわかっている。また、放置し続ければ結節点は体積を増し、内部の人影は成長を続け、そのうちに目覚めてしまうことも。
目覚めた魔神がなにをするのかは、わからない。
周囲一帯を破壊するか、上や下へと進行するのか。
ひょっとすれば、自分こそが「世界の平和」を守っているのかもしれない。
少なくとも、今回攻め込んできた無能な人間よりは、確実に貢献しているだろう。
くく――と喉の奥で笑う。
地面へとゆるゆると降りる間に、顔や手はすでに再生を終えていた。
「だが、退屈は退屈だ――お客人が来るのであれば、相手をしなければ」
結節点よりも更に上に視線をやりながら言う。
瞳孔を開きながらの笑みは、強者としての確信があった。
「生き残るのは、こちらだ」
生存を求める吸血鬼は、『自分たち』を損なうものに容赦するつもりはまったくなかった。
「……しかし、モンスターの生成ができないのはつらいな」
手を広げた体勢のまま、思わず弱気もこぼす。
結節点の関係で、通常行う『空間』の支配はできなかった。
また、あまりに長くこの地に暮らしていたためか、いつの間にか陣営が魔族側から魔神側へと変化していた。
中立である白の時間にもっとも高いステータス補正を受けるこれは、便利と言えば便利だったが、立場は微妙な位置にある。
彼女はあくまでも『魔王』であって『魔神』ではなかった。
結節点を通じての取引は行うことはできるが、これを支配しているのはあくまでも『魔神』だ、その部下、あるいはモンスター扱いの彼女は結節点使用の生成を行うことができないのだ。
せいぜい吸血鬼としての能力を使い、部下としてのゾンビを作成することが精一杯だ。
――くぅ、とお腹が鳴った。
「む――」
本来癒されるはずのない餓えが満たされ、吸血鬼としての側面が弱くなったためか、最近はごく普通にお腹が減るようになっていた。
生存を求め、健康に誰よりも気を使う彼女は、当然のように食事にも気を使っていた。
まったく仕方ないなぁ、という顔をしながらもウキウキと引き返そうとした動作は、すぐさまずぅんと沈んだものとなった。
「ああ、そうだった、調理番のやつも倒されたのだったか」
返す返すも口惜しい。
早寝早起きの生活リズムを乱すように行われた襲撃だったため、人間どもの先手を許してしまった。
まったく、あのゾンビが好みの味付けを覚えるまで、いったいどれほどの時間を費やしたことか。
いや、味だけではない、タンパク質、炭水化物、脂質の比率、ビタミンや栄養バランス、食材の新鮮さを見極め、旬のものを使い、なおかつ予算内に納めることの難しさは筆舌に尽くしがたい。
久々に自分で作るしかないのかとため息をはき。
「――」
立ち止まった。
停止させている心臓が、脈打った。
そこに、いつの間にか人が横たわっていた。
ついさきほどまで確実に居なかったはずだ。
ゾンビではなかった。人間――生きて血脈を通わせるものだった。
若い女性のように見えた。
おそらくは処女だ。
健康状態は悪くなさそうだが、どういうわけか寝間着だった。
魔力的な感知を飛ばす。
乱れはあったが、もう術式実行は終わった後だった。
瞬間的に発生し、わずかな痕跡だけを残して消えた。それ以上の変化はなさそうだ。
ただ人だけが横たわり、眠っている。
「……」
ごくりと喉を鳴らした。
迂闊にも、横たわる彼女の周囲の吸血草たちが、残らず死滅していることにはまったく気づいていなかった。




