102.始まる日々Ⅰ
白い獣は歩いていた。
一人きりで町中を。
魂だけしかない身は不確かだ。地面につく足ですらも油断すれば通り抜ける。
寒さに凍えるはずの体は冷たさを感じない。
息を吐く動作に息吹はない。
死とはこういう状態かと理解する。
『生まれる』ことができる――
膨大な回復力を持つ肉体からはすでに離れている。ここには魂だけしかない。そして、人は魂だけで生き続けることなどできない。根本となる執念があれば話は違うのかもしれないが、そのような根性などあるはずもない。
なにせ、ずっと死にあこがれ続けていたのだ。
そう、『ゲート』によって肉体の死が約束された。
今も殺され続け、そして、今も出ようとしては失敗し続けているはずだ。
因果を捻じ曲げるあれは、将来先の話である「肉体の死」を今この時の出来事として扱うことだろう。
今回襲った彼らは、戦闘力としては望み通りではなかったが、結果として望み通りのものを得ることができてしまった。
その事実は、しかし、まだ実感としてはわからなかった。
たしかに、体を失っている。
この世への繋がりのようなものが失われつつあることがわかる。
だが、苦しくない。
全身をミキサーにかけられ続けるような痛苦がない。
火炎で、氷雪で、雷撃で、重力で、不運で、除霊で、呪詛で、真空で、斬撃で、回転で、魔力で、凍結で、精神で、閃光で、闘拳で――ありとあらゆる攻撃を身に受け、その全てから復帰した経験と比して、あまりに緩やかで、穏やかだった。
――こんなことで、いいのか?
むしろ、心に残る羞恥のようなものが、痛かった。
辻斬りを行った者だ。
その最後は、当然、無惨かつ残酷なものになるはずだった。そうでなければならない。『生まれ』させる行いとはいえ、他者を害したのだ。相応の罰があってしかるべきだ。
――特に……
サルファと呼ばれた、あの妖精。
辻斬りの行いとしては最後の相手。
他は、曲がりなりにも戦いの末の結末だったが、アレだけは違った。
ただの虐殺でしかなかった。
なぜあんなことをしたのか、未だにもってわからない。
ただ許せなかった。
許すことができなかった。
後悔を覚える今であっても、同じ場面同じ時と遭遇すれば、同じ行動を取るだろう。
己の心臓をもてあそんでいる者がいると思えた。
今すぐに排除しなければ筆舌に尽くしがたい苦痛を得ることになる。一瞬先にも味わうことになるそれは、『ゲート』に飛び込むことよりも、よほど辛いに違いない……
地面ばかりを見つめていたことに気づき、顔を上げてみた。
路地の裏の裏までよく知っているはずの街だった。
さほど戦闘力が高いわけではない身だ、地形の把握は必須だ。
だが、まったく見知らぬ、初めて訪れた場所に思えた。
石畳は寒々と、夜を吸い込み静かに横たわる。
多様な建物は暗闇に埋もれ、奇怪なシルエットだけを見せつける。
遠くでは、望みを叶えてくれた者たちが、騒がしい声を上げていた。
――ああ、そういえば……
ちゃんと別れを言えば良かったと、今更になって思う。
ずいぶんと不義理なことをした。
狼の顔を持つ者、彼は元チームメイトだった。獣人ばかりが集まるチームの中で、特に友情に篤い奴だった。一回生の頃、『生まれる』ことができないと知って、いろいろと骨を折ってくれた。
その助けを振り切り、決別したのはこちらだった。そうしなければ共倒れとなっていたはずだ。
まさか『生まれ』て再び戻ってくるとは思ってもみなかった。
――相変わらず、トラブルを自分から背負い込んでいる……
増殖する体を『ゲート』へ落としてからしばらく、あのタレ目の少年が――やけに「殺し慣れ」ている者が、壊れて崩れる棒を見て絶叫した。
あわてたように向かい、対処しようとする元チームメイトの姿は、その性質がまったく変わっていないことを確信させた。
一度や二度『生まれ』たくらいでは、根本は変化しないらしい。
だからこそ、隙を見て離れることも簡単にできた。
やけに不吉な少女と、それに抱えられた猫はこちらの行動に気づいたようだが、手を小さく振り見送った。
タレ目は、砂と化した棒を、必死にかき集めようとしていた。
完全に涙目だった。
一緒にかき集めている奴は困惑顔だった。
くくっ――と笑う。
単純におかしくて笑ったことが、実に久しぶりだったことに気づく。
様々な大切なことを取りこぼしていたのかもしれないと、今更になって思う。
だが、いったい他にどうすればよかったのか?
誰かに頭を垂れ、己を実験台として使ってもらい、『生まれ』ることをすればよかったのか。
しかし、その行いは、一度限りでは終わらない。『生まれ』た後も、同じ運命を辿ることになる。
プライドも命もなにもかもを他者に売り渡し、解決の助けを請う生き方だ。
そんなものは御免だった。
同じ最悪であっても、己自身の意志で選択したものでありたい。
たとえ他者の命を奪うことになったとしてもだ。
白い獣は歩き続ける。
幽体と化したそれは明滅を続ける。
終わりが近づいているのだろうと理解する。
最期を迎えるのにふさわしい場所はどこか?
考えてもみなかった問題だった。
贅沢な悩みだと思う。
ただ、この町中では、嫌だった。
殺されるために彷徨を続けた記憶だけがあった。
いい思い出もあったはずだが、上書きされてしまった。
ここは、もう自分の居場所ではない。
マンホールの蓋を開けようとして、すり抜けた。
いったいどうしようかと考え、そのまま通り抜ければいいことに気づく。
暗く水音だけがする地下水路、そこを足音もなく、存在もなく着地し、進む。
――なにもかもを失ったな……
相当力を減じた形で『生まれ』ることになる、そんな予感があった。
絶大な回復力はもう望めない。
それは消えてしまった、ゲート向こうへ捨てられた。
回復の特質がなければ自分など、雑魚と大して変わらない。
むろん、だからと言って不満もなければ不服もない。
もともと分不相応な能力だったのだ。
苦しめられ続けた時間を思えば、むしろ清々としていた。
だが、それでも、少しばかりの寂しさのようなものは、あった。
結局、この世界で成したことと言えば、二つしかない。
一つは辻斬り、何らかの形で己の所業は記録されることになるだろう。
そして、もう一つは作品だ。
己の想いのままに作成した物品の数々がある。
作成場所――アトリエは、己が『生まれ』るための戦いを忘れることができる空間だった。
広さは相当のものがあるが、巧妙の上にも巧妙に隠蔽してある。あれだけ必至に捜索した者たちが発見できなかったほどだ。
訪れる者は、これから先もいないだろう。作品は誰にも知られることなく朽ちていくことになる。
それでいい、とも思う。
己の心の有様そのものだ、あまり人に見られたいものではない。
結局、選んだ場所もそこだった。作品たちに囲まれて、最期を迎えたかった。
そこに――
「遅かったな」
先客がいた。
デッキブラシを手に掃除をしていた。
銀縁めがねで七三分けだった、世界が明日滅亡するとなっても変えないというようにきっちりと衣服を着こなしているが、いくらかヨレヨレになっていた。
胸元にはネームプレートがあり、
ハラウチミノル ただの人間
と、書かれていた。
祓打自身が書いた、流麗な文字だった。




