7.落下と不運について
それに最初に気づいたのはヤマシタさんだった。
「真下に広がるものは、ひょっとしなくとも毒沼ではないのだろうか……?」
猫特有の暗闇を見通す視界で、下の様子を捉えて伝えた。
ヤマシタさんの特技――情報伝達によるものだった。
見ているもの、感じているものが、直接伝わる。まるで目鼻口がもう一つできたみたいだった。
戦闘中だと混乱するけど、探索中だと声を発さずに意思確認ができる便利な技能だ。
真下にあるのは、ぶくぶくと泡立つ様子。さすがに光量が足りなくてよくわからないけど、骨らしきものが浮かんでるようにも見えた。
そして、僕らは宙に浮遊し落下している真っ最中、手掛かり足掛かりはどこにもない。
少なくとも僕ら三人に、飛行手段は存在しない。
「ペス、もうちょっと壁際に移動を!」
「無茶言うな! 支えて落ちないようにすんのが精一杯だっての!」
「このまんまだと墜落したのと同じことになる!」
「ああ? 毒くらい気合いで耐えられるだろ!」
「骨と違って生身だと毒はかなり致命的なんだよ!」
「嘘つくな!」
「嘘じゃない!」
「肉が邪魔なら削ぎ落としちまえ!」
「それやってもやっぱり死ぬから!」
「不便すぎるぞ、おまえらの体!」
「僕もちょっとそう思った!」
叫ぶ間も、下の広がりは迫って来る。
僕とぺスは言い合い、ヤマシタさんと委員長も同じようにしていた。
「……んー」
「委員長殿、止めるべきだと拙者は思う」
「なにをですか」
「己一人だけに被害を集中させようとしていることだ……!」
曇りなく微笑む様子を、ヤマシタさんを通して知る。
「毒素を『偶然』私に集めることができれば、他に被害は及びません」
「そのようなことは認めぬ、拙者だけではなくこの場にいる誰もがだ!」
「えー、でもですね」
「委員長殿は仲間だ、捨て駒ではない!」
ヤマシタさんの言葉に、嘘は一片もなかった。
そして、僕もまた同感だった。
本当に危険になったら分からない、本当に最後の最後になったら決断する必要がある、だけど、今ここは『それ』じゃない。
委員長はきょとんとしていた。
言葉の意味が、まったく分からないというように。
僕は黙り、ぺスを仰ぎ見た。
その意志をたしかめる。
ペスは笑っていた。
肉食獣が牙剥くような笑みだった。
それで、気持ちがわかった。
見れば、毒沼はもうすぐそこまで来ている。
すぐそこ――つまりは飛び降りても着地できる高さだ。
やることなんて決まってた。
僕は掴んでいた手を離し、重力そのままに落下した。
「吹き飛ばす! おまえら走れッ!」
真上で魔力が循環する。
いくつもの魔法文字が骨の上を滑り、経路を形作り、流れて魔力を魔術へ変える。
ペスって名前の大砲から、極大の光弾が発射され、僕らの横を通過し、真下を穿った。
閃光、破壊、爆発――
隕石がこの縦穴にホールインワンすればこうなるだろうと思える光景。
毒沼を構成する水分が残らず押しのけられて底を見せる。
一瞬だけの枯れ沼状態、僕らはそこへと着地し、すぐさま走った。
一秒後には毒の『雨』が降り注ぐ、それより先に出口に向かわなければならない。
その方向は、ヤマシタさんが捉えてた。
いつの間にかつけられていた首輪、その鈴の音色を活用し、音の抜ける位置を聞き取った。
かなり不本意そうな顔をし、委員長は自慢げな顔をし、ペスは「ヒャッハァ!」とテンションを上げ、僕は歯を食いしばって駆け――全員がすっころんだ。
「ぶべっ」
「うひゃっ」
「にゃ!?」
「ぷっ」
何かの作意じゃなかった、ただの『不運』だった。
滑りやすい箇所に、全員が足を踏み入れた。
『雨』が降り注ぐ。
逃げるだけの余裕なんてどこにもない。
どうしたって間に合わない。
地面と直で接して、わかった。沼にあったのは毒というよりも溶解液だった。すこしくらいなら大丈夫だけど、これだけの量を注がれたら、たとえペスであっても無事では済まない。
真上からの、濁った水の襲来。それに対して誰より早く立ち上がったのは委員長だった。
セーラー服の揺れる背中。
黒くおぞましい何かが、彼女に向けて引き寄せられた。周囲一帯から、僕らのも含めてすべて。
それに同期して、雨粒たちが進路を変えた。偶然、あるいは不運にはとても見えない。まるで巨大な掃除機で吸い込んだかのようだ。
雨は水流となり、ただの一人だけを溶かそうと牙を剥く。
「阿呆ぅっ!」
その裾をヤマシタさんが咬んで下へと引っ張った。
頭の位置が下がる。
それでもなお貫こうとする水流を、僕が両手で掴んだ。
「ぐっ」
掴んだ手が煙を上げた。臭いと痛み。反射的に振り払おうとするのを意志で抑え込む。
奥歯が噛み砕けた。両手の血液が残らず沸騰したような錯覚。
僕では、水滴を掴むことはできない。だけど水流なら掴むことができる。見えない魔力を掴むより、よっぽど簡単だ。ダメージとか溶解速度のことさえ考えなければ。
でも、それでも、押し寄せる水流との間に、一瞬だけの拮抗状態を作り出すことがはできた。
「ああ、もうおまえらぁあ!」
じゅくり、と手が溶けて消えるよりも先に、僕と委員長の背をペスが捉えた。
衣服を五指の骨がしっかりと確保し、そのまま飛んだ。
後先考えない最高速の飛行魔法は、溶解液の殺到より速い。
飛沫と轟音と大瀑布は追いつけない、背後に残して出口へ向かう。
「あれ?」
不思議そうな委員長の声は、全員で無視する。
洞窟奥の曲がり角に衝突したけど、それ以上の攻撃はやって来ない。毒沼が暴れる様子しか聞こえて来ない。
しばらくの間、その騒がしさと、僕ら自身の心音の激しさと息づかいを聞いた。
「――」
「……」
僕とペスとヤマシタさんは、お互い視線を交わした。
委員長だけがおろおろしてる。
ぷっ、と吹き出す声を出したのが誰だったのかはわからない。
だけど気づけば大笑いしていた。
そう、僕らは、不運を望んで集める人から不運を取り上げることに成功した。




