第一話 心の戦い(2/2)
申し訳ありません。投稿システムのことを理解していなくて、(2/2)を(1/2)とバラバラに投稿してしまいました。
(1/2)に続編として(2/2)を再度投稿しましたので、そちらをご覧下さい。
削除できないためこのままこの文章は残るかと思いますが、こちらの更新は今後いたしません。
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春太とアルナ、茜とアカマがたどり着いたのは、郊外の小さな山の頂だった。
超人である春太はディアボリクを羽交い締めにしながら、ゆっくりと高台に降り立つ。
春太はふと、空を見上げる。
少し空に近い場所だからといって、気のせいなのだろうが……春太には、ここから見える月が、いつもより大きく見える。
満月だった。
空を飛んでいるとき、月はずっと雲のかかっていて見えなかったが、春太がここに来てから、不思議と雲がなくなっていた。
満月の光が降ってきて、春太の金色の鎧を照らし、春太いる辺りだけがポウッと明るくなった。
「もういい加減いいだろう? 離せよ」
身動きのとれないアカマが苛ついて、怪人の目を赤く光らせる。
春太は、なんとなしに、アカマが話しているのか、それとも茜が話しているのか分かった。
「山村さんの声が聞きたい。
山村さんに体を預けろ」
「……」
羊の顔に似た怪人は、無言のまままぶたを閉じる。
そして再びまぶたを開けたとき、怪人の目は赤い輝きを弱めて、穏やかなものに変わっていた。
「南風君、甘いよね」
その茜の言葉には、何も気持ちがこもってなかった。
怪人の頭部から触手が再生し、超人の頭部めがけ直進する。
超人である春太は、鬼にようなマスクの目を光らせながら、触手を手刀ではじき落とす。
春太の組み手が解かれたことで、怪人である茜は、両足の力だけ宙を舞い、春太から離れる。
「山村さん! もうやめよう、こんなこと!
君だって、こんな酷いことしたくなかったはずだろ?」
その言葉は、山村茜にとって癇に障った。
春太のその言葉に対して、茜は、怪人のマスク越しに、人知れず歯ぎしりする。
体から紫の霞のようなオーラが急速に放出される。
その様子は、春太が初めて見るものだった。
山村茜である怪人――その頭部の触手が、春太の想像を超える速度で再生されていく。
怪人の肉体は更に巨大化し、筋肉は不必要な部分まで盛り上がる。
当然、今まで怪人を縛っていた紐は限界に達する。
紐はブチブチと引きちぎられ、落下とともに金色の粉となって消える。
紐が解かれてからも、怪人の体はますます大きくなり、最終的に、二メートル五〇センチはある巨体となった。
「南風君……あんたに何が分かるの?
……知ったようなこと聞くな!」
怪人の無数の触手が逆立ち、目を光らせる様子は、その目を見た者を石化させる伝説の怪物に似ていた。
幸いながら、彼女の瞳を見ても石化しない。
残念ながら、彼女の頭髪は毒蛇よりも強力だった。
春太が初めて怪人と会ったときよりも、触手は一回り二回り大きくなっている。
牙しか付いていなかった触手は、いつの間にか一つ目が浮き出ている。
口の周りから得体の知れない粘液が垂れて、丘の草原を枯らし始める。
そして、怪人は、触手一本一本にもオーラを纏わせていく。
以前よりも速度を増した触手を、春太に向かって飛ばす。
「そうだよ、僕は何も分からないよ!」
春太は、先ほどと同じように「太陽の翼」を大きく動かして、触手を打ち落としながら接近する。
「だから僕は、知ることにしたんだ!」
だが以前のように、春太は触手を打ち落とせない。
茜からの距離がようやく二〇メートルまで縮まったところで、彼女の触手の段幕には、量と誘導性が増してきた。
迎撃の取りこぼしがあるなか、手刀と蹴りで対処する。
何とか触手に噛まれずにすむが、蹴り上げたときに、触手の吐き出した粘液がかかり、プロテクターを溶解される。
そして一閃。
ディアボリクの触手の段幕で視界が遮られる中、不意を突く高速の一撃が、春太の腹部に命中した。
ディアボリクの尻尾が伸び、時速二〇〇キロで直撃したのだった。
春太の体がよろける隙を、茜は見逃さなかった。
すかさず両腕も伸ばし、春太の両足の右太ももを貫く。
さすがに超人となった春太でも、痛みを堪えることができない。
激痛に抗えず、そのまま膝を地につける。
茜はその様子を見て、すぐさま触手と尻尾と両腕を回収する。
超人の体から赤い血液が流れている。
人間と同じ血だ。
このままでいれば、いくら超人とはいえ失血死してしまう。
超人の能力を体の修復に使っている間は、春太は戦えないはずだろう。
茜は形勢の優位を確認し、肩の力を抜いてリラックスした。
「嫌よ。話すことなんてない」
戦闘の一段落がついたことで、茜は春太に返事した。
非常に、そっけなく、確かに、拒絶の言葉を返したのだ。
それなのに、春太は変わらない。
「教えてくれ! 山村さん!」
春太が叫んでいる。
「……うるさい」
茜は、回収した一本の触手の先端を槍状に変えて、再び飛ばす。
触手の刃が春太の脇腹を貫く。
ぐぐ、と春太は鈍い声を漏らす。
春太の痛ましい姿を見ないようにと、茜は春太に背を向ける。
すると、また声が聞こえてくる。
「山村さん!」
「うるさい!」
茜はもう一本触手を飛ばし、春太の脇腹を貫く。
動かない標的なら、背を向けてたって触手は命中する。
でも、痛みに耐えようと必死な春太の呼吸音は、否応なしに茜の耳に入ってくる。
そして、数秒経つと、春太の呼吸が整ってくるのも分かる。
呼吸が整えば、春太はまた茜に向かって叫ぶことも、茜は分かっている。
「教えてよ! 山村さん!」
「うるさい!」
触手をもう一本飛ばす。
しばらく経つ。
「山村さん!」
「うるさい!」
もう一本飛ばす。
「答えて!」
「黙ってよ!」
もう一本。
「茜さん!」
「だっ……」
もう一本飛ばそうとしたところで、茜は動きを止める。
不意に下の名前を呼ばれて、困惑したのだ。
「君の話を聞くまで、僕はただ君を呼び続ける。
君を攻撃しない」
その言葉に、茜の決意は揺らぐ。
誰にも気持ちを伝えないまま、悪魔になろうとしていた決意。
考えることを忘れて、この体を悪魔の器にしてしまおうという決意。
その決意が、無抵抗で訴える、大切な人の前で、揺らぐ。
「馬鹿だよ……南風君」
そう言いながら、茜は思った。
馬鹿は、自分なんだ。
そういえばさっきから、一回も南風君の急所を狙っていないじゃないか。
殺す気持ちなんか、まだ全然湧いていないんだ。
こんな未練たらたらなまま、あたしは人を殺してまわる悪魔になろうとしてたの?
そんなの、馬鹿すぎるよ……。
「なんでそう強いのよ、南風君は」
春太は、体を少しずつ修復しながら、答える。
「僕が強いから、痛くて、辛くても君のことを聞きたいんだと思ったの?
……それは違うよ。
弱くて、何も分からなくて、いつも不安だから……こんな不安を抱えて生きていくくらいなら、いっそ死んだ方がいいって思うから……痛みに耐えてでも、君のことを聞きたいんだ……。
……それって、ダメなことかな……?」
その言葉を聞いて、茜には、春太の優しい表情が、ディヴァインのマスク越しでも想像できた。
「馬鹿……そんなこと言えることが、強いんじゃない……」
茜は、マスクの下で涙を流した。
茜の声の様子から、春太は茜が落ち着きを取り戻していることを感じ、安心する。
「質問するよ……いいね」
茜は無言だったが、拒絶もしなかった。
「君は、自分から人を襲おうと思ったのかい?」
春太は質問を始める。
「他人を襲う気は最初なかった」
茜も返事する。
「なら……君のお父さんとお母さんを殺したのは?」
「それならあたしだよ。あたしが父さんとクソババアを殺したいと思ってたら、悪魔がやってきて、あたしに取り憑いて、この力をくれたんだ」
茜は、臆することなく汚い言葉を使う。
そして、変わり果てた自分の手のひらを見る。
「あいつら散々あたしを痛めつけていたのに……この体になったら、あいつら全く歯が立たないでやんの。ざまあみろってえの」
春太は、茜の言葉に違和感を見つける。
「痛めつける……?
……虐待されていたっていうこと?」
「そうだよ。
あたし、体育の授業よく欠席してたでしょう?
あれ、体が弱いってだけじゃなくて、本当は着替えるときに、みんなにアザを見られるのが怖かったの。
……もともとうちの家族、お母さんがすぐ死んじゃった父子家庭なんだけどね。
去年、うちの父さん、あのクソババアと再婚したんだ。
クソババア、見た目優しいそうだったけど、中身は最悪だった。
はじめは父さんにも気づかれないようにあたしをいたぶっていたけど、いつからか公然とやり出すようになったよ。
外面だけ良くてね。ホントたちが悪いよ。
ご丁寧に、顔だけは殴らないでいてくれたっけね……それであたしも、何とか学校に通い続けることができた。
父さんは気の弱い人間でさ、私が虐待を受けていることに気づいても、『ごめんね』って言葉だけで済ましてね、クソババアに何も言えなかった。
でもその代わり、あいつがいないときには、私に優しくしてくれたんだよ。父さんはさ。
いつも『ごめんね、ごめんね』って謝って、あたしがあいつに殴り飛ばされたあと、あたしの乱れた髪を綺麗に梳かしてくれた。
あたしは父さんのこと、弱い人だなって思ったけど、嫌いになれなかった。
お母さんが亡くなったあと、ずっと一人で私を育てていて、寂しかったんだ。
だから、こんな酷い女の人でも、父さんの寂しさを埋める大切な人なんだったら、警察に突き出したりしちゃいけないなって、思ったんだ。
だから、児童相談所にも行かなかったの。
心の底で、仮にも自分の親を悪者扱いしたくなかったんだとも思うよ。
でもね、昨日の夜だけは、どうしても許せなかった。
南風君、あたしがあの二人を殺したの、昨日の夜だったんだけど、何の日だったか知ってる?」
春太は、首を横に振る。
「そうだよね……あたし、友希にも言ってなかったもの。
気を遣わせて、あたしの家に来てもらうことにでもなったら、大変だろうから
うちの家、中はメチャクチャだったから……。
あの日ね、あたしの誕生日だったの」
「!」
春太はショックを受ける。
そして、「おめでとう」の一言すら言えないこの状況を、悲しむ。
「昨日の夜は、誕生日ケーキだって、あったんだ。
プレゼントだって、父さんとあの女で選んで買ってあったんだって。
あたしは、今日だけはあの人も、あたしをお祝いしてくれるんだって思った。
素直に嬉しかった。
幸せな気持ちで、父さんと二人で、帰りの遅いあの人を待ってたの。
でもあのババアは、あたしの気持ちを簡単に裏切ったの。
日をまたぎそうな時間に、酒臭い息を振りまいて帰ってきた。
あたしの誕生日だなんて、全然忘れていたみたい。
『誕生日ケーキがあるから、一緒に食べよう』だなんて父さんが言うとね、あたしの誕生日を祝うケーキなんか気持ち悪くて食べられないなんて言うの。
そのうえ、私の目の前で、父さんにそのケーキをゴミ箱に捨てさせたの。
真っ白いケーキが、汚い残飯の入ったゴミ箱の中で、グチャグチャになっちゃった。
そのあとクソババアはね、親父に、あたしを殴れって命令したんだ。
『私を愛しているなら、前の女との子供を殴るくらい、わけないよね』って言ってね。
最近授業で習ったよね。江戸時代にキリスト教信者かどうかを試すときに使う、踏み絵ってさ。
あたし、踏み絵にされたんだよ。
それで父さんは、言われた通りあたしを殴り始めた。
最初は嫌々殴っていたんだと思う。あたしに謝りながら殴ってたから。
でも、だんだんそんな感じじゃなくなってきた。
クソババアが『もっと強く』って言うと、蹴るのも殴るのもどんどん強くなってきた。
いつの間にか、あのクソババアが殴るときなんかより、もっと酷くなっていた。
それであたしは、『父さんやめて』って言おうと、父さんの顔を見た。
ぞっとした。
今までの気弱だけど優しい父さんの顔はどっか行って、あたしを殴るのを楽しんでいた。
悪魔のような顔をしてた。
そのとき、分かっちゃったんだよ。
この人たちは、あたしの親でもなんでもないんだって。
あたしをダシにして何とか人間関係を保っている弱い男と、男にそういうことをさせて喜ぶ女がいただけだって。
あたしたち、家族なんかじゃなかったんだよ。
あの日は痛くて辛くて苦しくて、苦痛を堪えるとき、お母さんを思い出したの。
あたしがいつもつけてたバラのシュシュ、覚えてる?
あれ、前のお母さんがくれたんだ。
あたしはふと、あのシュシュを手にとって見ていたいと思ったの。
父さんに殴られながら、自分の髪からシュシュを外したの。
やっぱり綺麗だった。
そしたらね、父さんは怒り狂ったの。
『こんなもの、お前は持ってちゃいけない。母さんの形見は、全部捨てなさい』ってね。
父さんはあたしの手からシュシュを奪うと、その場で思いっきり引きちぎったわ。
その様子を後ろから、あのクソババアが楽しそうに笑ってた。
そのとき、あたし、思ったの。
ああ、これが絶望なんだなって。
あたしの目の前には、二人の悪魔がいて、そのうち一人は、紛れもなくあたしと血がつながっている、父さんなんだって。
こんなの、狂っているよ。
壊したい。メチャクチャにしたい。
こんな人たち、それに、こんな親から生まれたあたし。
そう思ったとき、本当の悪魔が見えたの。
それが、アカマっていうこの化け物だった」
茜は、怪人と化した自分の体を見つめる。
「あたしはアカマとすぐ契約して、父さんとクソババアを殺した。
そのあとで、アカマは、母さんのバラのシュシュを直してくれたの。
正確に言うとね、あたしが人間の姿でいるときには、アカマがお母さんのバラのシュシュを再現してくれるの。
本物の悪魔のほうが、悪魔みたいな人間よりよっぽど優しかったんだね。
……これが、昨日までのあたし」
本当のところを言うと、茜は両親かもっと酷い虐待を受けていた。
でもそれを、茜は春太に伝えない。
被害者本人の口から直接言うには、とても酷な内容だった。
「酷い……酷すぎるよ……。
君が両親を殺したって、誰も君を責められないよ」
春太の感想は、率直なものだった。
そして、茜を気遣うものだった。
でもそれは、茜が求めていた感想ではなかった。
茜自身の感想とは、違っていた。
春太は茜に同情したつもりが、また彼女を理解できなかった。
茜は、春太の言葉を聞いて、胸の奥にしこりが残るのを感じた。
その感情を押し殺して、もう一度、茜は春太の話しかける。
「話を、最後まで聞いて……。
今日のあたしは、逃げ隠れて疲れて眠ってしまって、起きたらもう日が暮れてて……。
外に出るとき怪人の姿で出たら、あなたのディヴァインに見つかってしまって、戦って……。
そしてついに、見ず知らずの人たちに手をかけたの……」
春太は、なんで茜がアカマに人殺しを許したのか分からなかった。
そして、茜の事情には同情しつつも、そのこと自体を許せはしなかった。
でもそれを、今咎めることはしない。
今は、茜から話される言葉を黙って聞く。
「本当はあたし、迷ってたんだ。父さんたち以外の人を殺すのかどうか。
アカマもあたしの意志に従うって言ってくれたしね。
だから迷っているとき、高いところにのぼってね、沢山の人を見たんだ。
いっぱい、いろんな人を見た。
でね、思ったの。
人を殺しちゃいけないって」
「! だったら――」
春太は、咄嗟に声が出てしまう。
「どんな人でも、殺しちゃいけないって」
茜は、春太の声を遮る。
「ビルの屋上から見てるとね、嫌なことをしてる人とか、ムカツクやつとか結構いるの。
警察に捕まえて欲しい人とかもね。
実際に、捕まえられたり、補導されたりしてる人もいた。
でもね、人が死ぬなんてところ一回も見なかった。
辛そうな顔をして生きている人も、自殺なんてしてなかったし。
どんなに悪くてどうしようもない奴だって、人殺しなんてしてなかった。
やっぱり、人が死ぬとか、人を殺すって、普通のことじゃないの。
とっても酷いことなんだなって、思ったの。
でもあたしは、もう二人殺してた。
たとえ、どんなに酷いことをされても、あたしは父さんたちを殺しちゃいけなかったんだよ。
……ビルから見下ろして、父さんの友達とか、あのクソババアの友達とか見かけたの。
お通夜の帰りだった。
みんな喪服を来て、涙を流しながらトボトボと帰っていた。
あのクソババアでも、涙を流して悲しんでくれる友達がいて、その友達を悲しませたのは、他の誰でもない、あたしだったんだ。
あたしは、父さんもクソババアもメチャクチャに引きちぎって殺したの。
だからお通夜の棺の中には、きっと父さんたちの体なんて入っていないの。
空の棺の前で、父さんたちの友達が手を合わせて、涙を流してくれたことを想像すると、胸が引き裂かれそうになるの。
そしてそんな酷いことを、さっきあたしは南風君にもやろうとしたのよ?
南風君がディヴァインと手を組んでるってアカマから聞いて、怖くて……アカマが言ってきた、隙を作って攻撃する作戦に乗ってしまったの。
南風君は、友希の友達でもあるのに……。
あたし、友希も悲しませることをしたんだって、あとで気づいた。
そんなことも考えないで、君と戦ってたんだよ……馬鹿だよね」
茜は一歩春太に詰め寄る。
春太は、思わず尻餅をついたまま後ずさる。
「でね、あたし、何かも嫌になっちゃったの。
罪悪感いっぱいで、このまま、自分が消えちゃえばいいって思ったの。
そのくせ、自分で自分を殺すことも怖かったの。
……だから、ディアボリクに全て任せちゃったの。
心を殺して、体は悪魔の乗り移る器にしてあげたの。
それで、いっぱい人を殺したの。
どうせもう二人殺したんだから、何人殺したって変わりないって言い訳して、何もかもから逃げたの。
自分なんて、世の中なんてメチャクチャになればいいって。
最低だよね、勝手だよね、あたし。
これで全部。
あたしの、全部」
「……」
春太は、返す言葉を選んでる。
でも、見つからない。
「……全部説明したよ?
なんか言ってよ……!」
巨大な怪人の姿で、茜は春太に一歩ずつ近づく。
関節が不自然に増えた両腕を、春太に向けて持ち上げて、手のひらを広げて見せる。
春太はうろたえる。
春太は、君は悪くないと言いたかった。
でも、大勢が死んでいた繁華街を思い出して、心から言える勇気がなかった。
沢山の人が死んだ光景から、春太は昔自分が味わった惨劇を思い出す。
それを考えると、無関係な人を殺した茜を、許すわけにはいかない。
「……そうだよね。同情なんて、できないよね」
茜はもう、春太の目の前にいた。
春太は、膝を地につけて、巨体となった茜を見上げるしかない。
茜はゆっくりと、自分より小さい春太の胴を持ち上げ、春太の目線を自分に合わせる。
「南風君もどうせ、そういう反応になっちゃうと思ったから、あたし、南風君にお願いを考えたの」
「な、なんだい」
「……あたしを、殺して」
春太は唾を飲み込む。
「あたしを殺して。
わがままで、無責任なあたしを殺して。
でないと、自暴自棄なあたしは、もっと沢山の人を殺しちゃうよ。
南風君はそんなこと、絶対に許さないよね」
春太は、歯を食いしばって、息をためてから、吠える。
「そんなことする必要ないよ!
君が怪人をやめればいいだけじゃないか!
僕のディヴァインのアルナは言ってたよ! 悪い心を捨てれば、その悪魔を取り払えるかもしれないって!
そうすれば、怪人になって人を襲うことだって、なくなるじゃないか!
君だって人を殺したくないんだろう?
君はお父さんたちに酷いことをされて、気が滅入ってただけじゃないか!
やりなおせるよ! 茜さんが人殺しだなんて知ってる人は一人もいないんだ!
また、前のように学校に来て、友希と一緒に笑ってよ!」
どこまでが春太の本心で、本心でないのか、春太自身にも分からなかった。
でも、目の前の怪物となってしまった少女のために、春太は目一杯の気持ちを込めた。
昔の山村茜になれば、それでいいんだと。
すると、春太の叫びを聞いた茜は、両腕を下げ、ゆっくりと春太を降ろす。
でも、春太を離しはしない。
茜の変わり果てた両腕は震える。
そして春太である超人のマスクの額に、しずくがつく。
怪人のマスクの下から漏れる、茜の涙だ。
「……違うの、南風君に、あたしを殺して欲しいの。
罰して欲しいの。
許して欲しくないの……。
……今、やっと分かったの。
あたしは、あなたが大好きだったんだって」
「え」
「そんな気持ちに気づかないで、あたしはあなたを殺そうとしていた。
お願い。馬鹿なあたしを、消し去って……」
春太は歯ぎしりする。そして怒声で返す。
「違う! 君は馬鹿なんかじゃないよ!
でも、君は弱虫なんだよ!
……どうして人間に戻って、罪を背負って生きようとしないの?
刑務所に行かなくたって、いいんだよ。
一生懸命生きて、誰かの役に立てれば、それでいいじゃないか!
はじめは辛くても、きっと笑って過ごせるときが来るよ!
どうして、それまで耐えられないの!」
その言葉を聞いて、山村茜の腕には力がこもり、ワナワナと震える。
「そんな……綺麗なことだけを言わないでよ!
そんな強い人ばかりじゃないって、分かってよ!」
茜は腕力の限りを尽くし、春太を放り投げる。
投げられた春太は直線的な軌道を描き、五〇メートル近く投げ飛ばされた。
ただ、途中に障害物がなく、着地までに時間があったことが幸いした。
春太は、背中の「太陽の翼」の出力と射出方向をコントロールした。
それにより、空中で回転することで体勢を制御し、減速することで安全に着地した。
「茜さん! 元に戻って! やり直せるよ!
僕も手伝うよ! 一緒にがんばろう!」
今の春太には、これだけのことを言うのが精一杯だった。
嘘でも、山村茜の告白に対して、返事することはできなかった。
「やめて……南風君の優しさが痛いよ。
これ以上、情けをかけないで……!」
「情けなんかじゃない! 僕は……」
春太は、気付いてしまった。
僕は……寂しかっただけなんだ。
友希の友達だから、こんな悲しい選択をして欲しくなかっただけなんだ。
友希の友達……それ以上の思い入れは、茜さんにないんだ。
そんな僕が、茜さんの心に響く言葉をかけられるのか?
自分のことも、自分の友達のこともよく分かってない僕が。
「どうしたの? 答えてよ。
……答えないなら、あたしが言ったことで合ってるんだよね?」
言葉に詰まる春太を見て、茜は吹っ切れる。
回収した触手たちを再び伸ばしはじめ、天高く掲げる。
「あたしはね、今普通の自分に戻ったら、自分のしたこと、許せない。
悪いことをした自分を、受け入れられない。
だから、あたしは悪魔のままでいるのが一番いいんだよ。
心も体も悪魔に売り渡した方が、いいんだよ!」
具現化したアカマディアボリク――怪人の赤い目に光が灯る。
それは、怪人の体を、アカマが掌握したことを意味する。
「そういうことだアンタ。
茜とアタシの暴走をとめたきゃ、茜の体ごとアタシを殺すんだな」
アカマは腕の前に出し、無数に作られた腕の関節を外して、そのリーチを伸ばす。
腕は一〇メートル近くまで伸びた。最大で、三〇メートルまで伸びるだろう。
「行くよお子様!」
アカマは触手を飛ばしながら春太に突進する。
春太は、その様子を呆然と見つめるしかしない。
春太の頭の中から、アルナの声が聞こえる。
「春太! もう戦うしかないよ!
殺されちゃうよ!」
アルナがこれまで治療に専念してくれたおかげで、具現化したアルナディヴァイン――超人の両足と脇腹は大分癒えている。
あとは、それを操る春太とアルナたちの意志だけだった。
戦うか、どうか。
「……」
春太が無言で何もしない間、触手は容赦なく春太に向かってくる。
「春太!」
アルナは春太を案じて、右上腕部に盾を生成する。
盾は円盤状で、中央に手甲と同じ、赤い宝玉がついている。
春太は反射的に、初弾の直線的な動きをする触手を盾で落とす。
すぐに、第二第三の触手が迫ってくる。
「う……うおおおぉぉぉ!」
春太は吠えた。
春太は闘争本能が刺激されて、戦いの構えをとる。
そこに茜への怒りの感情はない。
生存本能が体を働かせただけだ。
春太の心には、やるせなさだけが残っていた。
春太は、アルナが先ほど工場内でタイマツを灯したように、両手のひらに炎を生成する。
両腕を振り回し、襲い来る第二第三の触手を焼き切る。
直接手に触れずに攻撃することで、粘液の付着も許さない。
これは全て、春太が直感的にやってみたことだ。
できると知っていてやったことではない。
できると思ってやったことだ。
「すごい……」
アルナは感嘆の声を漏らす。
「たかが数本防いだからってどうなるのさ!」
アカマは、春太から三〇メートルの地点で突進を止める。
そして、今までより増して触手を飛ばす。一度に、一〇本単位で。
それらは、緩やかな曲線を描きながら、照準を合わせた春太の体に誘導して飛んでいく。
「アハハ! 茜の両親が死ぬ姿っていったら最高だったんだよ?」
アカマが叫びながら攻撃するのに対して、春太は無言で攻撃を防ぐ。
正面は炎を携えた両手で、背面は「太陽の翼」で。
アカマは次に、関節を外した両腕を、鎖のように振り回してから飛ばす。
両腕は関節の接続と分解を繰り返して進むことで、不規則な軌道を描く。
「ウィンナーをパキッと折るみたいに、中から肉汁が溢れてきてね!
今では警察が綺麗に片付けて、あの家には肉片すら残ってないだろうけどね?」
アカマの狂った言葉は無視して、春太はアカマの両腕を両手の炎で燃やしにいく。
不自然な軌道によって、春太の予測と違う方向から両腕は飛んでくる。
春太は、かろうじてそれをかわすしかなかった。
「あんたも茜の家に来たんだろ?
夕方茜を寝かせたままにしておいて、アタシ独りで出かけたとき、南風、アンタを見かけたぜ。
見て欲しかったなぁ。
人間がグチャグチャにされる姿なんて、この国でなかなか見れないだろ?」
かわされたアカマの両腕は、再び春太を狙って追いかける。
正面、側面、背面――どの角度から狙うか、春太に読ませない。
春太は「太陽の翼」を複雑な角度に、断続的に出力し、三次元的な軌道を描いて飛翔するとともに、停止、方向転換を繰り返す。
この動きによって、何とかアカマの腕と触手の攻撃をかわし続ける。
しかし、アカマの両腕に踊らせられ、翻弄され、まともな体勢で戦えない状況にかわりはない。
「しょうがないなぁ……そのかわり、アンタをグチャグチャにしてやるよ!」
アカマは全身に力を込め、オーラを纏う。
そのオーラを、後ろにつけた太く長い尻尾に集める。
これまで地面につけて引きずっていた尻尾が、大きく反り返る。
頭頂部よりも高く持ち上がる。
春太は、触手や両腕の攻撃を防御するのに手一杯で、ぎりぎりまで尻尾の動きに気づけなかった。
春太が、尻尾の動きを捉えた時には、もう遅かった。
射出。
アカマディアボリクが全身の力をふりしぼり、後ろにつけた巨大な尻尾を振り回す。
それは、先ほどの時速二〇〇キロよりも、確実に速かった。
尻尾は超高速で伸び、春太の頭部をめがけ飛ぶ。
春太は防御の姿勢を作れないまま、頭部を傾けてよけようとする。
その瞬間。
巨大な尻尾の先端が、突然三分割される。
枝分かれした尻尾は、それぞれ左右に分かれて飛んでいく。
かわしたと思った春太めがけて、分割されたうちの一方が直進する。
「うぅ!」
命中。
枝分かれした尻尾は、春太の頭部――こめかみをかすめる。
傷は深くなかったものの、高速で重量のある物体が命中した衝撃で、春太は軽い脳しんとうを引き起こす。
一瞬、制御の全くきかない状態になった春太の体は、「太陽の翼」を出すことができなくなり、空中から真っ逆さまに落ちる。
「アンタもあいつらみたいに、パキッと折って、引きちぎってやるよ!」
落下する春太を、アカマの触手たちが追撃する。
そのとき、春太の両手がかすかに動く。
そして再び、手のひらに炎を灯し、そして……。
炎上。
勢いよく燃え広がる。
「……アイツ、正気か? 自分で自分を燃やしやがった!」
春太の超人の肉体が、轟々と燃えていく。
口の中に炎が入るのもかまわず、春太は口を開く。
「これが一番手っ取り早い防御だと、今ようやく気付いたんだ」
迫り来る触手たち。
春太はそれを、手を仰ぐようにして振り回すだけで、簡単に消滅させる。
「頭にぶつけてくれてありがとう。
おかげで目が覚めたよ」
「な、なんだ……頭がおかしくなったのか?」
アカマは怯えながら触手を繰り返し飛ばす。
ことごとく春太に燃やされる。
「さっきから聞いていれば汚らしい言葉ばかり。
そんな汚らしい言葉を、茜さんの体で言うな!
君の吐き気がする言葉のせいで、『あの日』の光景がずっとフラッシュバックしてたんだ。
思考も曖昧だったし、あのままなら、僕はまた気を失っていた。
そんなことになったら、僕は君の言うとおり、何もできず引きちぎられただろう。
だから、あの攻撃をわざと喰らって、目を覚ましたんだよ」
「嘘つくな! 調子にのってんじゃねえ!」
アカマは触手と両腕を同時に飛ばす。
炎を強めることで、飛んでくる触手は春太の体に触れる前に完全に焼失した。
また、春太は「太陽の翼」を完全に切り、急降下する。
これまで不規則に飛ばしてたアカマの両腕も、急降下する春太を追うため、どうしても直線的に追尾するしかなくなる。
アカマは春太の落下点を予測し、再び尻尾を振り回して飛ばす。
新幹線の最高速度並には出ていたはずである。
春太はそれを、「太陽の翼」の急加速だけでかわしきる。
急落下から、ほぼ九〇度の角度で曲がり、アカマめがけて直進したのだ。
先ほどは命中した尻尾の枝分かれも、かすりもしなかった。
「太陽の翼」は全身の炎と完全に同化し、それが加速エネルギーを増大させたようだ。
全身が燃えさかり、痛みと酸素を取り込むことのできない苦しみは、アルナの治癒能力によってカバーしていた。
しかし、けして苦痛がないわけでない。
自分を傷つける諸刃の剣には変わりない。
さっきのダメージと合わせて、吐き気と頭痛がする。
それでも春太は、心頭滅却して意識を集中する。
跳び蹴りの構えをとり、その姿勢のまま飛翔する。
背中からは「太陽の翼」が大きく広がり、両足がクチバシを形作るように重なり合う。
ちょうどそれは、幾度となく焼け死ぬものの、その灰の中から何度でもよみがえる、伝説の鳥に似ていた。
「デエエエェェェイ!」
一直線に、巨大な怪人の懐に飛び込む。
アカマの触手の弾幕は効かない。
アカマの両腕と尻尾は伸びすぎて防御するには間に合わない。
命中は間違いない。
勝った。
そのとき、春太の耳に声が聞こえた。
いや、春太は聞こえたように感じた。
それは、短い時の中で聞こえるはずのない、アカマと山村茜の会話だった。
「体をまたアンタに預けるよ……。
これでよかったんだよな。茜」
「ありがとうアカマ……そしてごめんなさい。
あなたが道連れになる理由なんて、なかったのに」
「なに、別にいいのさ。
どうせアタシなんて、作り物の命だったんだ。
誰かのために命を使うことが、こんなに気分のいいことだなんて、思っていなかった。
そういう意味じゃ、こっちがアンタに感謝したいくらいなんだよ。
茜……辛い罪を背負わせちまって、ゴメンな……」
「いいよ、もう……。
あたしも、嬉しかった。
あんなに腹を割って話せたの、あんたが初めてだったからさ。
まるで、親友みたいだったよ。あたしたち」
春太には何故か、融合しているはずの二人の姿が見えた。
それは、いつも学校で見ていた茜と、どこにでもいる普通の少女の姿だった。
山村茜が、春太の方を向く。そして口を開く。
「南風君、ありがとう。
ごめんなさい……。
さようなら」
教室で会話していた、いつもの、綺麗な茜の声だった。
閃光。
命中とともに春太の足先から閃光が走る。
春太の蹴りは怪人の胸部を貫き、そのまま巨大な穴を空けて、春太は怪人の体を通過する。
春太が通り過ぎたのち、怪人の体内から光が四方八方に伸びる。
春太が着地したと同時に、怪人の体は爆発、炎上する。
春太がオーラを放出すると、体中の炎が全て消火される。
ディヴァインのオーラの力によって、自由に点火・消火できるようだ。
そのことに気づくと、春太は怪人の方へ向き直り、そして怪人のもとへ急ぐ。
怪人は仰向けに倒れて炎上している。
体は完全に粉砕されておらず、炎の中にさっきまでの怪物のシルエットが見えた。
春太は、怪人の巨大な体を、隅から隅まで迅速に消火していく。
「間に合え、間に合え、間に合え!」
春太は心に念じながら、怪人の体を丹念に消火していく。
消火が完了すると、黒こげになり、胸にぽっかりと穴の空いた怪人の体が露わになる。
アルナの治癒能力を総動員して、怪人の中央に空いた大きな穴も修復していく。
「もう……無駄よ」
それは茜のかすかな声だった。
「嫌だ! 死ぬな、死ぬな死ぬな!」
春太は両手を重ねて茜の穴の空いた胸に力を注ぎ込む。
「無理よ……。あなたはディアボリクのエネルギーの源になってた水晶を完全に破壊してしまった。
ディアボリクはもう死ぬしかないし、オブセストでもあるあたしも死ぬしかない……」
茜は、春太よりもディヴァインたちのことについて詳しかった。
その茜が言うのだから、信憑性がある。
「アルナ……」
春太はアルナにも確認する。
「無理よ春太。
ディアボリクも、その子もこれから死ぬの」
「アルナは言ってたよね? 『作る』ことができるって!
アルナの力でディアボリクの水晶を作ってよ!」
「ごめんね……今の私の力では、そこまではできないの」
「そんな……」
その絶望感が、春太からオーラを発する気力を削ぎ、オーラは減少していく。
「自分には治せる」という自信が持てなければ、治癒能力は発動しない。発動できない。
ついに両手からオーラが全く出なくなる。
春太は悲しみで胸がいっぱいになり、その場にうずくまる。
胸のぽっかり空いた怪人――茜の体に、春太はしがみつく。
それを見た茜は、優しい声で春太に話しかける。
「でもね、ディアボリクもあたしに時間を用意してくれたの。
エネルギー源がなくても、少しの間は体力が持つみたい。
だから……私の話、また聞いてくれる?」
春太は、無言でうなずく。
「あたしがあの子を知ったのは、今年の始業式だった。
偶然席が近くて、ときどき授業のグループ学習で一緒になったっけ。
小六にもなって特撮ヒーローの人形なんて持ってて、格好悪いって思った。
でも、いつも周りに友達がいて、ニコニコしているのがうらやましかった。
あたしはこの一年間、心の底から笑っていたことなんて、一度もなかったから」
春太は、「あの子」とは自分のことなんだと思いながら、黙って聞いた。
話そうと思ったら、急に恥ずかしくなったのだろうと思った。
「ある日の体育の時間、男子が鉄棒に頭をおもいきしぶつけてね、額から血が沢山出たの。
それを見たあの子は、その場で失神して動けなくなっちゃった。
その子だって男子なのに、『ちょっと気が弱いんじゃない?』って、友希に言ってみたの。
そしたら友希が教えてくれたの。
その子の両親が亡くなっていること。
その子のトラウマのこと。
その子が人形を大事にしてる理由。
あたし、全然見方が変わった。
あの子は、あたしと同じか、それ以上に酷い目に遭ってたんだ。
それでもあの子は、精一杯、今を楽しく生きようとしていたんだって。
それがたぶん、あたしがあの子を気になり出したときなんだと思う。
……ははは、あたしは、そんな風に強くなれなかったんだけどね」
春太は、茜が自虐気味になっているのを見かねて、彼女を茶化してみる。
春太はもう、悲しい会話をしたくなかった。
精一杯、悲しい気持ちを抑え込んで、学校で会話するようなイントネーションを心がける。
「君が気になった『あの子』って、ひょっとして僕のこと?」
「そ、そそそんな訳ないでしょう?」
「でもさっき、僕のこと好きって言ってたよね?」
「さ、さあどうだろう……? 南風君の聞き間違いだったんじゃない?」
それにね、あたしは友希たちと話してても、何も本音を言えなかったの。
胸についたアザが疼くことだって、一度も話せなかった。
そんなあたしが何言ったって、本音かどうかなんて、分からないでしょう?」
「嫌いだよそんな人。
素直な人の方がいいな」
「じゃあ、あたしも南風君のこと嫌い」
「そっか……ははっ」
「ふふ……」
自然に、何故だか二人とも笑えていた。
茜の調子が出てきたようで、春太はほっとした。
「友希には何も言ってあげられなかったな……友希、ホントごめんね」
茜は空に向かって謝った。
そして春太に向き直る。
「でも、あたしのことは友希には内緒だよ?」
「分かってるさ。誰にも、何も言わないよ」
「そ……良かった……」
そう言って、茜はまた空を見上げる。
茜には、体中から力が抜けるのが分かった。
怪人の紫色の皮膚やプロテクターが、少しずつ崩れて、粉になっていく。
粉は月の光を浴びながら、風にあおられ舞い上がって消えていく。
「ねえ、もう一回、茜って呼んで。
母さんがつけてくれた名前だから、好きなんだ……」
春太も、茜の死期が近いことを理解した。
「分かったよ、茜……。
何も心配しなくていいよ。
何も考えなくていい。
ゆっくり休んでよ、茜……。
友希たちのことは、任せてよ」
「うん……ありがとう、春太君……」
春太には、怪人の全身が弛緩するのが分かった。
怪人の体が紫色の光に包まれていく。
怪人の体を覆うものが全て崩れて、粉になって空に消えていく。
怪人の体から人魂のようなものが出る。
人魂は二つに分裂し、一方は天高く飛んで、途中でフッと消える。
もう一方は宙をゆっくりと舞ったあと、春太たち超人の体に入り込んでいく。
粉の中から、山村茜の体が姿を現した。
中央に空いたはずの穴が修復され、彼女の体には傷一つなかった。
そして、今日最初に会ったときの服装だった。
ちゃんと、バラのシュシュで後ろ髪を束ねていた。
まぶたを閉じ、嬉しそうな笑みを浮かべて、顔が硬直していた。
春太は超人の姿を解除し、人間の素手で茜の頬をなでる。
とても冷たかった。
春太は、茜の笑った表情を見て、茜の生存を少し期待してしまっていた。
生身の肌から伝わる冷たさで、春太はようやく茜の死を受け入れられた。
「ディアボリクが最後の力を使って、この子の姿だけは綺麗に治したんだね。
この子に取り憑いて人を襲ったディアボリクの、せめてもの情けだったんだろうね」
霊体となって漂うアルナが、春太の耳元でそっと話しかけた。
春太は、ただじっと茜の遺体を見つめる。
茜を見つめたまま、春太はアルナに話しかける。
「アルナ、なるべく目立たず茜の遺体を移動したい。どうすればいい?
こんなところにこのまま寝かせちゃマズいよね。
僕は、茜の家に連れていくのがいいと思う」
春太があまりに冷静な判断をするので、アルナは戸惑った。
でも、茜の遺体を真剣に見つめる春太を見て、アルナは自分の戸惑いを隠すことを決めた。
「わたしが春太の肩を掴んで春太を宙に浮かせるね。
春太はその子をしっかり抱きかかえて。
超人化してなければ、わたしの羽は見えないし、周囲を照らしたりしないから、目立たないはずよ」
言われたとおり、春太は茜を両腕でしっかり抱きかかえる。
茜の全身の冷たさと、女の子の体の軽さを感じながら、春太は固い表情を変えずに、茜の洋服にシワができるくらい、強く両手で茜の体を握り締める。
アルナはその春太の様子を見ながら、春太の両肩にそっと手をかけ、春太の体を浮かせる。
アルナも背中からお日さま色をした翼を広げ、春太の両肩をしっかりと握り締める。
翼を大きくはためかせ、春太の体を持ち上げ、月明かりのある夜空に向かって羽ばたいていく。
春太とアルナは、茜の家に着くまでの間、ただ一言も話さなかった。
春太は茜の遺体を、アルナは遺体を見つめる春太を、ただ見続けるのだった。
× ×
山村茜の家は、夕方来た時と変わらなかった。
アルナはふわっと着陸し、春太の肩から手を離す。
アルナは、家の扉に手をかけて、工場の時のように通り抜けようとしたとき、春太の抱える茜の遺体にようやく気が回った。
「そうだよね。遺体はすり抜けられないもんね……」
アルナは家の鍵穴に右手をかざして、鍵を形成する。
鍵は鍵穴に差し込まれた状態で出現して、アルナはそのまま鍵を回し、扉を開ける。
アルナは振り返り春太を先に家に入れてあげる。
春太は、変わらず無表情だった。
春太は家に入ると、まず玄関から廊下にかけて見渡す。
超人になった影響だろうか、春太の視界では、明かりをつけなくても鮮明に見える。
酷い有様だった。
肉片は綺麗に片付けられていたが、血は壁にびっちりとこびりついて、そのまま凝固していた。においも強烈だった。
春太は茜の部屋を探し、とりあえず真っ直ぐ進む。
扉を開けると、そこは食堂だった。
ここも血痕が至る所にこびりつき、食器やテーブルなどがメチャメチャに壊され、散乱していた。
春太は手前にある台所で、生ゴミを捨てる大きなゴミ箱を見つける。
白いケーキが、グチャグチャに叩きつけられていた。
少し前に歩いてみると、何か柔らかいものを踏んづける。
足を上げて見てみると、それは破れた布きれだった。
春太は、茜のバラのシュシュだと気付いた。
春太は茜をゆっくりと降ろす。
そして、バラバラになった布きれをかき集めて、両手にすくい取る。
「アルナ……できるか?」
アルナは春太の意図を分かってくれた。
アルナはこくりと頷いて、春太の両手に自分の両手をかぶせる。
アルナの手のひらから光が発せられ、二人の両手の内側から光が漏れる。
アルナがかぶせた手を外すと、バラのシュシュが元ある形と取り戻していた。
それを春太は、冷え切っている茜の手に握らせる。
春太は少し、茜の顔を見やる。
茜の顔は、優しい笑顔のままだった。
春太には、さっきより安らいでいるように感じられた。
いや、感じたかった。
「こんなこと意味があることか分からないけれど……ありがとう、アルナ」
アルナは優しい顔を浮かべて、無言で小さく頷いた。
また茜の体を持ち上げ、次の部屋を探しに行く。
× ×
四つ目に調べた部屋が、茜の部屋だった。
勉強机の脇に赤いランドセルが置いてあって、すぐに分かった。
部屋は小さかったが、綺麗に整頓されていて、とても清潔感があった。
理想的な部屋だろう。
でも、春太には、それが気味悪かった。
乱雑な他の部屋と比べて、あまりにこの部屋は綺麗すぎた。
床のカーペットには、髪の毛一つ落ちていない。
対照的すぎて、何かの当てつけみたいで、他の汚い部屋より、この部屋の方が異彩を放って、違和感のあるもののように、春太には感じ取れた。
茜は、相当神経質になっていたんだ……。
追い詰められていたんだ……。
春太は一旦、茜の遺体を床に寝かせる。
綺麗にベッドに敷かれた掛け布団をたたむ。
ベッドにかけられたシーツにシワがないのを確認すると、春太はベッドの上に茜をゆっくりと寝かしつける。
茜は、まだ満足そうな顔をしていてくれた。
そして春太は、さっきたたんだ掛け布団を綺麗にかぶせようとする。
するとその時、春太はベッドの脇にある小さな棚が目に入る。
枕のすぐそばにあるその棚の上には、写真スタンドが置いてあった。
二つあった。
一つは、小さな茜と、父さんと母さんの写真だった。
茜の容姿がかなり幼く、ようやく立って歩けるようになった感じだったので、そこに写っている母さんは茜の前の母さんだと、春太は推測できた。
みんな楽しそうな顔をして笑っていた。
二つ目の写真は、今と変わらない茜と、父さんと母さんの写真だった。
そこに写っているのは、前の母さんが死んでから、茜の父さんが再婚した女性だろう。
春太はその写真を手にとってよく見る。
春太は、愕然とした。
こっちも、みんな嬉しそうに笑っていたのだ。
作り笑顔じゃない、こころから幸せそうに笑みを浮かべてると、春太には思えた。
そしてその二つの写真立ては、ほこりも曇りも一つもない、綺麗なままでずっとここに並べてあったのだ。
茜が綺麗に手入れをしていたとしか、考えられなかった。
茜は、二つの写真を大事そうに枕元に置いて、時折これらを眺めていたのだろう。
春太は、ゆっくりと写真立てを元の場所に戻す。
こういう風にしてたのに、どうしてさ……?
どうしてもののはずみで、殺しちゃったりするんだよ……?
血は繋がらなくても、大事な人だって、最初から分かってたんだよね……?
取り繕っていた春太の無表情が、歯ぎしりで一瞬崩れた。
でも、すぐに元の表情に戻す。
春太は居たたまれなくなり、そそくさと茜の部屋から立ち去る。
「アルナ、指紋とかって消せるかな?」
「大丈夫、簡単だよ」
アルナは部屋に戻って、目から不思議な輝きを放ち茜の部屋を照らす。
様々な痕跡が識別され、その中から、春太のものを絞り出す。
春太の痕跡を発見したところに手をかざし、光を放つ。
特殊なレーザー光のようなものだった。
春太の指紋、皮膚の一部などを識別し、その部分だけが瞬時に加熱され、蒸発する。
そして瞬時に放熱し、他の部分に熱が伝わるのを防ぐ。布類や、茜の体などの発火を防ぐ。
そういった処理を、アルナは他の部屋にも施して、春太がこの家に来た痕跡を全て消した。
最後に春太は、玄関の鍵をアルナに閉め直してもらい、山村家を出る。
春太は、さっきまでの無表情のままで、空を見あげる。
真っ暗闇だった夜空の下から、少しだけ、日の光がのぞけた。
春太は、何の感慨もなくそれをしばらく見つめた。
「日が昇ってきたら、瑠璃子さんも起きちゃう。
瑠璃子さんが気付かないうちに、早めに戻らなきゃ」
春太は感傷を捨てて、今自分がすべきことを、合理的に考えることに徹する。
そして、たとえそれが、心身ともに消耗し、曖昧な意識で考えたことだとしても、その行動に徹する。
おぼつかない足取りで、春太は自分の家路についた。
アルナは春太の様子を見て、ただゆっくりと、無言で後ろからついて行くしかなかった。
× ×
春太はなんとか自分の家に着いた。
扉を開ける音を出すのも避けたいと思い、疲労困憊でも手のひらに意識を集中して、通り抜ける能力を発動して家にあがった。
瑠璃子がまだ起きていないことを確認して、そのまま静かに階段を上がる。
自分の部屋に入るのにも、周りに誰もいないことを確認してから、通り抜けの能力を使って入る。
すぐ目の前にある、自分のベッドの上に腰掛ける。
本当のところは、今すぐにでも寝てしまいたい。
でも春太は、今寝てしまうと、登校時間に起きる自信がなかった。
瑠璃子さんが起きるまで我慢しよう。
登校時間にずっと寝てたら、瑠璃子さんの登校まで遅れちゃう。
その想いだけが、睡魔と戦う春太の唯一の支えだった。
おぼろげな意識のなかで、春太は窓の外の景色を見つめる。
いつの間にか、空は白んできていた。
「寒い……」
春太はそう呟いて、掛け布団を肩にかけようとする。
でも、腕が重くて、上手く持ち上がらない。
そこにスッと、腕が伸びて、掛け布団を持ち上げてくれる。
アルナだ。
アルナは春太の肩に布団を掛けて、春太の体を布団でくるんでくれた。
アルナは春太の目を見て、静かに笑う。
春太はそれを見て、さっきまでの固い表情を少し緩ませ、視線を落とした。
× ×
何分経ったか分からないが、扉の開く音がした。
瑠璃子が起きたのだ。
春太は壁に掛けた時計を見る。
まだ六時にもなってなかった。
「瑠璃子さん」
春太は疲労でかすれた声を、瑠璃子のいる、扉の向こうへ向ける。
「どうしたの? 春ちゃん」
瑠璃子は、春太の小さな声にも、すぐ反応してくれた。
ドア越しの会話が始まる。
「今日、学校休むよ……」
「体の調子、まだ悪い?」
「うん……」
「分かったわ。ゆっくり休みなさい。
ごはんは大丈夫? 昨日から食べてないけど」
「食欲ない……いらない」
二食続けて食べないのはさすがにおかしいと、瑠璃子は春太の異変に気付く。
でも、それを問いただすことは、瑠璃子はしなかった。
「分かったわ。
今日はお姉さんも休む」
「えっ?」
「こんな春ちゃん、放っとけないもん。
しばらく部屋で大人しくして、できる限り寝てなさい。
お腹が空いたら、いつでもお姉さんに言いなさい。
いっぱいご飯用意してあげるから」
「……ありがとう、瑠璃子さん」
「どういたしまして」
春太は、ドア越しでも瑠璃子の笑顔を感じ取ることができた。
瑠璃子の頼もしさに、とても安心した。
「僕はまた眠るね……おやすみ」
「うん、おやすみ。春ちゃん」
瑠璃子が階段を下りる音がする。
おそらく、いつも通り朝食を作るのだろう。
瑠璃子は、いつも規則正しく、朝早くからご飯の支度をしてくれていた。
春太は、そのことを分かっていたつもりでいた。
でも、頭で分かっていただけだった。
こんな朝早くから、寒くても、暑くても、毎日毎日、遅刻ギリギリで起きる自分のために、文句一つ言わずに朝ご飯を用意してくれていた。
そのことを、ようやく春太は想像できるようになった。
「ありがとう……瑠璃子さん」
春太は小さく呟いた。
布団にくるまった体は、とたんに重く感じた。
「はははっ、疲れたよ。アルナ」
春太は瑠璃子に聞こえないよう、テレパシーでアルナに話しかける。
「お疲れ様。春太」
「もう寝るよ。アルナは、寝ないの?」
春太は、布団を巻いたままベッドの上で横になる。
「ディヴァインは寝なくても大丈夫なんだよ。春太」
するとアルナは、春太の頭を持ち上げ、自分の膝に乗せる。
幽霊のような存在のアルナには、不思議だが、確かに人の感触がある。温かさがある。
それは、オブセストである南風春太にしか感じられないのかもしれない。
春太は、アルナの柔らかさと温かさに触れて、体の緊張が解ける思いがする。
春太は仰向けになり、アルナの顔を見上げる。
初めての感覚に、どうしていいのか分からず、春太はきょとんとするしかない。
アルナは春太の顔を見下ろして、優しく、けれど憐れむような顔を作る。
そして、そっと告げる。
「もう、泣いてもいいんだよ。春太」
その言葉で、春太の心の緊張も解けた。
春太はこれまで動かさなかった表情をクシャクシャにする。
瞳はすぐに涙でいっぱいになった。程なくして大粒の涙がこぼれ落ちる。
瑠璃子が家にいる手前、声を上げることはできないと、春太は我慢していたが、どうしても小さな嗚咽だけは漏れてしまう。
泣いて、泣いて、泣いて、ただひたすらテレパシーでアルナに叫び続ける。
「どうして死んでから遺体を綺麗に治すんだよ! 馬鹿ディアボリク!
茜が死ぬ前に治してよ!
どうして茜の言うことなんか聞くんだ! 聞くんだ!」
いつの間にか春太は、山村茜に言われてから、彼女のことを「茜」と呼ぶことにしていた。
そのほうが、友達らしいと思えたのだろう。
山村茜を、より近い、より大切なひととして感じたかった。
春太は、自分にとって大切なものを増やしたかった。
それが、記憶を失った自分の心を埋めると、本能的に感じ取っていたのだろう。
「どうして茜は死んじゃうんだ! 死にたがるんだ!
ばかばか馬鹿! 馬鹿だ! 弱虫だ! 茜は弱虫だ!
どうしてああいう風に考えるんだよ! 分からないよ! 君のことなんか絶対! 一生! わかんないよ!」
一〇分以上泣いた。
涙の最後の一滴が落ちて、春太は落ち着く。
呼吸を整えて、再びアルナにテレパシーを送る。
「……守りたかった。 茜を守りたかった!
ディアボリクに取り憑かれる前に、こんなことになる前に、茜を守りたかった!」
アルナは、黙って春太のテレパシーを聞き、春太に眼差しを向けながら、頷く。
「茜は、ディアボリクは悪くないって言った。
でも、人の心が荒んでいるときに、力を与えて、酷いことをさせているのは、間違いなくディアボリクなんだよ。
僕はディアボリクを許さない」
それは、春太の一方的な断定なのだろう。
ディアボリクの真意を問いただしたわけでもない、春太の憶測に過ぎない。
でも、そう言う理論付けをして、明確な敵を作らないと、春太は怒りの矛先を、どこに向ければいいのか分からなかった。
春太には、こう考えるしかなかった。
「アルナ、僕は強くなる。
ディアボリクを倒せる、ディヴァインになるんだ。
弱い人を守る、正義の味方になるんだ。
そして、『あの事件』のディアボリクも、僕が倒すんだ」
それを聞いてアルナが、ゆっくりと春太の頭の上に手を乗せ、優しく春太の髪を撫でる。
「やれるよ。春太はヒーローだからね」
アルナがそう言うと、春太は嬉しそうな顔をして、瞳を閉じた。
一分も経たずに、春太は寝息をたてる。
アルナは眠る春太の髪を撫でながら、そっと呟く。
「春太、あなたは強い子です。
悲しみを乗り越えて、もっと強い子になってください。
人間にできないことを超える……それが超人です。
悲しみを、超えてください」
そう言い終わると、春太を撫でるアルナの手から、フッと力が抜ける。
アルナは上半身をフラフラさせたあと、頭をゆっくりとおろす。
春太とおでことおでこを合わせながら、静かな寝息で眠る。
ディヴァインが眠らないなんてことは、アルナの嘘だった。
そして、気遣いだった。
カーテンの開いた窓からは日の光が差し込んで来て、鳥のさえずりも聞こえながら、二人は今日一日の疲れを癒すため、いつまでも眠った。
× ×
春太が眠ってから、しばらくしたあとだった。
「分かったよ。姉さん」
桐生秋彦は受話器をおろす。
瑠璃子から、今日は春太と瑠璃子が登校しないことを伝えられた。
桐生家では、瑠璃子のことは自由にさせていたから、学校を休むことを両親に伝える必要はないな、と秋彦は思った。
スタスタと冷たい廊下を歩き、秋彦は食堂に向かう。
両親とともに食事をとる。
特に、会話はない。
家族三人で、黙々と食事をとりつつニュースを見ている。
テレビニュースは、山村茜が怪人となって街を襲った昨日の事件について報道している。
「怖いわね」
秋彦の母が呟く。
「そうだな、怖いな」
秋彦の父が、短く返す。
「秋彦、学校が終わったら、寄り道せずにすぐ帰るのよ」
「なあに秋彦のことだ。言われなくても分かってるだろう。なあ秋彦?」
秋彦は、両親の会話を全く聞かず、険しい表情でテレビに釘付けになっていた。
おびただしい血痕が繁華街中にこびりついている。
山村茜の家と、そして、「あの事件」を秋彦は連想した。
春太の両親がいなくなった、あの事件。
秋彦は、あの事件を、春太よりもよく記憶していた。
秋彦は、断片的に記憶を呼び覚ましていく。
「春太……大丈夫か?」
秋彦は両親にも気付かれないくらいの小さな声で、そう呟いた。
秋彦は珍しく、携帯電話をいじりながら、独り登校する。
あのことがあるから、絶対に春太を家から出さないでね。
秋彦は、瑠璃子に送るメールの文面を考えていた。
考えれば考えるほど、過去の惨劇の記憶が呼び起こされていく。
ボタンを触る親指に、自然に力がこもる。
春太を守りたい、そう思う。
春太をこの事件に関わらせたくない、そう願う。
一刻も早くこの事件が解決して欲しい、そう祈る。
「その気持ち、本当ですか?」
春太のことで頭が一杯になっているなか、頭に、直接響く声が聞こえる。
少女の声だ。
秋彦は辺りを見渡す。どこにもそれらしき人影を見つけられない。
気のせいと思い、また学校に向かって歩き始める。
「申し訳ありません。姿を出し忘れておりました。私はここにおります」
秋彦は確かに背後から声をかけられているのを感じた。
頭の中に声が響くのに、何故背後にいると分かったのかは、秋彦にも分からなかった。
ともかく秋彦は、背後にいる少女に向き直った。
少女は宙を浮いている。
秋彦には、浮いているつま先だけが見えた。
秋彦は、もう少し上を見てみる。
しかし、秋彦には、まだ全容がわからない。
少女は姿を出し忘れていたと詫びていたが、秋彦が振り向いても、まだ全容を現していない。
無色透明の、少女の輪郭だけが姿を現している。
少女は少女であり、少女のような幽霊であり、少女のような幽霊のようなものだった。
少女は続けた。
「私はアルマと申します。
善なる精霊――ディヴァインです。
桐生秋彦。あなたの心は、揺るぎませんか?」
(第一話 了)
※第二話に続きます。
感想、お待ちしております。
結構な長編を考えているため、皆様の応援がないと、多分筆者はダレて書かなくなるのではないかと思います。
根性なしですが、よろしくお願いしますm(_ _)m