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1時間半ほど走った後で、トイレ休憩をとることになった。入ったサービスエリアで車を降りると、その空気の冷たさに背筋が伸びる。
東京もだいぶ秋めいてきたものの、まだこの引き締まる感じはなくて、智也は薄い上着で着てしまったことを後悔した。
「けっこう寒いな。失敗したかも」
どうやら黒川も同じらしい。ホットコーヒーを飲みながら店内を冷やかしていると、「お菓子でも買うか」と黒川が言う。
「お菓子ならチョコとかスナックとか飴とかガムとか、いろいろ持ってきました」
「あのでかい荷物、朝飯だけじゃなくてお菓子がどっさりなのかよ! 子供の遠足みたいだ」
「……おばあちゃんと同じこと言わないでください。そういうこと言うと分けてあげませんよ」
「だからけなしてないって。すぐ拗ねるんだから」
「どうせ子供っぽいです」
祖母からはいつまでたっても子供扱いされるのには慣れていたが、黒川まで同じ態度をとるのでちょっと面白くなかった。智也は黒川を残して先へ車へと戻る。もちろん、黒川が苦笑しながら後を付いてくるのは容易に想像できたけれど。
冷たい空気で、自然と足が速まる。車内へ入ろうとドアに手をかけた時に、やっと気づく。
鍵がかかっている。
それは、当然だ。車から離れるのだから、ロックしていくのが常識であり、そして車の持ち主も運転手も黒川なのだから、鍵は黒川が持っているのだ。
振り返ると、少し離れたところから、やっぱり可笑しそうに智也を見ている。目が合った瞬間、バチンと音がしてロックが外れる。黒川が解除してくれたらしい。智也は黙って助手席に乗り込んだ。
すぐに黒川も運転席へ滑り込んでくる。
「灰色まみれで怖かったから、すぐ開けた」
「もう。見ないんじゃなかったんですか? 僕の色は」
「だって本気で不機嫌なのか気になったんだよ。ごめん」
灰色は不機嫌や疑いの類の感情を表す色だ。黒川から見て、それだけ灰色にまみれていたというのなら、心から不機嫌だったに違いない。
そのとき、携帯電話の音が鳴った。
「あ、僕のです」
智也が携帯電話を取り出し、モニターを確認すると『ジュン』の名前と電話番号が表示されている。
どうしようか……と、智也は戸惑った。けれど、黒川に「出なよ」と促され、通話ボタンを押した。
『トモ? ああ、俺。やっぱ今日さ、昼間だけ暇んなったんだわ。でもってさ、競輪でも行ってみねえ?』
慌てていたせいでハンズフリー状態で受けてしまったようだ。スピーカーからジュンの声が大きく響いてくる。これでは黒川に会話が丸聞こえ状態だ。しかし、戻し方がわからない。
「あ……ごめん。都合悪いって言ってたから、ちょっと出かけてて……」
『何時に帰ってくんの? 現地集合でいいんだけどさ』
「帰りは、遅くなると思うし……。今日はちょっと……」
今日は断らなければと思うのだが、断ってしまえば、もう来週はないかもしれないという不安が智也を優柔不断にさせる。それに、黒川が身じろぎしないで耳を澄ませているのがとても気になって仕方がない。
『え~? 戻ってこれねえのかよ。大した用じゃねえんだろ?なぁ、トモ~』
「……」
どうしよう、と思い、運転席の黒川をちらりと見た瞬間。
「智也。もう切れ」
突然、強い口調で黒川に言われ、胸が高鳴る。智也は慌てて、ジュンに何度も詫びながら断りを告げて電話を切った。
今までにない厳しい口調。そして、初めて呼び捨てにされた名前。
ほかの人間であれば、相手がどんな感情を抱いているかをすぐに読み取ることができるので、それに合わせた対処が取れるのだが、黒川相手だとそうはいかない。ずっと色を消しているからだ。
怒っているなら謝りたい。機嫌が悪いなら話しかけず様子をみたい。
じゃあ、わからないというときは、どうしたらいいのだろう。物心つく前から「見える」ことが当然だった智也は、初めての感覚に押しつぶされそうになった。
そんな智也をよそに、黒川は押し黙ったまま車を発進させる。車内という狭い空間は、いっきに重苦しい空気でいっぱいになった。黒川に話しかけたい気もするが、また気に障ったらと思うと、迂闊に声をかけられない。
「そんなに不安そうにするな。……フェアじゃないから見せてやるけど、笑うなよ」
智也の不安の色を見たのか、そうつぶやくと黒川が潤朱色に包まれた。潤朱色とは文字の通り潤みのある朱色で、朱をくすませ沈ませたなんとも言い難い色味だ。
潤朱色が見えると言うことは、つまり……
「え……黒川さんが、妬きもち?」
「見て確認したんなら、いちいち口に出すなよ。チッ。あー、もー、むかつく」
小さく舌打ちをしながら、心なしか黒川の顔は赤くなっているようだった。
「やっぱり怒ってますか」
「いや、怒ってない。むかつくだけ」
「……すみません」
「ばか、違うよ。青山君がむかつくわけじゃない。あのチャラ男がむかつくんだよ」
「ジュンですか」
「トモとかって気安く名前を呼ぶし。あげくに、帰ってこいだと? ふざけんな。誰が帰すかよ」
悪態をつきながら、黒川のまわりの潤朱色がますます濃くなっていく。嫉妬の感情が強くなった証拠だ。
「すぐ断らなくてすみませんでした。あの、よかったら黒川さんも僕のことトモって呼んでください」
「やだ」
「あ、はい」
「チャラ男と同じ呼び方するなんて、絶対やだ。智也って呼ばせろ」
「……はい」
「智也」
「はい?」
「さっそく呼んでみただけだ」
なんだかにやけてしまう。名前で呼ばれる、ただそれだけのことなのに、急に距離が縮まったような気がする。そして何故かとても照れる。
ジュンとは出会ったときにお互い名前だけしか名乗らなかったので、名前で呼び合っているだけなのだ。実は未だにジュンにフルネームを教えてもらっていない。なんとかして知りたいとまでは思わなかったというのは、やはり恋人を名乗るものとしては異常なのだろうか。
「俺のことも、基って呼べよ」
「えっ」
「そんな驚くことじゃないだろ」
「で、でも」
名前で呼べと言われて、はいそうですか、と簡単にできない。何故なら、とてつもなく恥ずかしいからだ。意識しすぎだろうか。
黒川の横顔を眺めながら、名前を呼ぶシュミレーションをしてみる。
さすがに年上なので、呼び捨てにはできないから、さん付けだろうか。とすれば、基さん?
「も……」
呼びかけようと試みたものの、あまりの羞恥に言いきれない。耳まで熱くなってくる。
「そんなことで照れるなよ。まずい。こっちが恥ずかしくなる」
恥ずかしいとは言いながらも、黒川はピンク色に包まれていく。
「!! ちょっと、黒川さん、なんでピンクになるんですか!」
「……いちいち口にしなくてよろしい。智也の恥ずかしまくる色と仕草に萌えたっていうか、無意識にエロいこと考えちゃったのかな。ははは」
話の内容よりも、智也と名前を呼び捨てされることに照れる。黒川のおかげで和やかな空気に戻ったところで、黒川から色が消えてゆく。
「自分の色を消すのと、相手の色を読まないっていうのは、似ているんだ。感覚で覚えていくしかないから、時間はかかるが、必ずできるようになる」
「でも、見えないって、けっこう不安ですね。さっき、そう思いました」
「みんなそうやって生きてる。すべてが見えないから生きていける、とも言えるな。智也は見えてしまうから、知らず知らず自分を抑え込んで相手に合わせてしまうから疲れるんだ。俺といるときは、もっと自分を出せばいい。どうしても不安なら色を見せるから」
色は消えていたけれど、黒川から伝わる温かい気持ちは消えなかった。