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しばらくして車は細長いビルの地下駐車場へと入っていった。
「着いたぞ」
とてもマンションには見えなかったが、ここが自宅なのだろうか。智也は黒川に促されるように車を降りて後に続いた。地下1階の駐車場からエレベーターに乗り込むと、各階のボタン脇に内科や歯科、耳鼻科に皮膚科などといった医療機関名が書かれていた。
「ここは医療ビルだから、いくつかの医院と物置部屋くらいしかないんだ」
説明しながら黒川が最上階の6階のボタンを押した。脇には【もえぎクリニック】とだけ書かれている。名前だけでは診療科目はわからないが、いったいどうしてクリニックへいくのだろうか。
「なんで病院に行く必要があるんですか。話をするんじゃないんですか」
「するさ、話。ほら、降りて」
6階に到着してエレベーターのドアは開いたものの、廊下は真っ暗だった。
「今日は日曜だからどの階も真っ暗だ。こっち来て」
黒川はポケットを探ると鍵を取出し、目の前の扉を開けた。窓が大きくとってあるせいで、電気をつけずとも中はとても明るかった。受付らしいカウンターは見当たらず、使い込まれた味のあるダークブラウンのソファセットに、ガラスの天板のセンターテーブル。バルーン式のスタイルカーテンはレースではなく麻を使用しているらしく陽光を優しく迎え入れていた。室内のいたるところに観葉植物が置かれ、病院というよりはまるで外国の屋敷のラウンジのような雰囲気だ。
物珍しそうにあたりを見回す智也と対照的に、勝手知ったるなんとやらという態度で黒川は照明をつけていく。明かりは蛍光灯ではなく、白熱灯だった。
「あの……」
「ああ、ここは俺のクリニックだ。どこで話してもいいんだが、どこが気に入るか見てみるか」
「え? 黒川さん、お医者さんなんですか?」
「そう。言ってなかったっけ」
「聞いてませんよ!」
「あ、そうか。免許だけ見せたんだったな。ここになら、ほら、そこに医師免許も掲示してあるだろ」
そう言われ指差された場所を見ると、デザインも大きさもばらばらの額絵に混じって賞状のような医師免許が掲げられていた。
「本当にお医者さんなんだ。え、でもここって何科? そういうの書いてなかったし……」
「まあまあ、俺のことはあとで話すよ。それより、俺は君の名前すら教えてもらってないんだけど?今日はとりあえずここでいいか。座ってて。紅茶は飲めるか?」
「はい、飲めます。えっと、僕の名前は、」
「だからちょっと待っててよ。焦らなくても時間はたっぷりある。……俺はだけど。ははは」
黒川は奥の部屋へと消えていき、手持無沙汰になった智也はソファに身体を沈めた。長い間、大切に手入れをされて使われてきた皮の風合いがとても気持ちがよかった。しばらくして、湯気のたちのぼるティーカップを持って黒川が戻ってきた。
「じゃあ、名前を聞いてもいいかな?」
紅茶をひとくちすすりながら、黒川が問いかける。
「僕は青山智也といいます」
「ふうん、やっぱりね」
「やっぱり? どういう意味ですか?」
「俺の名前は黒川基だ。何か気づいたことは?」
「え?」
智也はしばらく考えてみて、「あ、山と川ってことですか?」とひらめいたままを口にする。
「そっちか。君……青山君はいつもちょっとずれてる。まあ、そんなところもいいけど。色だよ。苗字に色が入っているんだよ」
言われてみれば、確かに青山には青、黒川には黒という色が入っている。だけど、そんなことを言ったら、世の中には苗字に色が入っている人なんてゴマンといるはずだ。それらの人すべてが、この力を有しているというのだろうか。
「さっき一緒にいた男は青山君とそういう仲なのか」
今度はまるで違う質問を投げかけられて返答に詰まったが、質問の意味を理解して顔が紅潮する。
「答えたくないなら言葉にしなくてもいいよ。色でわかるから」
「!」
「あれ、恋人じゃないのか? セフレとか? ……あ、ごめん。そんな沈まないで」
黒川は智也から出ている色を見て、ひとりで会話を続けてしまう。
「ジュンは……あ、さっき一緒にいた彼は恋人です」
「……そうか。彼のことが好きなのか」
「もちろんです。恋人ですから」
「俺はどうだ?」
「は?」
「俺はタイプじゃないかって聞いてるんだ。あのチャラ男とは見た目も内容も全然違うとは思うが」
「そんなことっ。いきなり言われても……」
黒川がソファを立ち智也の横にドカッと腰を下ろすと、前触れもなく肩を抱き耳元に顔を寄せた。
「俺のそばにいろよ」
「なっ、なに……」
そのあとは言葉がなく、黒川の腕に包まれたのがわかった。温かい。そうだ、人のぬくもりはこんなに温かいのだ。最近、忘れかけていたぬくもり。無意識にすがりつきそうになって、智也は我に返る。
「や、やめてください。僕にはちゃんと相手がいるし、そういうつもりでここへ呼んだのなら、僕はもう帰ります」
両腕で黒川の胸を押し返すようにして身体を離す。
「……すまない。君とそうなれたらいいと思っていることは本心だから隠さない。でも、きちんと話もしたい。ずっと探してきたんだ」
「探すって? 僕を?」
「正確には条件を満たす唯一の人、だな。どうやらそれが青山君らしいんだけど。なのに君にはもうパートナーがいるっていうんだから、まいったな」
速まる鼓動が治まらない智也がうつむいていると、「お茶を入れなおしてくるよ」と言って黒川が席をはずした。恋人がいるのに、ほかの男の腕に抱かれてどきどきしているなんて、しかも嫌じゃなかったという事実が智也の心を揺さぶっていた。
戻ってきた黒川は理科の実験道具のようなものを抱えていた。
「珈琲は飲める?」
智也は黙ったまま頷く。
「じゃあ、これで淹れようか。サイフォン。喫茶店とかで見たことない? 青山君は若いから、あまりこういうのがある喫茶店は行かないかな」
きっと気まずくなった雰囲気を解こうとしてくれたのであろう。黒川がアルコールランプに火を灯すと、次第にコポコポとした音がしてくる。挽いた珈琲を入れたガラスをセットすると、しばらくして湧いた湯が上へとのぼっていく様子はまるで実験のようだった。しばらくして黒川が珈琲と湯をかきまぜ始めると、部屋中に深い珈琲の香りがいきわたる。
「色や匂いって、すごいと思わないか。なんの言葉もなくても、人の心を動かせるんだ」
はっとして、黒川に目をやる。照れくさそうな、それでいて優しさのこもった目をしていた。
「ここへきて、気づいたことはないか」
「え…?」
「なんでもいい。あ、俺がスケベおやじだったとかっていうのは無しだ」
思わず笑ってしまった。でも、冷静になって当たりを見回しながら考えてみる。
優しい光を取り込んでる窓には薄いグリーンのバルーンカーテン、種類も背丈も様々な観葉植物たち。額絵のモチーフはアンティークの草花や森。床はミントのような色合いのリノリウム。それらがアイボリーに近い白の壁と天井にしっくりとなじんでいる。
「緑がいっぱい」
「そうだ。緑はどういうときに見える色だ?」
「安心とか寛ぎの……」
「さすがだな。じゃあ、感情を色で読み取れる俺たちが見ている色を、今度は逆に目に見える形で見せてみたらどうなると思うか?」
「……」
「さっき、あんなことをしてしまったから、今の青山君は心穏やかじゃなくなってしまったかもしれないが。ここへ来たばかりのときはどうだった?」
「落ち着くなって思ったけど、それは病院らしくない内装とか家具のせいかと思ってた。でも、緑。そう、緑がそうさせているのかも」
湯気をくゆらせながら、黒川がふたり分の珈琲をカップに注いだ。智也は、さっき自分に告白めいたことを言っておいて、その実、何を考えているのかわからない黒川の本心を探ろうと思ったのだがそのとき初めて気が付いた。
「黒川さんの色が……見えない」