prologue
3コーナーを過ぎたあたりから、それまで並んで疾走していた馬たちがまばらになっていくと同時に、観客席からの歓声が高まっていく。
青山 智也の横で馬券を握りしめて立ち上がっている男も例外ではなく、恋人の存在など無視してレースに釘付けになっていた。それ以前に、男が智也を恋人と認識しているかどうかは別の話だが。
男とは反対に、智也はレース場ではなく高揚した顔で「いけ! そのままいけ!」などと声を張り上げている恋人を見つめていた。レースが終わったら一緒に食事に行けるだろうか、今夜は一緒に過ごせるのだろうか、と考えながら。
智也は競馬に詳しくないのでよくはわからないが、今日のレースは秋の天皇賞という大きなものらしく、だだっ広い競馬場の観客席は人で埋め尽くされていた。競争馬たちが4コーナーをまわり、さらに歓声が響き渡る。智也はあまりの熱気と色の洪水に溺れそうになって、一瞬めまいがして目を瞑った。次に目を開けた瞬間、恋人が「おおおお」と雄叫びを上げながら、智也を抱きしめていた。
「ジュン。ど、どうしたの」
「トモ、すげえ! マジで当たったぜ! 信じられねー! おまえ、やっぱ神だわ!!」
秋も深まり肌寒い陽気になってきたというのに、大きく胸元を開いたシャツから肌を晒しているジュンに羽交い絞めにされる。太いチェーンネックレスを2本も重ねてつけているので、それが頬に当たって痛かった。
「よかったね。えっと、けっこう当たったの?」
「とても大きな声じゃ言えねえが、万馬券だ。がっぽりもうけさせてもらったぜ」
智也の好きな低い声が耳元で響いた。そのままジュンに肩を抱かれて観客席を後にする。窓口で換金手続きをしているジュンを少し離れたところから見つめていたが、帯のついた札束を3つ受け取っているのがわかった。口の端を釣り上げて智也のもとに戻ってきたジュンは素早く智也の着ていたコットンジャケットのポケットに何かを突っ込んだ。
「んじゃ、俺、これから仕事だから。また電話するわ! じゃあな!」
「え、ジュン!」
「んだよ。礼ならポケットに入れたよ。それでうまいもんでも食ってくれよ」
「そうじゃなくて。食事する時間も、もうないの?」
「……ねえな。仕事なんだよ。悪ぃ、急いでっからさ」
ジュンが紫色に包まれて見える。嘘をついている証拠。でも、追求することはしない。傷つくのは自分だとわかっているから。
「うん。仕事じゃ、仕方ないよね。連絡待ってる。」
「おう。じゃあ、またな!」
ジュンはそういうと、もう振り返りもせずにタクシーに乗り込み消えてしまった。取り残された智也はポケットの中身を確認すると握り丸められた1万円札が2枚出てきた。
お金なんて別に欲しくなかった。それよりも、一緒に夕飯を食べて、そのあと映画を見たりできるほうがずっとよかった。そんなことはジュンは望んでいないということは「見えて」いるけれど。
疲れた。早く帰ろう。智也は重い溜息と共に歩き出した。気分が落ち込んでいる時は危険だ。色の洪水に飲み込まれてしまう。この感覚は、普通の人にはわからないかもしれない。そもそも普通ってなんだろうか。智也だって超能力者でもなければ魔法使いでもない、ごく一般的な人間である。ただ、人より少しだけ「感じ取る」ことに敏感なだけ。ジュンが当てた馬券は、競馬などにまったく関心も経験もない智也が目星をつけた馬である。
智也は生命の宿るものの感情やエネルギーを色として読みとることができた。これを超能力と呼ぶ人がいるかもしれないが、智也はそうは思わない。予知や念力と違って、色を読むだけで何かが変えられるものではないからだ。先ほどのレースだって、勝ち馬を予知したのではない。多くの出走馬たちの中からいちばん光り輝く色を放っている馬を教えただけなのだ。いくらエネルギーに満ち溢れていても、世の中には運というものが存在していて、必ずしもエネルギーの大小だけで物事は結論づけられないのだ。たまたま、今回は色と結果が一致しただけの話。
「ちょっと、君」
ぼんやりと歩いている時に、急に肩を掴まれたので心臓が跳ね上がった。振り返ると見知らぬ男が智也に微笑みかけている。
「少し話がしたいんだが……ひどく疲れてるな。静かになれるところへ行かないか」
とっさに智也の表情と身体がこわばる。先ほどのジュンとの一部始終を見られてゲイとばれたのだろうか。だとして、それで声をかけてくるということはこの男も同士で、ナンパということなのか。
「いや、違う。あ、違わないけど」
「え……」
言葉に出していないはずなのに、男が意味不明ながらも反応したことに智也は驚きを隠せなかった。
「怪しいものじゃないから。今はこれしかないけど、はい」
男が差し出したのは免許証。黒川基、生年月日を見ると智也よりも7歳年上ということがわかった。でも、これだけでは不審情報などはわからない。
「……色が見えすぎて疲れてるんだろ。違うか」
智也は男の発した一言に息をのんだ。