解雇された薬草係は、隣国の薬師院に見つかりました
「リアナ、あなたには今日限りで、聖女様のお世話係を外れてもらいます」
そう告げられたのは、聖女様の私室の隣にある小さな薬湯室だった。
王宮の奥にあるその部屋は、貴族の方々が茶を楽しむための場所ではない。
壁には乾燥させた薬草の束が吊るされ、棚には煮出し用の小鍋や乳鉢が並んでいる。
朝は湿った土の匂いがして、昼には薬草の苦みがこもる。
私は五年間、この部屋で聖女様の薬湯を作ってきた。
けれど今、部屋の中央に立っているのは、私ではなく伯爵令嬢ミレーヌ様だった。
ミレーヌ様は最近、聖女様の相談役として王宮に出入りするようになった方だ。
華やかな金髪に、淡い桃色のドレス。
どこにいても人目を引く、美しい令嬢だった。
その後ろには、聖女様が立っている。
聖女様は困ったように指先を握りしめていたが、私の解雇を止めようとはしなかった。
「理由をお聞きしてもよろしいでしょうか」
私が尋ねると、ミレーヌ様は小さく笑った。
「理由? 簡単なことよ。聖女様の周りには、もっと格式のある者を置くべきだと判断されたの」
「薬湯の準備は、どなたに引き継げばよろしいでしょうか」
「王宮薬師団に任せるわ」
「聖女様は月白草に強く反応されます。摘む時刻と乾燥日数を間違えると、眠れなくなることがございます」
「そういう細かいことを、いちいち大げさに言うところがよくないのよ」
ミレーヌ様の声が少し冷たくなった。
「あなた、自分がいなければ聖女様が困るとでも思っているの?」
私は返事をしなかった。
困ると思っている。
けれど、それを私の口から言えば、平民の思い上がりだと言われるだけだ。
それに私は、ずっと前から分かっていた。
この王宮では、目に見えない仕事は仕事として数えられない。
朝、聖女様が穏やかに目覚めること。
祈りの途中で倒れないこと。
結界の光が夜通し安定していること。
それらは、聖女様の奇跡であり、王宮の威光であり、神のご加護なのだと説明される。
薬草園で泥だらけになっている私の手や、夜明け前に摘んだ月白草の湿り気や、祈りの前に香炉へ落とす粉の量は、誰にも見えない。
「承知いたしました。本日中に記録を整理し、薬草庫の鍵を返却いたします」
私が頭を下げると、聖女様が小さく息を呑んだ。
「リアナ……」
呼ばれて顔を上げる。
聖女様は、何か言いたそうだった。
でも、隣にいるミレーヌ様を見て、結局口を閉じた。
私はもう一度、深く頭を下げた。
「長い間、お世話になりました」
その日の夕方、私は薬草庫の記録帳を机の上に置いた。
月白草は日の出前に摘むこと。
星露草は銀の乳鉢で一度だけ潰すこと。
蜂蜜は火を止めてから入れること。
聖女様が祈りの前に飲む薬湯は、香りを薄くすること。
書けることは書いた。
けれど、すべては書けなかった。
雨上がりの日は乾燥を半日延ばすこと。
聖女様の顔色が青い朝は、月白草を一枚減らすこと。
祈りの前に指先が冷えている日は、薬湯より先に温石を渡すこと。
結界塔の光が青白い夜は、香炉の位置を窓側へ半歩ずらすこと。
そういうことは、手順書だけでは伝わらない。
何より、誰も読まない記録帳にそれを書いても、意味がないように思えた。
私は鍵を返し、王宮を出た。
荷物は小さな鞄ひとつだけだった。
五年勤めた王宮を出るには、あまりにも軽い荷物だった。
◇
リアナという薬草係がいなくなったことを、王太子殿下が知ったのは翌朝だったという。
「聖女付きの薬草係を替えた?」
執務室で報告を受けた王太子殿下は、書類から顔を上げなかった。
「はい。ミレーヌ嬢より、聖女様の周囲の格式を整える必要があるとの進言がありまして」
「王宮薬師団がいるのだろう」
「もちろんでございます」
「ならば問題ない」
殿下は羽ペンを動かしながら言った。
「薬草係ひとりの異動を、いちいち私に報告するな」
それで終わった。
一日目、聖女様は少し眠れなかった。
二日目、祈りの途中で息が浅くなった。
三日目、結界塔の光が夕方だけ揺らいだ。
四日目、王宮薬師団が薬湯の配合を変えた。
聖女様はそれを飲んで、夜中にひどく咳き込んだ。
五日目、結界の外側に小型の魔物が三体現れた。
騎士団はすぐに退けたが、結界塔の管理官たちは顔を青くした。
六日目、王宮薬師団は記録帳の内容をもとに香草を焚いた。
けれど結界の光は安定せず、むしろ細かく震えた。
そして七日目。
聖女様は朝の祈りの途中で倒れた。
王宮中が大騒ぎになった。
「リアナを呼び戻せ」
王太子殿下は、そのとき初めて私の名前を呼んだという。
けれどその頃、私はもう王都の外れにある小さな薬草店で働き始めていた。
◇
「おや、ずいぶん早い帰りだね」
薬草店の主人であるマーサおばあさんは、私を見るなりそう言った。
マーサおばあさんは、私が王宮に勤める前からの知り合いだ。
小さい頃、森の近くで倒れていた私を助け、薬草の見分け方を教えてくれた人でもある。
「解雇されました」
「そうかい」
マーサおばあさんは、驚かなかった。
「王宮は、よく効く薬ほど苦いってことを知らない場所だからね」
「私、苦い薬だったんでしょうか」
「少なくとも、飾りには向いていなかったね」
そう言って、おばあさんは私に湯気の立つカップを差し出した。
「飲みな。今日は冷える」
私はカップを両手で包んだ。
中身は、薄い薬草茶だった。
王宮で毎日作っていたものより、ずっと簡単なものだ。
けれど、その温かさに、私は少し泣きそうになった。
薬草店での仕事は、王宮より地味だった。
朝は店先を掃き、昼は薬草を刻み、夕方には近所の人たちの相談に乗る。
子どもの咳、年寄りの膝の痛み、眠れない母親、食欲のない老人。
大きな奇跡は起こせない。
けれど、小さな不調を少しだけ楽にすることはできる。
「ありがとう」
そう言われるたびに、胸の奥がじんわりと温かくなった。
王宮にいた頃、私はずっと必要とされていた。
でも、大切にはされていなかった。
その違いを、私は店に戻って初めて知った。
そんなある日の午後、薬草店に一人の青年が訪ねてきた。
深い藍色の外套をまとい、胸元には銀の小さな徽章をつけている。
貴族のようにも見えるが、王宮で見慣れた人々とは少し違った。
立ち居振る舞いは丁寧なのに、視線は棚の薬草瓶や干し草の束を忙しく追っている。
薬草を見る人の目だった。
「失礼いたします。こちらに、リアナさんという方はいらっしゃいますか」
私が奥から出ると、青年はまっすぐに頭を下げた。
「突然の訪問をお許しください。私はルフェル王国薬師院のエルヴィン・アルノーと申します」
ルフェル王国。
隣国にある、薬学と治療術で有名な国だ。
王侯貴族の難病治療にも関わる薬師院は、周辺国の薬師たちにとって憧れの場所でもある。
「私に、何のご用でしょうか」
「王宮結界の件で伺いました」
私は思わず息を止めた。
「王宮結界、ですか」
「はい。実は三か月前から、貴国の王宮結界に小さな揺らぎが出ていました」
私は眉を寄せた。
三か月前。
たしかにその頃、結界塔の光が少し不安定になっていた。
私は香草の配合を少し変え、聖女様の祈りの前に薬湯を調整した。
それで表向きの揺らぎは収まったはずだった。
「なぜ、隣国の方がそれを?」
「国境沿いの観測塔でも、微弱な波を拾っていたのです。王宮結界が乱れると、周辺の魔物除けにも影響が出ます。そこで薬師院と結界研究所が共同で調査を始めました」
エルヴィン様は鞄から数枚の紙を取り出した。
そこには、結界の波形と、薬草の使用記録らしきものが細かく書かれていた。
「王宮薬師団から提供された記録も確認しました。ですが、どうしても説明できない点がありました」
「説明できない点?」
「記録上は、同じ薬草を、同じ量で、同じ時刻に使用している。それなのに、結界が安定する日と乱れる日があるのです」
エルヴィン様は、私を見た。
「そこで、薬草の処理に記録されていない工程があるのではないかと考えました」
私は黙っていた。
「さらに調べると、王宮薬師団の公式記録には名前がないにもかかわらず、薬草庫の非公式な受け渡し帳に、何度も同じ筆跡が残っていました。月白草、星露草、眠り蔦、銀香草。どれも聖女様と結界に関わるものです」
エルヴィン様は、少し声を落とした。
「その筆跡の主が、リアナさん。あなたでした」
私は驚いて、何も言えなかった。
私の名前は、王宮薬師団の名簿にはなかった。
私はただの薬草係で、正式な薬師ではない。
けれど、受け渡し帳には確かに私の字が残っている。
薬草の束数、乾燥日数、保管場所、廃棄した葉の量。
誰にも読まれていないと思っていた記録を、この人は読んだのだ。
「王宮から、私のことを聞いたのですか」
「いいえ。王宮薬師団に尋ねたところ、あなたのことは『解雇された下働き』と説明されました」
胸が少し痛んだ。
分かっていたことなのに、改めて聞くと苦しかった。
「ですが、記録と実際の結界変動を照合すると、あなたが薬草を扱っていた期間だけ、結界が異常に安定している」
エルヴィン様は紙を一枚、私の前に置いた。
細い線が上下に揺れている。
その中で、ある期間だけ線が穏やかになっていた。
私が薬草の管理を任されるようになった頃から、解雇される直前まで。
「偶然ではありません」
エルヴィン様の声は静かだった。
「あなたは、薬草によって聖女様の身体状態を整え、祈りの負担を下げ、結果として結界の安定に寄与していた。少なくとも、私はそう見ています」
私は紙から目を離せなかった。
王宮では、私の仕事は誰にも見えなかった。
でも、結果は残っていた。
私の字も、私の手も、確かにそこに残っていた。
「買いかぶりです」
やっと出た声は、小さかった。
「私は正式な薬師ではありません。薬草のことも、マーサおばあさんに教わって、自分で覚えただけです」
「正式な肩書きがないことと、専門性がないことは同じではありません」
エルヴィン様は、きっぱりと言った。
「リアナさん。私は今日、あなたを慰めに来たのではありません。薬師院の調査員として、あなたの知識が必要だと判断して来ました」
その言葉は、優しいだけの言葉ではなかった。
だからこそ、信じられる気がした。
「薬師院では現在、魔力を持たない者でも扱える結界補助薬草の研究を進めています。あなたの記録と経験は、その研究に直結します」
「私の経験が、研究に?」
「はい。特に、聖女様の体調と薬草処理を結びつけて調整していた点は重要です。魔力に頼らず、身体負荷を下げる方法として、かなり価値があります」
エルヴィン様は一度、言葉を切った。
それから、あらためて姿勢を正した。
「リアナさん。ルフェル薬師院に来ていただけませんか」
私は息を呑んだ。
「雇用、という意味でしょうか」
「はい。最初は研究補助員としての採用になります。ただし、薬草管理と調合経験を評価し、正式な給与と住居を用意します。必要なら基礎課程も薬師院で受けられます」
エルヴィン様は、持ってきた書類を私に差し出した。
そこには、私の名前、仕事内容、給与、住居、教育課程、試用期間が細かく書かれていた。
思いつきではない。
同情でもない。
最初から、私を雇うつもりで準備してきた書類だった。
「なぜ、そこまで」
私が尋ねると、エルヴィン様は少しだけ困ったように笑った。
「調査報告書に、あなたの不在後の結界悪化を記載したところ、薬師院長に言われました。『その人物を探してこい。王宮が価値を知らないなら、こちらが雇えばいい』と」
「薬師院長様が?」
「はい。私も同意見です」
エルヴィン様の目はまっすぐだった。
「あなたは、誰にも評価されなかったのではありません。評価するための目を持つ人間が、王宮にいなかっただけです」
胸の奥が熱くなった。
私はずっと、自分の仕事に価値があると思いたかった。
けれど、誰にも認められない日が続くうちに、少しずつ自信をなくしていた。
でも今、私の前には、私の仕事を調べ、数字を見て、記録を読み、必要だと言ってくれる人がいる。
「すぐには、お返事できません」
「もちろんです」
「マーサおばあさんにも相談したいですし、王都を離れる準備もあります」
「お待ちします。ただ……」
エルヴィン様は、少しだけ表情を引き締めた。
「おそらく、王宮からも近いうちに連絡が来ます」
「王宮から?」
「聖女様が倒れたと聞いています。結界も不安定です。あなたを呼び戻そうとする可能性が高い」
私は手元の書類を握りしめた。
王宮。
聖女様。
薬草庫。
薬湯室。
五年間いた場所。
戻れば、すぐに役に立てるだろう。
聖女様の苦しさも和らげられるかもしれない。
けれど、戻ったら私はまた、見えない仕事に戻るのだろうか。
困ったときだけ呼ばれ、落ち着けば忘れられるのだろうか。
「そのときは、ご自分の意思で決めてください」
エルヴィン様は言った。
「薬師院は、あなたを必要としています。ですが、あなたを奪いに来たわけではありません。あなたが結論を出すまで、私はこちらにいますので」
その言葉に、私は少しだけ救われた。
選んでいいのだ、と思った。
誰かに命じられるのではなく、私が選んでいいのだ。
◇
王宮から使者が来たのは、その翌日のことだった。
ただし、最初に店に現れたのは王太子殿下ではなかった。
侍女に支えられた聖女様だった。
薄い外套をまとい、顔色は紙のように白い。
いつも光をまとっているように見えた聖女様が、今はひどく小さく見えた。
その後ろに、王太子殿下とミレーヌ様がいる。
王太子殿下は不機嫌そうに眉を寄せていたが、店先に集まった町の人々の目を気にしてか、声を荒らすことはなかった。
「リアナ」
聖女様が、私の名前を呼んだ。
「戻ってきてほしいの」
私は膝を折り、頭を下げた。
「聖女様におかれましては、お体の具合はいかがでしょうか」
「よくないわ」
聖女様は正直に言った。
「眠れないの。祈ろうとすると胸が苦しくなる。薬湯も、前と同じにならないの」
私は胸が痛んだ。
聖女様を憎んでいるわけではない。
薬湯を飲むときに小さく微笑んでくれたことも、疲れた夜に「いつもありがとう」と言ってくれたことも、覚えている。
けれど、同時に覚えている。
私が外されるとき、聖女様は黙っていた。
私を守る言葉を、選ばなかった。
「記録は薬草庫に残してあります」
「読ませたわ。でも、再現できなかった」
聖女様はうつむいた。
「私、あなたがどれほど細かく見てくれていたのか、何も知らなかった」
私は答えなかった。
聖女様は続けた。
「ミレーヌに言われたの。聖女が平民の薬草係に頼りきりでは示しがつかないって。私も、そうなのかもしれないと思ってしまった」
ミレーヌ様の顔がこわばった。
「聖女様、私はただ、あなたのためを思って」
聖女様は、小さく首を横に振った。
「リアナを遠ざけることを、私は止めなかった。だから、私にも責任がある」
その声は弱々しかったが、逃げてはいなかった。
聖女様は泣きそうな顔で、私を見た。
「ごめんなさい、リアナ」
謝られたかった。
ずっと、その言葉を聞きたかった。
でも、いざ聞いてみると、胸の奥が痛むだけだった。
謝罪は、過去をなかったことにはしてくれない。
失った場所も、傷ついた時間も、戻してはくれない。
「……聖女様のお言葉、確かに承りました」
私がそう答えると、聖女様の目が揺れた。
許した、とは言わなかったからだろう。
そのとき、王太子殿下が一歩前に出た。
「リアナ、王宮へ戻れ」
命令に慣れた人の声だった。
私は頭を下げたまま答えた。
「恐れ入りますが、私はすでに王宮を離れた身でございます」
「だから再雇用すると言っている」
「ありがたいお話ではございますが、私個人の復職は辞退いたします」
王太子殿下の声が低くなった。
「平民が、王宮からの申し出を断るのか」
怖くないわけではなかった。
指先が冷えて、喉が乾く。
けれど、私はゆっくり息を吸った。
「申し訳ございません」
それ以上は言えなかった。
店の奥から、マーサおばあさんが静かにお茶を置いた。
「殿下、聖女様もお疲れでしょう。少し腰を下ろされてはいかがですか」
それは誰かを責める言葉ではなかった。
ただ、場の空気を少しだけ落ち着かせる言葉だった。
聖女様は椅子に座り、細く息を吐いた。
王太子殿下は不満そうだったが、店の中でこれ以上強く出るのは得策ではないと判断したのだろう。
そのとき、薬草棚の前に控えていたエルヴィン様が、静かに口を開いた。
「発言をお許しいただけますか」
王太子殿下が彼を見る。
「誰だ」
「ルフェル王国薬師院のエルヴィン・アルノーです。王宮結界の揺らぎについて、薬師院より調査を命じられております」
王太子殿下の表情が変わった。
「ルフェル薬師院だと?」
「はい」
エルヴィン様は丁寧に頭を下げた。
だが、その声は落ち着いていた。
「調査の結果、リアナさんが行っていた薬草管理は、聖女様の体調維持および結界安定に重要な役割を果たしていた可能性が高いと判断しております」
王太子殿下は黙った。
エルヴィン様は書類を一枚取り出した。
「こちらは、王宮結界の波形記録です。リアナさんが薬草管理を担当していた期間と、解雇後の変動を比較しています」
王太子殿下はそれを受け取り、眉を寄せた。
細かい数字の意味までは分からないのだろう。
だが、線の乱れが解雇後に大きくなっていることは見て取れたはずだ。
「偶然ではないのか」
「可能性は検討しました。天候、魔物の活動量、聖女様の祈りの時間、結界塔の保守記録も照合しております。その上で、薬草処理の変化が主要因の一つと考えられます」
エルヴィン様の説明には、感情がなかった。
だからこそ、重みがあった。
王太子殿下は、初めて私を見た。
まるで、そこにいる人間を今初めて認識したかのように。
「お前は、それほどのことをしていたのか」
私は首を横に振った。
「私ひとりの力ではございません。薬草園を管理する方々、薬草を運ぶ下働きの方々、香炉を清掃する侍女の方々、皆の仕事があって成り立っておりました」
私は震える声で続けた。
「ただ、その仕事は、誰にも正式な仕事として数えられておりませんでした」
王太子殿下は返事をしなかった。
「私は王宮には戻りません」
今度は、顔を上げて言った。
「ですが、聖女様の薬湯と結界香について、最低限の手順は書面にまとめます。それから、お願いがございます」
「願い?」
「薬草係を一人きりにしないでください。薬草管理を正式な職務として扱い、複数人で確認できる体制を作ってください。記録を書かせるだけでなく、読む方を置いてください」
王太子殿下はしばらく黙っていた。
ミレーヌ様が小さく言った。
「でも、そんなことをしたら、使用人の数も予算も」
「黙れ」
王太子殿下の声は、低かった。
ミレーヌ様は肩を震わせた。
殿下は私ではなく、聖女様を見た。
聖女様は青白い顔のまま、静かにうなずいた。
「私からもお願いします」
聖女様は言った。
「リアナ一人に、ずっと甘えていました。同じことを、次の誰かにしてはいけません」
その言葉を聞いて、私は少しだけ胸が軽くなった。
許せたわけではない。
でも、聖女様が自分の責任を見ようとしていることは分かった。
王太子殿下は深く息を吐いた。
「……体制は見直す」
それは謝罪ではなかった。
けれど、王太子殿下にとっては、かなりの譲歩だったのかもしれない。
「リアナ」
聖女様が言った。
「あなたは、どこへ行くの?」
私は少し迷ってから、答えた。
「ルフェル薬師院より、採用のお話をいただいております」
聖女様は驚いた顔をした。
王太子殿下も同じだった。
エルヴィン様が一歩前に出る。
「薬師院として、リアナさんの知識と経験を正式に評価しています。彼女には、結界補助薬草の研究に参加していただきたいと考えています」
王太子殿下は、苦々しい顔をした。
「王宮が解雇した者を、隣国が拾うというのか」
「拾うのではありません」
エルヴィン様の声が、わずかに強くなった。
「迎えるのです」
店の中が静かになった。
私はその言葉を、胸の中で何度も繰り返した。
拾われるのではない。
迎えられる。
その違いが、泣きたくなるほど嬉しかった。
◇
その日の夜、私は薬湯の手順書を書いた。
月白草の摘み取り時刻。
乾燥の目安。
聖女様の顔色ごとの調整。
祈りの前の深呼吸。
香炉の置き場所。
湿度の確認方法。
王宮にいた頃より、ずっと丁寧に書いた。
これは、私を追い出した王宮のためではない。
聖女様だけのためでもない。
これから薬草係になる誰かが、私と同じように一人で抱え込まなくてすむように。
そのための手順書だった。
翌朝、私は手順書を王宮の使者に渡した。
そして、マーサおばあさんに頭を下げた。
「ルフェルへ行ってみようと思います」
マーサおばあさんは、少し寂しそうに笑った。
「そうかい」
「ご迷惑をおかけします」
「迷惑なんて思うわけがないだろう。あんたがちゃんと見つけてもらえたんだ。胸を張って行きな」
私はこらえきれず、少し泣いた。
マーサおばあさんは、私の背中をぽんぽんと叩いた。
「ただし、疲れたら帰っておいで。薬草店の棚は、いつでも一つ空けておくからね」
「はい」
私は涙を拭いた。
店の外では、エルヴィン様が馬車のそばで待っていた。
私が出ていくと、彼はすぐに荷物を受け取ってくれた。
「本当に、鞄ひとつでよろしいのですか」
「王宮を出たときも、これだけでしたから」
「では、ルフェルで少しずつ増やしましょう」
「何をですか」
「道具も、本も、服も、思い出も」
私は思わず笑った。
「そんなに増えるでしょうか」
「増えますよ」
エルヴィン様は穏やかに言った。
「あなたはこれから、失ったものを数えるのではなく、得るものを選んでいくのですから」
その言葉に、胸の奥が温かくなった。
馬車が動き出す。
王都の門が少しずつ遠ざかる。
私は窓から、王宮の塔を見た。
あそこには、五年分の私がいる。
眠れない夜も、悔しい朝も、誰にも読まれない記録帳も、全部あそこに置いてきた。
でも、私の手は空ではない。
鞄の中には、マーサおばあさんが持たせてくれた薬草の束がある。
膝の上には、ルフェル薬師院の採用書類がある。
そして胸の中には、私の仕事を必要だと言ってくれた言葉がある。
「リアナさん」
エルヴィン様が言った。
「薬師院に着いたら、まず院長に会っていただきます。それから、研究室と薬草園をご案内します」
「緊張します」
「院長は少し厳しい方ですが、記録をきちんと読む人です」
「それなら、大丈夫かもしれません」
私がそう言うと、エルヴィン様は笑った。
「ええ。あなたの記録は、きっと喜ばれます」
馬車の窓から入る風に、薬草の香りが混じる。
私は目を閉じた。
王宮を解雇された日、私はすべてを失ったと思っていた。
けれど本当は、違ったのだ。
あの日、私はようやく、自分を粗末に扱う場所から離れることができた。
そして今、私は向かっている。
私の仕事を、私の手を、私の記録を、ちゃんと見てくれる場所へ。
もう、誰かに見つけてもらえないまま働き続ける必要はない。
私は私の知識を持って、新しい場所で生きていく。
王宮を支えていた薬草係ではなく、
ルフェル薬師院のリアナとして。
それが、解雇された私に訪れた、静かで確かな始まりだった。




