第6話
ロットの好きな人は、赤ちゃんのママだった。
赤ちゃんのママを改めてよく見てみると、ふっくらとした丸い頬がリスみたいでとても可愛らしかった。これは、ロットが一目惚れしたというのも納得してしまう。
ロットはというと、耳まで真っ赤になってうつむいている。
やっぱりクレアとは視線が合わない。
ちくりと胸の奥が痛んだけれど、クレアはにこりと笑ってみせた。
「ロットに好きな人がいるって知らなかったから、びっくりしたよ。好きな人と上手くいくように、私も応援するね!」
「え、応援って、どうやって」
「まずは、好きな人とちゃんと話してみたらいいんじゃない? ……あ、うちの食堂が見えてきた。私、先に戻って赤ちゃんの離乳食の準備とかしてくるね。じゃあ、頑張って!」
「クレア? ちょっと待っ……」
引き止めるロットを振り返ることもせず、クレアはその場から逃げ出した。
これでいい。
これでロットは好きな人と一緒に過ごせる。
ロットは優しい人だから、赤ちゃんのママだって、きっとロットのことを好きになる。
食堂の中に入ると、両親が作る料理の匂いがした。慣れ親しんだいつもの匂いに包まれたとたん、なぜか急に涙が出そうになる。
ここで泣いたらダメ!
クレアは慌てて階段をのぼり、子ども部屋に駆け込んだ。
窓からは光が差し込み、部屋の中はとても明るかった。けれど、今はその明るさからも逃げたくて、クレアは青いカーテンを一気に閉めた。
暗くなった部屋。隅っこで膝を抱えて座り込む。
「……なんで、涙が出るの」
クレアとロットはただの幼なじみ。それ以上でも、それ以下でもない。ロットが誰に恋をしようが、クレアには関係ないのに。
関係ない、はずなのに。
胸が痛い。
鼻の奥がツンとして、馬鹿みたいに涙がこぼれ落ちる。
「ロットのことだけは、好きにならないようにと思ってたんだけどな……」
だって、ロットはいつも困っている誰かを見ていて、クレアの方はあまり見てくれない。
ずっとロットの背中ばかり見つめているのは辛かった。
それなのに、胸の奥に生まれかけた淡い気持ちは、いつまで経っても消えてくれなくて。
ああ、これ以上は自分の気持ちを偽れそうにない。
本当は、ずっと、ロットのことが好きだった。
困っている人を放っておけなくて、誰にでも優しくしてしまうロットのことが、どうしようもなく好きだった。
ロットがクレアだけに優しくて、他人には冷たい態度をとるような人間だったら、きっと、こんなに好きにはならなかった。
「ほんと、バカだなあ、私……」
自嘲しながら手の甲で涙を拭っていると、誰かが階段を駆けのぼってくる音がした。騒がしい足音は一度、部屋の前を通り過ぎたかと思うと、すぐにまた戻ってくる。
部屋のドアが勢いよく開かれた。
「クレア! やっと見つけた!」
そう言って現れたのは、よりによってロットだった。
なんで、どうして、今一番顔を合わせたくないロットがここに来るのか。
開かれたドアから入ってくる光がまぶしくて、クレアは膝に顔をうずめる。
「なんでこんな暗い部屋に……って、泣いてるのか!? ど、どうした? なにがあった?」
ロットがクレアのそばに駆け寄ってきて、おろおろとしている気配がする。
放っておいてほしいのに、優しいこの人は絶対にそんなことはしない。
この、博愛精神の塊め……!
「泣いてなんかないよ! だから、さっさとママさんのところに戻って!」
「いや、泣いてるだろ? それに、俺がここに来たのは、クレアが好きな人と話せって言ったから……」
薄暗い部屋で、妙にそわそわしているロット。
まさか、クレアの「応援する」という言葉をうのみにして、赤ちゃんのママと上手く話せるようにアシストしてほしいとでも頼んでくるつもりなのか。
頭にカッと血がのぼり、クレアは思わず立ち上がった。
「さっき、『応援する』って言ったけど、それ、撤回させて。やっぱり無理だから!」
「無理?」
「私はロットのことが好きなの! 小さな頃から、本当はずっと好きだったの! だから、ママさんとのことを応援なんてできない!」
「…………」
ぴしりとロットの動きが固まった。
ただの幼なじみに告白されて、さぞかし困っているのだろう。
でも、ここまで来たら、きちんと振られたかった。そうしないと、クレアはロットのことをいつまでも引きずってしまう。
「初めて会ったとき、『いっしょにあそぶ?』って誘ってくれて嬉しかった。そのときからずっと、ロットのことだけを見てたの。困ってる人を助けてあげるところとか、本当に尊敬してる。いつも優しく笑いかけてくれるところも好きなの。ロットと夫婦って間違われたときも、私はすごく嬉しかった」
「ク、クレア?」
「ロットが私のことを恋愛対象として見てないのは知ってるけど、でも」
「クレア、ちょっと待ってくれ! お願いだから!」
ロットがクレアの両肩を掴んでくる。ロットの手は小さく震えているようだった。
告白もさせてもらえないなんて。
クレアの気持ちは、そんなに迷惑なのか。
涙が頬を滑り落ちていく。喉の奥が詰まったようになり、まるで子どもみたいにしゃくりあげてしまう。
「ああ、もう! 泣くなって!」
ロットの手が肩から離れたと思った次の瞬間、クレアは抱きしめられていた。
突然のことに理解が追いつかず、涙も引っ込む。
ロットはクレアを抱きしめたまま、ひとつ大きなため息をついた。
「あのさ、たぶん盛大な誤解が発生してると思う。まず、俺が好きなのは、赤ちゃんのママさんじゃない」
「…………え? だって、『ぷっくりとしたほっぺ』なんでしょ?」
「うん、そこは間違ってない。でも、それは初めて会ったときの……つまり、十二年ほど前の話だよ」
十二年も前に出会った人だったのか。
それなら赤ちゃんのママではなさそうだ。
「でも、『赤ちゃんを抱っこ』してる、とも言ってたよね? 赤ちゃんのママさんじゃなければ、一体誰なの?」
「『赤ちゃんを抱っこ』してたのは、五年前の話な。しかも、その赤ちゃんは、俺が好きな人の子どもってわけじゃない」
クレアの頭の中が疑問符で埋め尽くされる。
ロットはまたひとつ大きなため息をつくと、クレアを抱きしめていた腕を緩めた。
「鈍い鈍いとは思っていたけど、ここまでとは思ってなかった。いいか、五年前、俺の好きな人が抱っこしてたのは、その人の弟だ。……さすがにもう、俺が誰を好きなのか、わかっただろ?」