第5話
「あの女性、ママさんだ……」
ロットが赤ちゃんと一緒に女性のもとへ急ぐ。
クレアもマークを連れてそのあとを追った。
女性は目を丸くして、こちらを見ている。そして、赤ちゃんに気付いたとたん、涙目になった。
「ゴッちゃん……!」
ママの声に赤ちゃんが「きゃーい!」と大喜びして、小さな手をママへと伸ばす。
ロットが抱っこひもを外して赤ちゃんをママに渡すと、赤ちゃんは今までで一番の可愛らしい笑顔を見せた。
「ごめん、ごめんね、ゴッちゃん。ママは、ママ失格だね」
赤ちゃんは、弱音を吐くママにぷっくりとした頬を押しつけて、幸せそうに笑っている。そんな赤ちゃんをぎゅっと抱きしめて、ママは泣いているようだった。
感動的な親子の対面に、クレアもつられて泣きそうになってしまう。
よかった。赤ちゃんとママが無事に再会できて。
ロットもほっとした表情を浮かべて、クレアの隣に戻ってきた。
かと思うと、クレアに顔を近付けて小声で囁いてくる。
「クレア、ママさんの顔をよく見て」
「え?」
吐息が感じられるくらいの距離に、クレアの鼓動が速くなる。
ロットは何も考えてないのだろうけど、クレアはどうしても意識してしまって落ち着かない。
「ほら、クレア。ママさんの頬の形!」
「わ、わかったから、ちょっと離れて……って、ああっ!」
クレアは思わず吹き出した。
赤ちゃんのぷくっとした頬の形と、ママのふっくらとした頬の形が笑ってしまうくらいそっくりだったからだ。
これは、ロットが頬の形で十中八九親子だと判断した気持ちがよくわかる。
「頬の形って、遺伝するんだね!」
「な?」
クレアとロットは顔を見合わせ、揃ってくすくすと笑ってしまった。
*
赤ちゃんのママの涙も止まり、ようやく落ち着いて話ができるようになった。
ママは目の前にある新しい墓石に視線を下ろす。
「ここに、この子の――ゴッちゃんのパパが眠っています。あの人は、この子が生まれてくるのを本当に楽しみにしていました。『この子はふたりで大切に育てていこう』って、いつも言っていて……。だから私は、ひとりでも立派にこの子を育てなくちゃと思ったんです」
でも、ひとりで子育てするのは大変だった。
赤ちゃんが泣くたびに自信を失い、このままでは自分も赤ちゃんも幸せになれないと追い詰められていく。
「子育てに限界を感じていたとき、商会の跡取り息子さんなら困っている人の力になってくれるという噂を聞いたんです。その人ならきっと、ゴッちゃんにも優しくしてくれると思いました」
「なるほど、それで俺に赤ちゃんを」
ロットは困ったように眉を下げて、人差し指で頬をかく。
「でも、ママさん。赤ちゃん……ゴッちゃんは、俺よりもママさんと一緒にいる方が幸せだと思いますよ」
「いいえ! 私じゃダメなんです! だって私、ゴッちゃんを叩いてしまったことがあるんです! まだ八ヶ月の赤ちゃんだから、泣くのは当たり前なのに、イライラしちゃって許せなくて!」
赤ちゃんを叩いてしまった……?
ママの言葉に、クレアは胸が痛くなる。
弟がまだ赤ちゃんだった頃、クレアも弟の泣き声にイライラしたことがある。
お父さんやお母さんの手伝いをする程度の子育てだったのに、だ。
このママみたいにひとりで子育てしていたら、クレアだって同じことをしてしまうかもしれない。
赤ちゃんのママは涙声で言う。
「こんなママ、ゴッちゃんに嫌われて当然なんです……」
クレアもロットも言葉を失った。
何と声をかけるのが正解なのかがわからない。
強い風が吹き抜けて、周りの木々をざわめかせていく。
ほんのわずかな静寂。
それを破ったのは、他ならぬ赤ちゃんだった。
「あうー! だあ!」
「え、ゴッちゃん? 急にどうしたの?」
手足をバタバタさせて何かを訴える赤ちゃんに、ママが戸惑っている。
そこに、今までずっと大人しくしていた弟のマークがにっこり笑って話に入ってきた。
「あのね、ゴッちゃんのママ。ゴッちゃんはね、『ママ、だいすき』っていってるよ。『だから、わらって』って」
ママがきょとんとした顔になる。
けれど、マークの通訳に「あきゃー!」と喜ぶ赤ちゃんを見て、ママの表情がふっと和らいだ。
「ふふ、本当にゴッちゃんが『だいすき』って言ってくれたみたい。……ありがとう」
心が少し軽くなったのか、ママさんは赤ちゃんとマークに笑顔を見せる。
大好きなママの笑顔に、赤ちゃんは嬉しそうにまた「あきゃー!」と喜びの声をあげた。
*
そろそろ赤ちゃんのお腹もすいてくる頃だということで、クレアたちは食堂に帰ることにした。
もちろん、今度は赤ちゃんのママも一緒だ。
午前十時。
帰り道の途中で見かけた時計塔で時間を確認する。
今、開店前の食堂では、クレアの両親が準備で忙しくしていることだろう。
そんなことをぼんやりと考えているクレアの後ろでは、楽しそうに話す赤ちゃんの言葉をマークが通訳していた。
「たたーた! たったった!」
「『ママがいないあいだ、ロットにいにがいっぱいあそんでくれたよ!』だって」
どうやら赤ちゃんは、ママにこれまでのことを報告しているようだ。小さな手足をぴこぴこ動かしながら、可愛らしい声でおしゃべりしている。
ママも優しく微笑みながら、その報告を聞いていた。
「たーた、だうだう!」
「『きのうのよるは、すきなおんなのこのおはなしをしてくれたの。とってもたのしかった!』って、いってるよ。ふーん、ロットにいにって、すきなおんなのこがいるんだね」
「ぶふっ!」
クレアの隣を歩いていたロットが急に咳き込んだ。ロットは顔を真っ赤にして、何とかしてちびっこたちの話を止めようと手を上げたり下げたりしている。
けれど、赤ちゃんとマークは止まらない。
「あうあーう、たったった、あきゃあ!」
「『はじめてあったとき、ぷっくりとしたほっぺがかわいいとおもった。あかちゃんをだっこしているのをみて、けっこんしたいとおもった。ほんとうにすてきなおんなのこなんだ。……って、ロットにいにがおしえてくれたの!』だって」
ぷっくりしたほっぺ。
赤ちゃんを抱っこ。
クレアにはまるで当てはまらない条件ばかりで、一瞬息が止まる。
ちびっこたちの話を止めるのを諦めたロットが口をつぐみ、気まずそうにクレアから視線をそらした。
クレアは、ロットが好きな人は一体誰なのかと考えて、はっとする。
条件に当てはまる人が、すぐ近くにいるではないか。
――そう、その条件に当てはまるのは、赤ちゃんのママだった。