第1話
「助けてくれ、クレア!」
王都の街にある、小さな食堂。
そのドアを勢いよく開けて飛び込んできたのは、幼なじみのロットだった。
クレアはテーブルを拭いていた手を止め、首を傾げる。
「いきなり、なに?」
「知らない女性に押しつけられたんだ! あああ、俺、どうしたらいい?」
クレアのそばに駆け寄ってきたロットは、その腕に抱いている存在を見せつけようとしてくる。
なんだかトラブルの予感しかしない。正直見たくない。
とはいえ、目をそらすわけにもいかず、クレアはおそるおそるロットの腕の中を覗き込んだ。
「え、赤ちゃん?」
そこにいたのは、まだ一歳にもなっていないと思われる人間の赤ちゃんだった。大泣きした後なのか、赤ちゃんは顔に涙のあとを残したまま眠っている。
昼下がりの食堂に、沈黙が落ちる。
クレアが赤ちゃんからロットへと視線を移すと、ロットは気まずそうにクレアを見つめ返してきた。
「……ロットの子なの?」
「違う! この子、俺に全然似てないだろ!」
「目がふたつ、鼻がひとつ、口がひとつ……そっくりよ?」
「そんなこと言ったら、人間どころか動物まで俺にそっくりになるだろ!」
眠る赤ちゃんを起こさないように、控えめな声でロットが否定する。
まあ、ロットの言うとおり、赤ちゃんと彼は全然似ていないとクレアも思う。
ロットは赤茶色の髪だけど、赤ちゃんは金色の髪。顔立ちに関しても、ロットは全体的にしゅっとした鋭さがあるけれど、赤ちゃんは頬がぷっくりと丸くて柔らかい印象をしている。
偶然にも赤ちゃんと同じ金髪であるクレアの方が、赤ちゃんに似ているかもしれない。
「確かにロットとこの子は似てないし、ロットの子じゃないというのは信じるよ。そもそもロットは恋人すらいたことがないもんね。もう十八歳だっていうのに」
「それを言うなら、クレアだって十七歳なのに恋人なんていたことないじゃん」
ロットがすねたように、ふんと鼻を鳴らした。
大きな商会の跡取り息子であるロット。それなりにモテそうな人なのだけれど、彼には不思議と女性の影が感じられなかった。
一方のクレアも似たようなものだ。
両親が営むこの小さな食堂で働く毎日。お客さんからは食堂の看板娘と呼ばれて可愛がられているけれど、でもそれだけ。
「で? 自分の子でもない赤ちゃんを連れて、なんでここに?」
「クレアは小さな子どもの世話、得意だろ。ほら、まだ五歳の弟もいるし」
「え、もしかして、私に赤ちゃんを押しつけるつもり?」
「まさか。赤ちゃんの世話について教えてもらいたいだけだよ。押しつけられたとはいえ、この子のママがこの子を託す先に選んだのは俺なんだから」
ロットはむすっとした表情をしながらも、腕の中の赤ちゃんを優しく揺らす。
赤ちゃんの口がむにゃむにゃと小さく動いた。
「うーん、とりあえず二階へ行こうよ。店の中じゃ落ち着かないし」
お昼の忙しい時間帯は過ぎているけれど、店内にはまだお客さんが数人ほど残っている。彼らはクレアたちの様子が気になるのか、こちらをチラチラと見ているようだ。
クレアは厨房にいる両親に声をかける。
「お父さん、お母さん! 片付けが途中なんだけど、少し抜けていい?」
「ああ。こっちはもういいから、ロットくんの力になってあげなさい」
「はーい。じゃあロット、こっち来て」
クレアの家は木造の二階建てで、一階が食堂、二階が居住スペースになっている。
クレアは店の奥にある階段をのぼり、二階へとロットを案内した。足音を立てないように注意しながら、子ども部屋へと向かう。
クレアと弟がふたりで使っている子ども部屋。その子ども部屋のドアを開けると、弟がベッドですやすやとお昼寝をしているのが見えた。
弟のマークはまだ五歳。薄い掛け布団を蹴飛ばして、お腹を出したまま寝ている。
今は初夏ということもあり、風邪をひくことはないと思うけれど、それでも心配になってクレアはマークに布団を掛け直した。
ふとロットを振り返ると、ロットは抱っこしている赤ちゃんを優しい目で見つめていた。
こういうところだよなあ、とクレアは思う。
ロットのこういうところを見ると、クレアの胸の奥には何とも言えないむずむずした感情がわきおこる。
ロットは誰にでも優しい。
困っている人がいたら、放っておけない。
男だろうが女だろうが、老人だろうが赤ちゃんだろうが、おかまいなしに助けてしまう。
博愛精神の塊。
クレアは心の中でロットのことをそう呼んでいる。
部屋の中が少し暑い気がして、クレアは窓を開けた。それから、床に散らばっているおもちゃを手早く片付け、ロットに話の続きを聞いてみる。
「さて、赤ちゃんの世話について教えてほしいというのはわかったけど、これからもずっとロットがこの子を育てていくつもりなの?」
「それは無理だ。というか、この子のママを探して、この子を返してあげないといけないと思ってる」
ロットは女性から赤ちゃんを託されたときのことを語り始めた。
今から一時間ほど前。
商会の仕事が一段落して、昼食でも食べようかと街の中央通りを歩いていたロットは、妙に硬い表情をした女性に声をかけられた。赤ちゃんを抱っこしたその女性は、『少しだけ抱っこを代わってもらえませんか』と頼んでくる。
少しだけなら、とロットが快く赤ちゃんを抱っこしたとたん、女性は『あとはよろしくお願いします!』と勢いよく頭を下げ、ものすごいスピードで走り去っていった。
あとを追うにも、赤ちゃんがいると難しい。おまけに赤ちゃんは火がついたように泣き出した。
おろおろしながら赤ちゃんをあやし、ようやく泣き止んだと思う頃には、女性の姿はもうどこにもなかった。
「赤ちゃんを放置するわけにもいかないし、ママさんに返すまでは世話をしようと思ったけど、何をすればいいかわからなくてさ。それで、ここに来たんだ」
「……その女性、本当にこの赤ちゃんのママだったの?」
「十中八九そうだと思う。ママさんと赤ちゃん、頬の形がそっくりだったんだ」
頬の形って遺伝するんだっけ?
クレアは疑問に思いつつ、赤ちゃんのぷくっとした丸い頬を見つめた。
赤ちゃんは汗をかいているのか、金色の細い髪の毛が少し濡れて、額に張り付いている。小さな手はロットの服をぎゅっと握りしめていた。
可愛らしいその姿に、弟が赤ちゃんだった頃を思い出す。
赤ちゃんって優しくて柔らかな匂いがして、抱っこしていると心が温かくなるんだよね……と、当時を懐かしみながら、クレアは鼻から息を吸い込んだ。
――ん? この臭いは?
クレアが顔をしかめるのと同時に、ロットの眉間にも皺が寄る。
クレアとロットは揃って赤ちゃんのお尻へと視線を移した。
間を置かず、ぴくりと赤ちゃんの体が動く。
「ふにゃあああ!」
赤ちゃんの泣き声が、子ども部屋に響き渡った。