サザンカ
「うぅーん。違うな。」
ガタガタと音をさせて、机を移動しようとしている。
その時一緒に、畳を埋め尽くしている紙たちが散らばった。
「あの・・・先生、何をなさっているんですか?」
そのうち、がったん!がったん!と音が派手になっていく。
わたしは、ため息をもらしそうになるのを我慢した。わたしがここに来て何年か経つけれど、この男の人が、何かに集中すると全く回りの音が聞こえなくなってしまうのは、今に始まった事じゃないからだ。とにかく散乱した紙を拾い集めた。
「あの…先生…」
何度目かの呼び掛けで、ようやく先生が振り向いた。
「おぉ!カガミ君。どうしたね?」
先生はようやくわたしの事に気づいてくれた。やっと落ち着いたようなので先生の近くに腰を下ろし、集めた紙束を渡した。
「いえ、原稿をはじめたら、先生、動かないじゃないですか。テコでも。なのに、急に上ですごい音がするものですから…」
「ああ、何だそうか。夕食の準備が出来たのかと思いましたよ。」
あっはっはっはっ とあっけらかんに笑う。
『マッタク…』
わたしは一応ココロの中だけで、ため息をついた。せっかく毎朝きちんと髪の毛をセットしてるのに、夕方頃にはすっかりボサボサになってしまってる…
『まるで、犬みたいだわ。』
「カガミ君。」
「は、はい!」
考え事をしていたから、急に名前を呼ばれて驚いた。それも、先生を見ていて名前を呼ばれたのだから、驚いたなんてものじゃなかった。
『心臓が飛び出るとは、まさにこのことだわ。』
大きく息をついて、胸をなでる。
「…カガミ君?」
「いえ、何でもありません。大丈夫です!」
一応、気にはかけてくれているのか、ぽりぽりと頭をかいて考えているのか、困っているのか、そういうしぐさをした。
「外を、のぞいてみて下さい。」
「?」
言われるままに、窓に近づいた。先生は、窓の前へ置いた机に手をのせ、身を乗り出している。
「綺麗だと思いませんか?」
「アア…」
目の前に広がっているのは、サザンカの木だった。それも小さな森みたいになっていて、花が一面にほころんでいる。
やわかい桃色が、目に鮮やかだ。
「わたしも、長い間ここにいますが、一体誰が植えたのか。美しいじゃないですか。」
それは―
「ですから、今、これが、一番美しく見える場所を探しているんです。」
先生は優しい表情を浮かべて庭のサザンカを見た。
「おい、橘〔タチバナ〕!」
その時、突然背後から声がかけられた。少し低めだが、間違いなく女性の声だ。振り返ると、真っ白なシャツに黒いパンツを穿いた女性が立っている。
「やぁ、マリア君。」
先生は振り返って、手をひらひらさせている。しかし、マリアと呼ばれた女性は相当に嫌な顔をした。
スーツに限りなく近いはずなのに、この人が着るとそれが、相当にラフな服装に見えるから不思議だった。カガミはそんな事を考えながら腰を浮かし、その場から離れようとした。
「あの…お茶をいれてきますね。」
「構わぬ。原稿をとりに参っただけ故。」
わたしは、この人の雰囲気が相当苦手だ。この人は先生”専門”の編集長で(何故、専門かというと原稿が嫌で逃げ出す先生を捕まえられるのが彼女一人だったからだ。)度々この家の敷居をまたぐけれど、やっぱり好意を寄せにくい。今回も逃げ出す口実をつくろうとして、また一蹴されてしまった。
「おい、橘。原稿は?」
「んー 枚数あるかわかりませんけど、ここに。」
指差したのは、確かに原稿用紙だ。さっきまで、わたしが抱えていてきっちりそろえてあったはずなのに、また机からあふれて床まではみ出している。
「わぁぁぁ!先生!大事な原稿を!」
わたしの方が必死になって原稿をかき集めているのに先生はどこ吹く風だ。
マリアさんもすっかり今にもキレそうな顔をしている。
「―で?お前さんは、さっきから外をみて何をニヤニヤしてるんだぃ?」
マリアさんのボルテージがすっかり上がっていて先生が不用意なことを言えば、一触即発の雰囲気だ。
「サザンカですよ。見て御覧なさい。綺麗だと思いませんか?」
「山茶花?」
つられて、マリアさんもどしどしと部屋の中に入ってきた。原稿を平気で踏んづけている。何て編集者だろう…。
怖いのと驚いたので、わたしは泣きそうだった。
「一体、誰が植えたんでしょうか。」
わたしは恐る恐る先生の顔を、横からみた。花を愛でる先生の顔は、少し幸福そうに見えた。
ガンッ!
―え? ガン? って今のは、何の音?
「この虚け者が!」
どうやらマリアさんが、先生の頭を殴った音のようだ。
「おい、お前」と言いながらマリアさんがわたしを指差している。
「これからはこんな鈍感な輩に茶を出す必要なぞ、ないからな。」
全く…ぶつぶつ言いながら、マリアさんが部屋を出ようとした。
「あの、原稿はどうされるんですか?」
「腹の虫がおさまらん。明け方来よう。お前はわたしを迎えなくて構わなんからな。この大ばか者だけ叩き起こす。」
そのまま、颯爽と去っていった。最後まで男らしい方だ。
「え?何、カガミ君。今の会話は、どういう事ですか?もしかして―」
わたしは思わず笑ってしまった。どうして、最初に気づいて欲しい人はこんなにも鈍いんだろう。
「だって、わたしがいなくなっても、先生がこれを見たら思い出してくれるんじゃないかと思って。」
先生は、めずらしくまぬけな顔になっている。
「でも、まさか気づかれていなかったなんて。盲点でしたわ。」
わたしは集め終えた原稿用紙を、先生の机の引き出しからクリップを探してそれで止め、机の真ん中に置いた。
「ページは、ご自分で確認なさってください。」
それはわたしにしては、めずらしく意地悪な言葉だった。
ぽんと、机の上に置いた原稿用紙を叩くと、さっさと行ってしまったマリアさんを追いかけようと思った。
やっぱり見送らないのは失礼だ。
ゆっくりと立ち上がって先生の部屋を出ようとした。
「-先生?あんまり机につっぷしていられると、体に良くないですよ?」
穏やかな風が部屋にひとひらの花びらを運んだ。