滝
滝。
新緑に燦々と注ぐ陽光が滝壺をエメラルドグリーンに照らす。一般的な滝のイメージの荒々しい激流とは程遠い、優しい滝のカーテン。水飛沫はこちらまで来ない。滝周辺の空間がひんやりとしていて居心地がとても良い。
水が落ちてくる。それを見ている。木陰のある岩に腰掛け、足は水に浸して涼をとる。足元の水は透明なのに、深いところは翠に色付いている。読書でもしたいが本がない。
ここには手付かずの自然が沢山ある。滝はその一つ。癒しの空間を独り占めする。侵害する者は誰一人いない、私だけの場所。そこから溢れる全てを享受する。水を吸う植物のように。
「涼しいね。肌寒いくらい。秋が訪れかけているみたい。」
「滝は自然のクーラー。聞こえは良いけどリモコンがないのはちょっと。うう。寒い。」
ぶるっと身震いする。避暑のために久しぶりに来てみたが身体が冷え過ぎてしまったらしい。思い出したように、私は鞄に押し込んでいた薄手の白いカーディガンを取り出して羽織った。
「これでよし。私の気紛れにも困ったね。でも折角だから、次いでに重ねて私の気紛れを一つ。滝って湖の水が落ちてきてるんだよねえ?よく無くならないね。」
「滝の源流ってどうなっているんだろうって考えているんだろう?恐らく当たっているよ。」
水から足を抜く。そして、ちょっと考えて一言。
「行ってみようか。」
「あ、やっぱり。言うと思った。でも珍しいね。フィールドワークだなんて。昔は頻繁にやってたけれど。」
「何にもないんだよねえ。それで結局、とぼとぼ帰ってくる。だから最近は諦めてたよ。広大過ぎるんだここは。」
『この世界は』とは言わない。まるで私以外の存在がいないみたいで悲しくなるからである。知らないことがまだある。それだけで私は生きられる。生かされている。
滝の周りの岩から渓流植物が繁茂している。滝の近くにしか生えない植物達。生活圏内を絞る私に似ていると思った。それが嫌だった。脱植物を掲げて私は滝の源流を目指して登ることにした。
登る。階段なんてない。急斜面を登り、岩や崖に阻まれれば、その度に手で岩そのものや窪みを手で掴んで越えた。見上げてみると、岩の壁と空が半分ずつある。半分この景色。
どれくらい進んだのか分からない。黙々と進むしかない。進捗度や成果が見たいところだけれど、下を見るわけには行かなかった。上を向くしかない。
それでも、ついには阻まれてしまった。これ以上は掴まるところがない。探す過程で興味が勝って、私は下を見てしまう。
「ひっ。」
目の前の段差はついに崖と呼べるほどの高さになっていた。見上げても壁。下を見れば足場としては心許ない岩。ここから落ちれば・・・想像したくもない。
「流石にこれは。引き返そうよ。戻れなくなる。」
「意外と登ってきたんだね。気づかなかった。今度はもうちょっと回り込んで行こう。ここからは進めないことが分かったのだから収穫だね。」
「聞き分けのいい私で助かった。なに、また目指せばいいさ。トライアルアンドエラーが人間のあり方。それで、いつかは成し遂げる。」
林檎の言うことは最もだ。無理をしても仕方がない。私は戻ることを選択した。
「良いこと言うね。誰の言葉?」
慎重に下の岩に足を置きながら私に問う。
「私。」
「流石、私。あっ。」
雨の影響か元々の土が含む水分か。足を置いた岩が抉れて落ちる。身体はバランスを崩し、咄嗟に掴めるものはなく、私はその岩と一緒に落ちる。
「うわあああああっ!!!!」
私がアリスだったなら。目覚めたときは不思議の国。将又、永遠に目覚めることはないのだろうか。不憫な林檎。これが後の万有引力の発見。
落ちる。落ちる。
そこで私の記憶は途絶えた。なんてこった。ここで終わるとはなんとも情け無い。
されど、しかしながら、でもでも。期待を裏切る暗転明け。軽々しく意識を拾いあげる。私はどうやら生きている。神も気紛れだ。私を生かしたのだから。どうやら私に似ているらしい。
身体を起こす。傷はなく、打撲のような痛みもない。木々が落下の勢いを和らげたのだろうか。
「んん?」
キョロキョロと見渡すと、見知らぬ場所だった。
「林檎。大丈夫?」
返事がない。
「林檎?」
「いない!?」
変だ。いつも私の側にいる私がいない。
「林檎ぉぉっ!いるんでしょ!?ねえ、林檎!」
私は叫んだ。崖から落ちたときと同じ、いやそれ以上の声量で。
しかし、呼びかけに答える者はいない。私がいない。その事実を知った瞬間、不安が押し寄せる。私は私の中に私を創り出して私を、私の精神を保っていた。二人の私が私を構成する。自作の半身を失った感覚が私にはある。
半分この私。
「林檎ぉぉぉ!返事してよ!!」
現実が受け入れられない。焦り、視界が涙で霞んでゆく。目をカーディガンの袖で拭う。過剰な目の潤いを拭き取ると、山の木々に囲まれたところに穴を開けるように、遠くに石造りの白亜の寺院があるのが確認できた。距
まただ。訴えかけてくる。私には寺院が気高くて神聖なものだというのが遠くからでも分かった。
人の気配はない。それはここも変わらない。時間の経過など感じられないほどの静寂が続く。
尖って捻れた形をしている。寺院には彫刻が彫られているようだ。炎の揺めきを表現しているような捻れた棘が絡み合って螺旋を形成している。白い炎に包まれた白い寺院。彫刻に囲まれるように中心には階段がある。それが麓まで伸びていて、登れば山の中の寺院に繋がっているようだ。
その一段目が私の今いる場所にある。さっきまでは無かったはずだ。
「うあああっ!行けばいいんでしょ!行けば!」
簡単な話だ。躊躇う時間が惜しかった。縋る思いで入り口へと駆ける。何者かの誘導であったとしても、そこに行くしかない。夥しい畏怖の中に一片の希望を信じて私は寺院に突入した。
階段を三段飛ばしで進んでいく。寺院への距離は月まで続いているのかと思えるくらいにある。私は私がいた場所とは違うこの歪な『世界』から早く抜け出したいと思った。
イレギュラーを楽しむほど暇じゃない。あの場所が恋しい。私は思い出していた。けれど不思議だ。心の中で唸っても、何も思い出せない。
いつから私は存在して生きているのか。私の持っている知識は他に人がいなければ養われないものばかり。言葉はどこで覚えたのか。親はいるのだろうか。当たり前の疑問が浮かばなかったのは何故だろうか。
分からないことだらけだけれど、私はずっとあそこにいた。それでも、私には私がいたから大丈夫だった。寂しくなかった。
林檎。ノリが良くて聞き上手。私と話すと楽しい。私は気遣いも出来る。私は。ちょっとばかし口の悪い私。ちょっとばかし大人びている私。相談に乗ってくれるあの優しい私。
私は私にとって欠かすことのできない存在だ。寺院に着いたら会えるだろうか。確証はないのに足はひたすらに進む。
私との思い出。そういえば、繰り返す日常の中で不思議なことがあった。あの時は私から私が想定し得ない言葉を発されたのだ。
「明日は里帰りに行ってきます。探さないでね。ちゃんと帰ってくるから。」
「なになに?家出?」
「ま、そんなところ。明日は突然、私が私に嫌気が差すんだ。それで私が一日の家出。でも反省してまた戻ってくるんだ。」
「なにそれ。価値観の違いってやつ?」
「・・・里帰りだってば。」
次の日に林檎は里帰りをしたのだろうか。思い出そうとすると電気コードが焼き切れるような感覚がして邪魔をする。
登りの途中、何度か階段が分岐しているのが目についた。近道があるのかも知れない。他に選択肢があるのかも知れない。けれど、何故だか真ん中以外の道を進むことが怖かった。その行為が裏切りに感じた。
「あのとき林檎は止めたんだ。引き返そうって。良からぬことが起きることを察してたのかも。本当は行きたくなかったんだ。滝の上なんて。」
「・・・。」
夜空になっていた。夜が全てを彩色して、白亜の寺院も夜の色に変わっていた。
結局、私は道を変えずに真っ直ぐに突き進んだ。急げ急げと急かされている気がして必死に登った。林檎がいるかも分からないのに。
「したんだ。」
勝手に約束したんだ。いや、同意がないから願っただけかもしれない。誓ったのかもしれない。どんなときも一緒にいると。一緒にいたいと。
だから、私は可能性が有ればそれに賭ける。そのために駆ける。階段に次ぐ階段をひたすらに。
最初に階段を見たときに想定した距離と登っている距離が釣り合わないのはとっくに気づいている。このまま延々と永遠に階段を登る?死ぬまで?
これは私に対する罰なのだろうか。右に別の階段がある。また分岐点だ。普通の人だったらそちらに行ってみようとなる。
しかし、私は頑なにそれをしなかった。分岐点の意味が分かってきたのだ。真っ直ぐに進めば進むほど、他の方向に進みたくなる。それが私には甘い誘惑に感じられるのだ。
一度でも道を変えたらこの場所には戻ってこれない気がした。
「それこそが甘いよ。長い時間の中で私はとっくに狂っているんだから!常人の選択はしない。できない。そんな短絡的な結論に至らない。まだ耐えられる!」
私は諦めなかった。
ついにそれは到来した。到着の瞬間。私は階段を登りきった。登らなければならない段差はもう存在しない。
「やったあ!!!」
歓喜のあまり私は叫んだ。この声は私に届いただろうか。
「痛ったぁっ。」
足が痛む。もっと前から痛かったのだろう。安堵により支えていたものが無くなり、その痛みが強調される。ナイフで刺されたような、蜂に刺されたような。ジンジンとズキズキと。痺れもある。しかも、肺が潰れそうだ。
前に進まない。もう身体を支えることは出来なくなっていた。汗と涙で私の身体の水分は殆ど失われていたと思う。焦燥と消耗で体力は限界だったんだ。
寺院を目の前にして私は・・・私はゆっくりと石畳に倒れ込んだ。地面には自ら光を放つ珍しい白い花が生えていた。私は花を潰さないように手をついて、立ち上がろうと顔を上げる。そうすると、入り口に聳える二本の柱の上には誰かの彫像が掘ってあった。
「人?じゃないよね、まさか。」
目を凝らしたところで暗闇で見えないし、それを鑑賞する余裕はこれっぽっちも今の私には無かった。
「ぐっ。」
私は脇腹を抑えながら、再び石畳に倒れ込んでしまった。
朦朧としてきた。辛うじて維持していた意識が少しずつ遠のいてゆく。
「こんなところで。」
折角、寺院の入り口まで着いたというのに『世界』は炎のように揺らめいて・・・ついには暗転した。
「林檎。」
私は『世界』が終わる間際に一言呟いた。自分の名前を呼んだわけではない。かけがえのないあの人の名前を呼んだのだ。