新しい世界へ
記憶。
覚えている。
人の記憶の始まりは3、4歳だと聞く。体験があっても、それを記憶と把握するのがその年齢にならないと発達しないからだ。
人が成熟していたとしても、記憶が断絶されることもある。それは死。脳機能が停止すれば記憶の崩壊は避けられない。
彼女を見つけたときの年齢は18。平均からすればとても早い。自分が知らない情報や体験に触れることを知らない世界を知るという表現を使う者がいるらしい。言葉を借りるなら、世界を知らない内に彼女の生命は絶たれてしまったようだ。哀れみなんて持ち合わせていない私が彼女だけを運命から救いだした。
理由は偶々、目に付いたからである。今思えば、運命の子に知らない『世界』を見せてあげようと思ったのかも。私が選んだんだ。運命の子に決まっている。
面白い子だ。彼女は私の提示した世界を全て拒んだのだ。白亜の寺院は建造途中。完成することはないだろう。神は気分が乗らず、面倒になってしまったから。
林檎に別の世界を見せて気に入った世界を選んでもらうことは止めた。自分のいる世界が嘘偽りだと何度も心に傷を与えた。もういいだろう。それでも彼女は彼女であり続けたのだから。
かつて人類は天界を目指した。世界が儚いものであると知った林檎なら飛ぶことを躊躇うだろうと予想していたが、林檎は天界に飛んだ。
彼女は私を超えていたのだ。
「まだぁ?」
前置きが長くなった。痺れを切らして林檎が催促する。
「出来たよ。いいんだね。」
「いいよ。但し、記憶はそのままにね。」
時空が歪曲し、裂けていく。紫色の落雷のような光りほとばしる亀裂。人が通れるくらいの大きさの空間を作り出した。
私は彼女に委ねることにした。寛容にも林檎は私の放棄を受け入れてくれた。
「行こうか。」
「うん。久しぶりだね。こんなにわくわくするのは。」
「私はしないぞ。知っているのだから。」
横顔を覗くと満更でもなさそうなのは気のせいだろうか。
「二人だからだよ。私が胸躍らせるのは。」
次から見せる世界は本当の世界。でも、天界を目指したあの世界ではなく、遠い遠い昔。かつての『普通』のあのときに。今の記憶はそのままに。
私と林檎は天界以上の禁忌に突入する。
静かに亀裂は閉じて、この世界は私達を見送った。
過去は変えられない。約束された未来はない。
それでも今後の在りようくらいは私は決めたい。
在り続けるための条件。それは、強いものではないし、賢いものでもない。将又、変化に対応できるものでもない。過程はどうあれ最終的に残っていたものだ。
「足掻こう。」
二人でそう決めた。だから私達は飛んだんだ。
そして再び真っ暗から始まった。
舞台の登場人物みたいに私達だけがライトで照らされている。
「ほら。これ。」
手渡されたのは古びた厚みのある本。表紙はしっかりとしていて、頑丈に中の紙を守っている。私は受け取った本のページを適当に開いて、一文だけを読み上げた。
『あなたは今日私と一緒に楽園にいる。』
「これは?」
「私が生まれた瞬間かな。人間かつ神となった瞬間。」
「んん?難解だね?」
「難解さ。好きに解釈したらいい。ま。それは置いといて。本の内容ではなくて、本の存在が大事なんだ。これは原本だから。正確に時代を辿る上で重要な手掛かりになる。物の情報は生まれた時代に戻ろうとして私達を引っ張ってくれるから。」
「ああ。時空間なんだねここ。今やっているのが時間遡行ね。それで本が作られた時代に向かっていると。」
「え!?なんで林檎がそんな言葉を!?理解が良過ぎないか!?」
満点の回答に林檎は驚く。って、驚き過ぎじゃないですか。口が開いたままだ。
「へへん。冴えてるでしょ。ピカピカでしょ。」
「ん?どういう意味だろう。難解だなぁ。」
「難解だよ。へへん。でも、まさかこんなに泥臭い時間遡行だと思わなかった。私に色んな世界を見せてくれたときは一瞬で世界が変わったのに。」
「時代が古くなればなるほど難しいんだ。それに君が言っていたわくわくのためもある。」
「ロマンチストなんだね。私って。」
「君くらいはね。時空間なら時間は無限だから問題ないし。」
「それなら・・・。」
「それなら?」
ずっとここにいよう。私は林檎にそう言いたかったけれど、言えなかった。それは違う気がしたから。林檎が神として望むことではないのだ。
私は林檎の手を取り、繋ぐ。
「お話しようか。最近はいつもみたいなお話してないから。」
「それもそうだね。思い返せば確かに。私が神として振る舞い過ぎたんだ。すまない。」
「謝ることじゃないよ。あはは。難しくなっちゃったね。ここにちゃんといる。一人なのに二人が。」
「何かが解決するのは期待できない。ただのツアーだ。文字通りのタイムトラベル。しかも、一切の干渉が出来ない。それでも見たいものはある?」
「コッテコテの神さまの林檎を見たい。絶対に笑っちゃう。」
「なんて不敬なんだ。ま、嫌でも見るわな。畏れ慄くがいいさ。昔の私はイケイケだ。」
「自分のこと、我とか言ってたの?」
「・・・ノーコメント。」
言ってたんだ。
「林檎にはもう一度見たい過去はないの?」
「したいことならあるよ。」
「何をしたいの?」
「忘却。」
「え?」
聞き返す間もなく、突如、放射した光に吸い込まれて二人は消失した。