アーティファクトの翼Ⅲ
香ばしくて甘い匂いに包まれていた。嗅いだことがある。よく私が焼いていたっけ。最初は焦がしていたけど、ちょっとずつ上手くなっていって、今では世界中の誰が食べても絶賛するくらいのものを作れるようになった。その世界中の人と神が大好物のスコーンがテーブルにある。
「スコーンを焼いたんだ。メープルシロップをいっぱいかけて。さあ、椅子に座って食べよう。紅茶もある。砂糖は二個、だよね。」
「・・・バーベキュー味?」
「そっちのやつじゃないな。手作りだ。」
私は席に着いて、瓶に入ったシロップをかけた。皿に自分の顔が反射するくらいに大量のシロップに浸かったスコーンをひょいと拾い上げて溢れないように齧った。
「美味しい。サクサクにとろーり。あまあまでジュワジュワ。」
「うん。そのオノマトペならよかった。作った甲斐があった。」
林檎が私の反応に嬉しそうにする。
「林檎は食べないの。」
「後で食べるさ。お茶だけいただくよ。」
紅茶をカップに注ぎながら林檎が言った。
「ふふ。あの神っぽさは何処に行ったの。レーズンがどうちゃらこうちゃら言ってた林檎は。なんだか私に気を使っているみたい。顔に書いてあるよ。話したいことがあるって。」
「raison d'être (レゾンデートル)な。存在意義か。忘れちゃったよ。ごめんなさい。私の完全なる負けでいいよ。敗北。惨敗。」
「別に競ってないよ。あちっ。」
ふー。ふー。とティーカップに息を吹きかけて冷ましてから、もう一度口を付ける。今度は飲めた。これも美味しい。アールグレイの爽やかで渋い味がする。
「私の根負けだ。君には沢山の絶望を味合わせてしまった。せめてこの時間くらいはお菓子とお茶を味合わせたくなってね。」
「うん、ありがとう。とっても嬉しい。私はね。色々な世界に連れてって貰えて良かったと思ってる。勿論、嫌なこともあった。林檎を恨むこともあった。死を選んだことも。でもね。いつしか林檎の気持ちが痛いくらいに分かってしまったの。大切な人に自分がどれだけ嫌われようとも、幸せになって欲しいという気持ち。それを本人が望んでないとしても。」
私は続けた。
「これからどうしようか。流石に疲れたかなぁ。当分はいいや。」
「そうだね。でもいつかはどうにかしないとなあ。」
「いつかってのは?」
「君達でいうところの十年くらいかな。話そうじゃないか。どうやら私は話したいことがあるという顔をしているらしいからね。私が君の願いを変えようとしていた、いや。している理由を。その詳細を。」
「まだ諦めてなかったの。林檎は。」
「まあね。それに、明かさないままだと寝付きが悪くなる。君と世界との出会いと別れ。確かにそこに人はいたはずだ。失われてしまったけれど。」
「確かに生きていたよ。みんな。」
「他人のいる世界を君にという私の望みは変わりないけど。あちっ。」
ティーカップに注いだ紅茶はまだ熱かったようだ。猫舌だから私達は。息を吹いて紅茶を冷ます林檎。
「結局、それをしないと私は存在を続けられないんだ。人としても神としても。ええと、それっていうのは、林檎を、君を人のいる世界に置くってこと。存在っていうのは濃度みたいなもので。」
林檎がカップを手に持ったスプーンで示して、私に目を向けさせた。
「ほら。茶葉が人々の信仰だとしたら、紅茶の濃さが私の存在。薄いと何の種類の茶葉かは分からないけど紅茶だというのは分かるでしょ。で、茶葉を足していけばその味わいと香りで特定できる。概念的な神が人という具体に変わるためのものが信仰。差し詰め、忘れ去られることが水とかお湯ってところかな。」
「へえ。だから林檎は私を急かしたんだ。神にとっての十年なんて林檎にとっては一秒くらいかな。自分が失われていく感覚はあるの?」
「あるよ。残りが灯火くらいあれば助かるんだけど、種火くらいだ。いや、私の存在はいいんだ。それよりも、やらなければいけないこと。君が私の望みを拒み続けた今、もっと難しくなった。」
「というと?」
「君の望みは現状では期限付きということ。私との時間こそがあと十年。力が薄れていく。私はもう神ですらないのかもね。」
「教えて。やらなければいけないこと。それはなに?」
その言葉を聞いて、林檎はわざとらしく溜息をついた。
「ふふ。やっぱり君は十年じゃ納得しないか。嬉しいなあ。こんなに想って貰えるなんて。天秤にかけたとして、数多の世界と私は釣り合うのだろうかな。」
「どっちも大きすぎて天秤皿には乗らないから比べるものじゃないよ。でも決めなきゃならない時が来たみたいだね。」
「流石、私だ。いいよ。その覚悟があるなら。やらなければいけないこと。即ち、私の秘めていた悩みを最も信頼できる君に打ち明けよう。」
「随分と軟化したね。神さま。」
「揶揄うなら言わないぞ。」
頬を膨らませて、むすっとしている。こんな顔するんだ。
「あっ!いや!ごめんっ!教えて!」
「冗談だよ。じゃ、教える。天界と翼の話。覚えているかい?」
「忘れるわけないよ。」
「そう。よかった。」
「あれなんだけど。本当だよ。君はあのとき、私を諦めさせた。よりにもよってあの世界で。実在した世界で。」
「え?」
林檎が見せた世界。サンプルと呼んでいた。彼女が諦めるまで、私は数多のサンプルを見てきた。その内の一つ。一つの物語。
あれからどれくらい経ったのだろう。神様にとってはスコーンの焼き上がる時間くらいかも知れない。
林檎がテーブルを人差し指の爪でコンコンと叩いた。
「天界はここ。酷いものだ。何もない。君が一人でずっといたあの場所から。よくぞ辿り着きました。」
「かつて誰かが願った願い事。それは天界を創れというものでした。私は創りました。天界はある。人間にとってはとても長い期間を経て、それが人間の共通認識となりました。」
「しかしながら、神の創った天界は人間には行けない場所でした。人々は翼を手に入れたならその地へ行けると信じていました。」
「・・・人々は皆が天界を目指しました。」
「神は一人だけ人間を救出しました。サンプルとして。」
私は林檎の語る話の内容を理解してしまった。
「あぁ。そんな。そんなのって。」
あの世界には誰もいません。いなくなりました。アーティファクトの翼で飛び立ったのでしょうか。