sparkle
※ 主人公の引きこもりと少しだけ暴れたりする描写や少女が母を失うエピソードがありますので、シリアスや重めのお話が苦手な方はご注意ください。
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パシッ パシッ パシッ
地面をリズムよく打つ、小気味いい音。その音に女の子の甲高い笑い声が重なる。
カーテンをそっとずらして二階から外を見ると、向かいの家の小学生の娘が、一生懸命に縄跳びを練習している。
二重跳び。なかなかうまく跳べない。足に絡まる縄。
その度に、かたわらに座った女の子のお母さんが、あーあ惜しいーもうちょっとだったのにぃと、大袈裟に手を打ってのけぞりながら笑った。
それは一週間に一度の光景。学校も仕事も休みの土曜日。お昼過ぎ。肌寒い秋の初めに、陽だまりの中で嬉しそうにはしゃぐ女の子の笑顔。
外の世界は眩しすぎる。
外の世界は幸せすぎる。
家から一歩も出られない私には、外の世界は眩しすぎて、きっと耐えられないだろうから、いつまで経っても、この六畳間からは抜け出せない。
外の世界の生気に満ち生き生きとしたパワーにはとうてい打ち勝つことなどできやしない。そんなものを浴びてしまったら、きっと心臓が押しつぶされて、玄関の前で横たわってしまうだろう。
だから、このまま引きこもっていようと、私の世界は六畳間がすべてだった。
✳︎✳︎✳︎
それから二ヶ月が過ぎ、本格的な冬が到来した。
もう学校の体育の授業で、縄跳びをやらなくなったのか、それともただ単に寒いからなのか、最近は向かいの家の母娘の縄跳びの練習を見なくなった。
玄関の階段脇に打ち捨てられたようにとぐろを巻く縄跳び。虚しさの象徴のように思えて、私は握っていたカーテンを閉めようとした。
その時。ガチャと開いた玄関のドア。そうか今日は土曜日だ。ようやく縄跳びの練習を再開するのか。
けれど女の子は、縄跳びの練習には不向きのスカートを履いていて、しかもなんだか黒っぽい服に身を包んでいる。
並んで出てきたのは、あまり見かけたことのない、背の高いお父さんらしき人。その男性も黒いスーツを着ていて、私はなんとなく嫌な予感がした。
お母さんの姿がどこにもない。
二人が並んで玄関の前に立つ。
そして、そっと。お父さんらしき人が、娘の肩に手を回して引き寄せた。
その瞬間。私は理解して、理解して、理解して。
胸の中が洗濯機のようにぐるぐると渦が巻き始めた頃、一台のタクシーが家の前に停まった。二人が乗り込んだタイミングで、私はカーテンを全開にした。
タクシーが走り去っていく。その後ろ姿。小さな黒髪の頭が、ゆらゆらと揺れている。
その姿が見えなくなるまで見送ってから、私はようやくカーテンを引いた。
ことり。
六畳間のドアの向こう側でいつもの音がした。その音で昼食の時間だと気がつく。ドアを開ければいつも、温かい食事がお盆に乗せて、用意されている。
ママが何度もドアの真ん前に食事を置くものだから、ドアで食器をぶつけてしまって、そのことで私はブチギレて、何度そのお盆をひっくり返したことがあっただろう。
ガチャンと激しく割れる食器。飛び散る汁。宙を舞う箸。下の階から響いてくる、鬱々とした泣き声。
うどんもひっくり返した。ラーメンもひっくり返した。
理性も知性も失った獣のごとく、何度、廊下にぶちまけたことがあっただろう。
今日は静かにドアを開けて、お盆を取り上げる。メニューは焼きそばとマグカップに入れられた玉子のスープ。スープからは湯気がゆらゆらと立ちのぼり、お盆を持ち上げた私の頬を、そわりそわりと覆っていく。
以前はほとんどのスープが手作りだったけれど、最近はインスタントだ。ママの体調が悪いからと、パパがドア越しに私を説得しにきたから知っている。
私は焼きそばを食べながら、向かいの家のお母さんは死んでしまったんだ? と思った。あれはお葬式だったのか?と。
あの優しい笑顔。娘の縄跳びの練習を見守る、あの笑顔。練習で失敗しても笑い、成功しても笑い、大袈裟に手を叩いて笑う。娘のことが可愛くて愛しくて仕方がないというような、あの心の底から満たされた笑顔。
外の世界は眩しすぎる。
外の世界は幸せすぎる。
けれど、外の世界の今日という日は1ミリも幸福ではなく、それどころか沈没船のように、不幸の深海へと静かに沈んでいく。
Q. そんな日に私はいったい、なにをやっているのだろう?
頭の中に、sparkle。チカ。チカ。光っては消えていく。
線香花火のような。導火線をじりじりと食んでいく火花のような。夜空で瞬く恒星のような。
Q. 私はこの六畳間で、いったいなにを生み出している?
炭酸水の泡のような。それはsparkle。
私の中で生まれては消えていく。
その一瞬の煌めきを掴み取るのは、自分次第なのだとわかっているのに。
焼きそばを食べていた箸をお盆の上に置いた。
突然思い立って、部屋から一歩、出る。ぶちまけたラーメンの汁の染みがついた廊下を進み、壁紙をビリビリに引っ掻いて破いて回った階段を、一段一段と降りていって、キッチンに入る。
ママの前に立った。
ママの驚愕した顔が、いや、恐怖に引きつった色を失った顔が、ぼろぼろとなったこの家と出口のないトンネルのような生活を、如実に物語っていて。
sparkle。
Q. 縄跳びの女の子や、私のママが泣いているこの瞬間に、私はあの六畳間でいったい?
「前の家のお母さん、どうしたの?」
「え? あ、……な、亡くなったの」
「いつ?」
「……昨日」
想像通りだった。
もう娘の縄跳びの練習を見守る、あの笑顔は見られない。幸せは誰かによってもたらされるのに、それももう感じることはできない。
私は、ふらっと玄関へと向かった。着た切り雀のパジャマのままで。ずっと履いていなかったクロックスに足を突っ込むと、久しぶりすぎてかかとがはみ出した。その小さくなってしまったクロックスが、六畳間で過ごした日々の長さを鮮明にする。
玄関のドアノブに手を掛け、私は大きく息を吸って、んっと息を止めてから大きくドアを開けた。
外の世界は眩しすぎる。
外の世界は幸せすぎる。
一瞬にして目の前が光に包まれる。
冬とはいえ、太陽の光は容赦なく降り注ぎ、私の瞳や肌を焦がしてゆく。その眩しさに慌てて目をつむり、そして止めていた息を目一杯、吐き出した。
「眩し」
手で顔にひさしを作りながら、今度は息を吸い込んだ。なんの匂いだろう? 隣の家が昼食を作っているのだろう? 焼うどんとか焼きそばとかだろう? ママが作った昼ごはんと同じ匂いがした。
私は一歩踏み出し、家の門を開ける。
そして道路を横切って、向かいの家へと進んでいく。半開きの門から入り、階段脇に落ちていた縄跳びを拾い上げた。
そして遠い昔によくやっていたように、同じ長さで畳んで、ひとつ結んだ。縄跳びは使い古されていて、ところどころが擦り切れてささくれだっている。持ち手の白い部分は黄色に変色し、プラスチックが永遠でないことを知った。
その縄跳びを、玄関のドアノブに引っ掛けた。
このうちの女の子は、お母さんを失った悲しみで、縄跳びなど当分できないだろうと思う。お母さんとの思い出が辛く、もう一生、縄跳びで遊ぶことをやめてしまうかもしれない。
けれど、もしかしたら女の子が成長して、愛する人と結婚し、生まれてきた娘か息子と、あんな風にして笑いながら、また縄跳びを練習するかもしれない。
なぜか不思議な気持ちになった。
私はそんな気持ちを、その場に置いたまま家に戻る。
玄関にママが立っていた。
「乳がんだったんだって」
外の世界は眩しすぎる。
外の世界は幸せすぎる。
けれど今日という日の外の世界は、完膚なきまでに不幸すぎて。その「乳がん」という病名を、私はきっとこの外の世界で一番に憎むだろう。
その憎しみは、眩しい世界の産物だ。
まだ間に合う、まだ間に合う。
クロックスをぞんざいに脱ぎ捨てて、ママの横をするりとすり抜け、階段を思いっきり駆け上がる。もといた六畳間に飛び込むと、私は何年振りかの洋服をタンスから引っ張り出して、手早く着替えた。鏡台の前に座り、髪にブラシを入れる。多少の外ハネを許容してから、机の上に置きっ放しのブタの貯金箱からお金を出した。紙幣と小銭。そのすべてをポケットに突っ込んだ。
外の世界は眩しすぎる。
外の世界は幸せすぎる。
このお金で近所のスーパーの中にある靴屋に行って、新しいスニーカーを買おう。小さくなったクロックスはもうゴミ箱に捨ててしまって、そして文房具店に寄って、縄跳びを買おう。
お母さんを失った少女は、これからだって生きていく。私の抱えた憎しみよりも何十倍、何百倍も、お母さんを奪ったその病を憎みながら。
こんな私だって、生きていく。私のせいで病んでしまったママの具合が良くなって、手作りスープを作れるようになるまでは。そうだ、スーパーで野菜を買って帰ろう。なんなら一緒に作ったって良い。二重跳びはできないけど、野菜を切るぐらいなら、たぶん私にもできるはず。
まだ間に合う。間に合うはずなんだ。
太陽があるから眩しくて。陽の光で煌めいて。冬だから温もりが暖かくて。愛があるから光り輝いて。
六畳間の片隅で、そう気づいた日。
それは、sparkle。外の世界で生きるなら、誰かの愛情と引き換えに、そんな一瞬の小さな気づきを、ひとつひとつと手に入れていく。
この世界の日常は、たくさんの暖かいもので満ち溢れていると知った、
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