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空を行く雲、流れる水のごとく  作者: 原 徹生
第1章 日本編 Ⅰ948-1978
8/24

流雲は大学に入学する。1967年ベトナム戦争反対のワシントン20万人大行進が、流雲激動の時代の始まりだった。

[3] 激動の時代に


3-1 反戦運動


 1967年4月10日。

 流雲は18歳になり美大に入学した。流雲は自分の好きな絵画に専念できると夢を膨らませていた。

 多摩美術大学は、1935年に多摩帝国美術学校として、田園風景の広がる東京玉川の上野毛村に開校する。流雲が入学した当時は、キャンパスに古い木造校舎本館と3階建てコンクリート造の新館公舎があるだけの小さな大学キャンパスだった。田園風景のなかに建つ新校舎は斬新でモダンな姿を見せていた。


 1967年4月15日。

 セントラルパークから国連ビルまで、ベトナム戦争反対のワシントン20万人大行進が行われた。”We Shall Overcome”の歌声と共にマーティン・ルーサー・キング博士やハリー・ベラフォンテ氏の行進シーンが世界中に放映された。

 日本国内でも、同日に清水谷公園から米国大使館まで、べ平連主催のベトナム反戦・日米共同デモ行進が行われ、”We Shall Overcome”の歌声が流れた。

 フォークシンガー Pete Seeger は「この黒人霊歌は100年以上かけて白人と黒人が作り上げてきた歌」とコメントし、この黒人霊歌を歌い継いできた。

 流雲は「Joan Baez Live in Japan」のコンサートを思い出していた。ジョン・バエズが朗々と歌った”We Shall Overcome”の心に沁みる歌声を思い起こしていた。今も、あの歌声が心に響いている。


  1967年5月。

「Student Movements」の反戦運動激化がアメリカから伝えられた。反戦運動は世界の大きな畝りとなり、日本にも波及し不穏な空気が全国の大学に伝播し始めていた。

 6月になると流雲の美大キャンパスでも、全学連主催の抗議集会や決起集会が連日繰り返された。当初、大学の民主化や大学自治への問題定義だった。

 大学の定義について「学問を知的に探求し批判する精神がユニバーシティーの自由や自主独立に不可欠である」と叫び、学生参加の民主的な自治を要求した。自治改革を訴える授業ボイコットの運動がエスカレートし学内バリケード構築に流れていった。自治改革を訴える学生運動が、何時しかベトナム反戦運動と連動し、大学キャンパスの学生運動は日に日に激化し政治色を強めていった。


 流雲の思い描いていたキャンパス・ライフとは程遠く、愉しさに包まれたのは入学直後の数か月間だけだった。土がむき出しの埃っぽいキャンパスに、連日、アジが飛び交いバリケードが築かれ剣呑な空気に包まれた。キャンパスは殺伐とした姿に変貌していった。


 1967年6月9日。

 京都でベトナム反戦全関西統一集会が開催され、関西各地の大学から約3,500名が参加し関西から反戦の火の手が燃え上がった。 

 日本政府は国内の米軍基地の戦争使用を国民に秘匿し、ベトナム戦争の後方支援を積極的に行っていた。深夜の新宿駅から戦闘機や爆撃機用のジェット燃料を極秘に貨車で運んでいた。そして連日、沖縄の米軍基地から爆撃機が北ベトナムに飛び立っていた。 


 1967年10月8日。秋晴れの日。

 青空の心地良さと裏腹に紛争の激化を伝えるニュースが伝えられた。

 米国の北ベトナム爆撃停止と原子力航空母艦エンタープライズ寄港を阻止する決起大会が各地の大学キャンパスで開催され、反戦運動は西欧諸国と連動し燃え盛った。

 第一次羽田闘争。羽田空港周辺で三派系全学連が佐藤首相の南ベトナム外遊阻止のデモが実施された。11月には、首相訪米阻止の反戦デモは急進的な学生だけでなく、市民も参加する大規模集会になった。

 この二つの反戦デモは、デモ隊と警官隊双方にかなりの負傷者を出した。デモ隊の一人が機動隊のバスにひかれて死亡した。この反戦デモを契機に、学生達はヘルメットに角材やゲバ棒で武装するようになった。


 1968年1月。新年を迎えた。

 年明け共に、世界の不穏な空気が伝えられた。共産主義国家チェコスロヴァキアから民主化の動きが伝ってきた。文学者や知識人や学生の間から民主化と自由化を望む声が強まり、言論の自由を保障する民主化運動が高まった。『プラハの春』と呼ばれた。首都プラハの街をミニスカート姿でプラカードを掲げ行進する姿が伝えられた。東欧で始まった民主化運動は、世界の変革を予感させる出来事として伝えられた。


 1968年4月。

 米国からキング牧師の暗殺が伝えられる。キング牧師の暗殺直後にロサンゼルスやセントルイスなど大都市圏を中心に、全米125の都市で一斉に暴動の嵐が吹き荒れる先進国アメリカの脆弱さが伝えらえた。公民権運動の燃え上がりと共に黒人に対する人種差別が日常化し、リベラル派と人種差別を擁護する保守派の対立が激化する様がテレビで放映された。


 日本国内では、アメリカの運動に煽られるように学生運動が激化し東大闘争や日大闘争が本格化した。東大医学部生の不当な処分と医学部腐敗の抗議から始まった運動は、安田講堂占拠へとエスカレートした。

日大全共闘の活動は、大学側の20億円使途不明金の問題提起が発端だった。大学側の対応の悪さが学生の不満に火を付けた。学生運動は一気に政治運動化すると全国の大学に飛び火し、大学改革の嵐が吹き荒れた。

 当初、流雲は大学改革と反戦運動にシンパシーを感じフォーク集会や反戦集会に参加していた。ところがその集会は徐々に平和を求める反戦運動とは大きく掛け離れ、反対する為の暴力的な暴動に変革し、学生運動へのシンパシーを失い始めていた。

 流雲の美大にも美共闘が設立され、大学の校門前は数百人のヘルメット姿の学生達が埋め尽くされた。校門前でアジびらが配られ、ハンドスピーカー持ったヘルメット集団が大声で演説していた。

 教室を探し辿り着くと、教室の周りには不安な顔を浮かべた級友がが集まり顔を突き合わせていた。誰も、どうして良いか分からず、全員で事務局に行った。結局、明日から大学の休講が確定した。


 1968年5月。

 パリから、学生が主導する労働者と民衆の一斉蜂起によるゼネストのニュースが伝えられる。学生達は、ゼネスト運動をフランス革命からロシア革命、キューバ革命、文化大革命へと至る「革命の歴史」に導く、『パリ五月革命』と位置付けた。そしてキューバ革命のチェ・ゲバラと文化大革命の毛沢東を「アイコン」に掲げ運動を推進した。

『パリ五月革命』の理念は、新しい社会の創造を予感させる熱量がありフランスの古い体制に治まらないカウンター・カルチャーやヒッピー文化の潮流を起こしフランスの現代化を推進させた。この潮流は世界各国の学生運動や若者文化に影響を与えた。

『パリ五月革命』の1968年の学生運動に因って、世界中の若者は理念、思想、哲学を共有し激しい政治運動の流れを起こしていた。


 当時、大学キャンパス内の壁新聞に『パリ五月革命』を始めとする欧米の学生運動の活動状況が逐次掲示されていた。どうやって最新情報を入手し壁新聞に掲示できたのか。不思議だが、大学の壁新聞には世界の学生運動の最新活動報告が掲示されていた。


 1968年6月。

 遂に、美共闘は大学をロックアウトした。美共闘は反体制を唱えながら、学内デモを行なっていた。その活動は次第に暴力化し、日展などを権威の象徴とみなし攻撃を加え非常に大事な資料や美術作品を破壊した。その活動にポリシーは無く、アートを志す学生が美術品を破壊し機動隊員に石を投げる。学生達は暴力をふるう自分達に自己陶酔していた。

 大学の全ての授業は停止され、教室の入り口も幾重にも、うず高く積まれた机でロックアウトされた。教授陣は何の策も無く、援助の手を差し伸べることもなかった。


1968年 6月5日。

 故ジョン・F・ケネディ米大統領の実弟、ロバート・F・ケネディ上院議員が、ロサンゼルスで大統領選の選挙活動中に暗殺される。


 何処でボタンが掛け違えたのか。何時の間にか。東大騒動以後の学生運動は過激化の一途を辿り、日本全国の大学は暴力に支配され機能不全に陥っていた。

 美術やアートが語られる時、何時の時代も平和な心が求められる。流雲はそうした心豊かな時間を求め本格的に美術を学ぶことを夢見て大学に入学した。ところが入学直後から大学は不穏な空気に覆われ、美術に触れる機会は奪われた。

大学はロックアウトされ一向に解除される兆しは見えなかった。聞こえてくるのはエスカレートする学生運動の暴力化。機動隊にゲバ棒をふるい投石を正当化する運動とアジテーションに、流雲は共感できなかった。流雲の目指す世界は何処か遠くに行ってしまった。そんな無力感を感じ、大学への魅力を失い始めていた。




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