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空を行く雲、流れる水のごとく  作者: 原 徹生
第1章 日本編 Ⅰ948-1978
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流雲は高校生になり、若者文化の洗礼を受けた。『平凡パンチ』から始まった若者文化アイビーファション、ビートルズに刺激を受け…

2-3 高校時代

 

 1960年代以降、日本中が日々豊かになるのを流雲も実感していた。道端のどぶ板が消え、雨の日にぬかるむ路地が舗装され木の電柱も消えた。日本中がその豊かさに向かっている。周りの環境が、日々に変わって行く。そんなことが子供にも実感できた時代である。三種の神器と言われた白黒テレビ、電気冷蔵庫、洗濯機に電気釜が加わり家電製品が普及し生活が便利になったのを実感した時代だ。


 この2年間、東京オリンピックに合わせて新幹線や高速道路の工事が行われ、東京はそこら中で道路が掘り返されていた。その割には都民のオリンピックへの関心度は低く、オリンピック記念切手や記念メダルの売れ行きは振るわず、オリンピック人気は今ひとつだった。「東京五輪音頭」がパチンコ屋の店頭から流れる程度の盛り上がりだった 

 東京都は外国からのお客さんに見られても恥ずかしくないようにと一大キャンペーンを張り「ゴミはゴミ箱に捨てる。痰を吐いたり、立小便をしたりしないように」パンフレットやポスターで呼び掛けていた。それまでのゴミのポイ捨て禁止で街頭にゴミ箱が設置されたり、駅のホームの痰壺が置かれたりした。


 若者文化が大きく花開いたのもこの年だろう。1964年に若者文化を牽引する週刊誌『平凡パンチ』が創刊された。『平凡パンチ』は、若者の流行風俗を発信する上で欠かせない雑誌となり、若者ファッション情報の原点となった。

 この春、流雲の暮らしにも大きな変化があった。実家が改築された。ちゃぶ台が消えダイニング・テーブルに変わり、ソファーに座るリビングルームに改築されステレオとカラーテレビが置かれ暮らし向きが一気に西洋化した。


 1964年、昭和39年。流雲は白金学院高校にエスカレーター式に進学した。

 クラスメートの大半は白金校に入学したが、この年に開校した全寮制の東村山校に約1/3のクラスメートが入学した。 登校すると、学校中にライシャワー米国大使が少年に刺された事件が伝えられ、重苦しい風が学校中に流れた。


 白金学院高校にも変化があった。最先端のアイビーファションを着こなす若い英会話教師がアメリカからやってきた。アメリカから来た若い英会話教師ハリス先生の自由で華やかなアイビー文化は生徒達に大きな影響を与えた。

 ハリス先生のアイビーファッションのカッコ良さに生徒達は憧れた。薄鼠色の上着を着た日本人教師に比べ、ポロカラーシャツにセーター、チノパン、チェックジャケットにスラックス、白ソックスにローファーやブレザー、ツィードジャケットやブルゾンなどを着こなすハリス先生のファションは、新鮮で本場アメリカの風を伝えた。タータンチェックのジャケットに身を包みスクターに乗って通学する姿はカッコ良かった。

 ハリス先生の授業中に語る思い出話は、華やかなアメリカのキャンパスライフやポップカルチャーへの憧れを掻き立てた。ちょうど、アメリカのポップカルチャーが流行り始めた頃である。1961年1月にキングストン・トリオ、翌1962年4月にブラザーズ・フォー、1963年にはピート・シーガーが来日した。1964年にブラザース・フォアの来日を『平凡パンチ』が伝えると、これが若者のフォーク・ブームの火付け役となった。


 英会話教師のハリス先生は全生徒に英語名を命名した。授業中は英語だけの授業が行われた。

流雲は”Peter"と命名され授業中は”ピーター”と呼ばれた。普通の英会話授業から1950年代末にアメリカで流行ったウディ・ガスリー、ピート・シーガー、ボブ・ディラン、ジョーン・バエズやピート・シーガーのアメリカン・フォークの詩やビートルズの英語詩を学ぶユニークな授業が行われた。

 

 ハリス先生は、白金学院高校のアイビーファションのお手本となった

 その頃、日本にも若者ファションを牽引するVANやJUNなどアイビールックのブティックが誕生した。高校キャンパスの奥にある大学キャンパスには都会の洗練されたアイビーファションを装った女学生の華やいだ雰囲気に包まれていた。大学キャンパスを覗くことは、流雲と学友達にとって、眩しいほどに自由で刺激的な花園だった。

 アメリカのポップカルチャーに影響を受けたVANやJUNのアイビーファションが流行り始めた頃、流行のファションに身を包み週末に銀座に出掛けるのが、流雲達白金学院生の遊びになった。3つボタンのジャケットにボタンダウンシャツ、コットンパンツのスタイルに身を包み、銀ブラするのが流行した。週末になると、友達と銀座ソニービル前で待ち合わせて、あてもなく、みゆき通りや並木通りや西5番通りのお店をぶらぶらする。『平凡パンチ女性版』を片手にしたファショナブルナな女子高生に声を掛けて、銀座ウエストや資生堂パーラでコーヒーを飲む。そんな週末の楽しみ方が流雲達に流行った。


 秋になると、王貞治のホームラン数の話題が流雲達のトップニュースだった。9月に入ると野村克也の本塁打記録52本を一気に抜き去り、話題は何本のホームランを打つのか。皆ドキドキしながら、巨人戦のテレビ中継に釘付けになった。5月の巨人阪神戦で4打席4ホーマーという記録をたたき出していた。

 遂に、9月23日最終戦の対大洋ダブルヘッダー第2試合の雨中の5回裏に佐々木吉郎投手から55本目のホームランを記録した。

 10月10日のオリンピックの開幕が迫ると、世間を騒がしたのは五輪マネー汚職だ。東京都庁は腐敗の巣窟と連日新聞に叩かれていた。もう一つは、海外から「あんなに空気が汚いところでマラソン選手を走らせるのは人権問題ではないか」という批判の声が上がった。それ程東京のスモッグ問題は深刻だった。幸いにも、開会式前夜に大雨が降りスモッグを洗い流し青空の開会式となった。

 東京の大気汚染が酷くたんを吐く人が多くいた。「痰は痰壺たんつぼに吐きましょう」という運動が行われ、駅のホームに白い陶器の痰壺が設置されていた。隅田川や神田川、多摩川には各家庭から出る生活排水が流れ込み、悪臭を放っていた。

 オリンピックに人気スポーツは少なく入場券の売れ行きは悪く、サッカーの試合では都立高校生を動員して観客席を埋めていた。人気を集めたのは柔道と体操競技。特に体操女子個人総合優勝のチェコスロバキアのベラ・チャスラフスカ選手が「五輪の名花」と騒がれ多くの人を魅了した。閉会式の行進はだらけた無秩序のだらしない行進となり国民に不評の開会式となった。

 また、オリンピック期間中の10月16日に中国が核実験を実施した。2日後の10月18日に新潟市内に放射能の雨が降った。

 

 1965年、高校2年生になる。

 週末には、相変わらず銀座みゆき通りに遊びに出かけていた。

 最近、新たに流行ってる遊びがフォーク・バンド。クラスの中にギターが弾ける人間を中心にフォーク・バンドが、幾つも結成された。

 流雲もクラスメイトに誘われバンドに参加する。流雲はギターとドラムを演奏する清和に誘われ、双子兄弟の正樹と直樹がフルートとベースを演奏する『TWINS+2』のバンドを結成する。

 正樹と直樹の家にはスタジオがあった。正樹達ファミリーは、家族で演奏会を開く程の音楽一家だった。流雲は3人からギターの手ほどきを受けバンドで演奏できる程度に上達した。

 暫くすると、白金学院大学のフォーク・ジャンボリー主催者から、高校生グループの参加を呼びかけてきた。ローカルの小さな『Hootenanny』に参加するようになる。演者と観客が一体となるアメリカ生まれのフーテナニーのコンサート・スタイルは、流雲に音楽の楽しさを教えてくれた。

 秋に渋谷公会堂で開催する『1965 Hootenanny Shibuya』に流雲達のバンド『TWINS+2』が招待された。

『TWINS+2』は高校生バンドには珍しく、ドラムとフルートの入ったフォーク・バンドとして注目された。白金学院高校から3グループの参加が決まった。

『TWINS+2』が演奏したボブ・ディランの『風に吹かれて( Blowin' in the Wind)』は評判が良かった。

 バンドリーダーの清和はフルート、ベースに生ギターの音がボーカルにかぶさる音作りをしていた。ボブ・ディランの物悲しい叫びの詩に思い寄せていた。

 フーテナニーの参加は、流雲に音楽の持つ高揚感と一体感を実感させた。森の中に佇む高揚感とは異なるが、音楽が奏でる共鳴感を強く意識した。

 フーテナニーは定期的に開催され、競うように参加するようになった。


 流雲の高校時代のハイライトは、高校3年生の時にビートルズの音楽を肌で感じたことだ。中学時代からビートルズの音楽は流雲達に大きな影響を与えた。

彼らの音楽は全てが新しく、画期的でオリジナリティに溢れていた。それまでの歌謡曲とは異なり、自分達で作詞作曲しプロデュースするロックに憧れた。

 アメリカンフォークとは異なるロックのビートと情状的な詩の世界は、流雲達若者の心を掴んだ。ポップカルチャーの創始者のスターがビートルズだった。


 1966年6月30日。

 武道館ビートルズ・コンサートは異常な警戒態勢の中で始まった。

 コンサート・ホールに座って音楽を聴くこれまでのコンサートとは全く異なった。ビートルズ・コンサートは熱狂の時間を共有し、身体で音楽のパワーとリズムを感じるコンサートだった。開演前から熱狂に包まれ、会場全体が騒然としていた。前座のスパイダーズやドリフターズの演奏が終わる。

 7時30分過ぎにビートルズは、ダーク・グリーンの大きな襟の黒い上下のビートルズ・スーツのファションでステージに登場した。

「Rock and Roll Music」の 強烈なサウンドが鳴り響いた。3階席から見るビートルズは小さかったが、奏でるサウンドは大きかった。それでも、歌声やサウンドは僅かに聞こえる程度だった。座席の周りの女の子達は、絶叫し立ち上がり大声を上げて歌っている。

「Baby's In Black」「I Feel Fine」と続き、名曲「Yesterday」が流れると最高潮に達した。最後に「Paperback Writer」「I'm Down」と続きコンサートは興奮の中終了した。 

 コンサートは時間共有し体験することだと知った。入手困難な2,100円のチケットを入手し、初日と最終日の二度コンサートに足を運んだ。

 コンサート後の記者会見でジョン・レノンは「今欲しいものは何か」と尋ねられた時に「Peace」と答えた。その平和主義の言葉がヒッピー・ムーブメントの始まりだった。


  ベトナム戦争が本格化する不穏な気配がアメリカから伝わってきた。

 1966年6月29日に米軍機がベトナムのハノイ市ハイフォン市を爆撃を公表した。この頃から、アメリカ国内の反戦運動の激化が伝えられた。日本人の対米感情も悪化し始めた。


 流雲がベトナム戦争の激化を身近に感じたのは、高校卒業の年1966年にハリス先生が本国に帰ることなく、ベトナムに派兵された時だ。

 ハリス先生の訃報が伝えられたのは、ベトナム派兵の半年後だった。先生はベトナム戦争に反対する平和主義者で授業中にも平和を絶えず訴えていた。ハリス先生の戦死を悼む礼拝が、全生徒が参加し礼拝堂で執り行われた。 

 この一連の出来事により、流雲は初めてベトナム戦争を身近に感じた。


 この年に深夜放送が始まる。流雲達は深夜放送を聴きながら、受験勉強するのが習慣化し、誰もが午前2時、3時頃までラジオを聞きながら勉強していた。


 東京に戻り暮らした5年間は、流雲にとって満ちたりた青春時代であった。

 欧米文化の流入に触れ多大な影響を受けたり、森の神秘を知りカンナビと交信したり写生に熱中したりと揺れ動く学生時代を過ごした。

 流雲はこの穏やかな時代が、何時までも続くと思っていたのだが.......。


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